ペトロ 下口 勲

丸尾教会10年の回想

はじめに

わたしは昭和51年4月、初代主任司祭であった片岡久志神父様の後を継ぎ2代目の主任司祭として上五島町丸尾小教区に着任しました。わたしにとって丸尾教会は最初の主任司祭としての教会でした。丸尾教会はわたしが赴任する3年前まで青砂ヵ浦小教区の巡回教会でしたが、青砂ヵ浦教会の竹山涼神父様が主任司祭であった昭和51年4月、有川湾が一望できる集落のほど中央部に立て替えた新しい鉄筋コンクリートの教会でした。赴任当時上五島地区で司牧されていた主任司祭は、大曽教会は峰師、仲知教会は永田師、鯛ノ浦教会は熊谷師、真手の浦教会は平松師、桐教会は小島師、曽根教会は村中師、土井の浦教会は浜崎靖彦師、浜串教会は山川師であったと記憶しています。赴任当時の年齢は32才で、上五島の10名の司祭の中では一番若さと活力に満ちていた。初代の片岡神父様の在任期間は3年でしたが、2代目のわたしの在任期間は10年にも及びました。丸尾教会の信徒には長い間、大変お世話になり深く感謝しておりますが、他方、長かった10年の間にどれほど信徒のために尽くしたか、どれほど司祭としての功績があったのかまったく自信ありません。

丸尾教会時代に思い出に遺るような大きな行事ほとんどしていません。むしろ、信徒のために誠実に司祭としての使命を生きることは出来なかった、という後悔の気持ちの方が強い。平成時代の最初の10年を“失われた10年”といわれましたが、丸尾教会に10年間も失われた10年だったかもしれません。しかし10年一昔といいます。10年間も司牧していれば、いろんなことがあったわけで今現在主な思い出を簡単に振り返ることにしたい。

聖務

司祭の務めとして主に3つの使命があります。福音宣教の使命、秘蹟を執行して信徒を聖化する使命、交わりと一致に向けて小教区共同体を一つにまとめあげる使命です。丸尾集落は当時役場の所在地で、新魚の目町で一番人工が多い新興集落でした。県道を堺にして海岸側には他宗教の信徒が住み着き、山手にカトリック信徒の居住地となっていました。現在納骨堂が建っているところに白亜の旧教会堂が建っていましたが、わたしが赴任したときにはすでに解体され、新たに納骨堂が新築されていました。赴任当時の信徒の職業は商業、建設業などさまざまでしたが、特に青方、奈良尾、浜串方面の大型巻き網船で働く信徒が多かったです。それと地元の信徒経営の野中組に雇われている信徒も多くいました。当時の家族は子供がかなりいる若い世代の家族でした。わたしの主な仕事は初代の主任司祭が結成された若いお父さんたちの集いであった“土曜会”の指導を引き継ぐこと、平日のミサと主日ミサの司式と説教、冠婚葬祭、教会下にあった青空保育所に勤める青砂ヵ浦お告げのマリア修道院のシスターの協力を得て子供の宗教教育を行うことでした。

子供の信仰教育

キリスト者の生活は道、真理、いのちであるキリストに従うことにあります。そして要理教育の目的は、キリストの神秘です。だれかが単にキリストに触れるだけでなく、キリストとの交わり、またキリストとの深い親しみに入るところにあります。実際キリストだけがわたしたちを聖霊において御父の愛に導き、至聖なる三位のいのちにあずからせることができるからです。さて、上述したように、わたしは大司教館時代に里脇大司教様の要理教育の模範と感化を受けて最初の任地の丸尾で司牧しました。丸尾では特に宗教教育に力を入れた訳ではありませんでしたが、その頃は上五島のどの小教区でもかなりの子供たちがいました。丸尾教会にも一学年に10人平均の子供たちがいましたので、おのずと子供の信仰教育が主なわたしの仕事になりました。年齢が若いこともあり、教会の周辺で大勢の子供たちと一緒に遊んだり、要理を教えたりすることは、司祭としての大切な任務だという自覚を持ち続け、わたしなりに要理の指導に励んだつもりです。初聖体組のケイコと小学生低学年の要理教育は青砂ヵ浦修道院のシスターで、白菊保育所で保母として働いていたシスター方に奉仕してもらい、小学生高学年と中学生の要理はわたしが担当しました。

 

丸尾教会に赴任したときは、まだトリエント公会議後のキリスト教教義を簡単に問答形式でまとめたものは発行されていませんでした。教材として用いた基礎的なテキストは里脇大司教が問答形式の要理の本でした。この要理書はそれまで長崎教区で使用していた要理書の内容を踏襲しながら、第2バチカン公会議のキリスト秘儀の神学を繁栄させて編纂した改訂版で、第1部は信条、第2部は秘跡、第3部は神の十戒という構成になっていました。キリスト教の真理の大要は説明だけでは十分でないと思い、堅信式の1年前からは特にこれをテキストに説明しながら、問答過剰を暗唱させることに力を注ぎました。しかしそれ以外の時には主日ミサの準備として信徒に配布していた「聖書と典礼」をテキストにして秘跡中心、聖書中心の指導を行いました。というますのは、その頃はまだトリエント公会議後の「ローマ教理問答」にあたるような全教会的の要理書は発行されていませんでした。司祭はそれぞれの独自のテキストを準備して要理の指導をしていました。わたしの場合、巡回教会がない教会でしたので他の小教区で働かれていた先輩司祭よりも、時間のゆとりがあり、求道者と子供の要理の指導の方法はどうあるべきかを知るために第2バチカン公会議の公文書と第2バチカン公会議後、典礼学の指導者として活躍していました土屋吉正師が書かれた著書は何度も熟読しました。またオリエンス宗教研究所発行の「聖書と典礼」の手引きを購読しました。そうすることで、第2バチカン公会議の神学思考は、トリエント公会議基礎にあった体系的神学ではなく、キリスト秘儀と救いの歴史ということばで度々繰り返されているように、キリスト秘儀、救いの歴史の総合であるということを知りました。教話の内容の中心となるべき本来の対象は、キリスト秘儀であるから、単なる知識ではなく、典礼的場で共体験されることによって最も効果的に伝授されるということが分かったのです。そこでわたしは秘跡の実践を通して行われるキリスト中心の秘跡教育を目指すことにしました。

第2バチカン公会議は典礼憲章の中で、典礼は教会の活動が目指す頂点であり、教会のあらゆる活力の源泉であると述べ、教会の宣教活動の中心に典礼を考え、特に典礼のおける聖書朗読の意義を明らかにしている。さらに神のことばの宝庫である聖書がより広く読まれ、信者がそれによって豊かに養われるように、ミサの朗読配分を完成させた。わたしはこのような理論のもとに、主日のミサを中心に聖書を学び、児童の学年にあわせて教話を準備するようになりました。主日ミサで記念される主イエスの救いのひとこまを基にした教話がミサ参加の大人にも子供にとっても最も基本的な宗教教育で、もともと初代教会での教話は典礼の場で実施されていたのです。具体的には主日ミサの準備として用いていた「聖書と典礼」をテキスト代わりにしました。

 

ところで、いくらこちらが熱意をもって教話をしても、わたしの力不足と準備不足ために、せっかくのキリスト秘儀の説明が聞き手の子供に理解できない、伝わらないことがありました。子供には教話が理解出来ないわけですから、集中力を失い、騒ぎだすわけです。騒ぎ出すとその原因の多くが自分にあることを忘れ、ついつい子供を怒る、叩くという、あってはならないことが起こるわけです。今日では教育の現場における暴力や体罰は人権を無視する行為として社会悪として糾弾されていますが、丸尾教会での小学生の要理のケイコのとき一度だけ体罰をした苦い経験があります。子供から神父様と敬語で呼ばれるうちに慣れてしまって、子供が神父に従うのは当たり前と思ってしまっていたのでしょう。そしてある特定の子供が騒いで、注意しても、反抗的な態度になったとき、怒りをコントロールできなくなりついつい叩いてしまいました。しかし叩いたあとの何ともいえないイヤな気持ちは心の中でいつまでも心の中にしこりとなって残りました。それ以来、体罰はすまいと固く誓い、現在に至っています。

その他の信心業

5月の聖母月と10月のロザリオの月になると、小学生を教会祭壇前に大勢集めて、ロザリオ信心をしました。巡回時代の教え方でした野中ナミさん時代からの習慣で、めでたしの祈りを一人一人がかわりばんこに先唱して元気よく祈っていたのが印象に残っています。また、夏休みになると、将来の想い出になるようにと思い、子供たちを旅行と巡礼に佐世保や長崎に連れて行きました。何人かは子供たちの中から神学校と修道院に送ることもできましたがその多くは途中で退会し、賄いの末娘馬込なり子さんだけがお告げのマリア修道院のシスターになりました。わたしの時代に丸尾教会から野中神学生が廣島教区として、立花神学生が東京教区司祭として司祭に叙階されましたが、現在教区司祭として大きな活躍をして下さっていますことはうれしい限りです。また、丸尾教会時代においては、お告げのマリア青砂ヵ浦修道院のシスター方に、主日ミサ、平日のミサ、冠婚葬祭の典礼奉仕と小学生の信仰教育に献身的な奉仕をしてもらいまいた。こころから感謝しています。

土曜会

毎月の土曜会の集いは楽しみの一つでした。毎月の会費は1,000円。その資金で新魚の目経営団経営の定置網に季節毎に捕れた鮮魚を浜の価格で購入し、自分たちで調理して一緒に食しながら交わりを深めていたことは楽しい思い出となっています。普段は個人ではなかなか口にできない高値の魚をいただくことがありましたのでとても美味しくいただきました。葉鰹などはしっぽを除けばみんな腸も刺身に、頭もすてないで、包丁で細かくたたいてから味噌で和えすれば、美味しくいただくことができました。油ののった寒ブリなどは醤油よりも味噌でいただいた方が美味しかった記憶があります。当時はカラオケブームで、土曜会のメンバーには歌を得意とする人が多く、土曜会の例会ではカラオケで賑わいました。特に馬込安平氏と森務氏の司会により、会員もれなく歌いましたが、特に印象に残っているのは江山氏と浜上氏の個性に満ちた格好で歌う姿です。二次会では土木業社長の野中氏の家でこれまた珍しい熊本産の馬肉や普段は高くて飲めないロイヤルウイスキーをいただきながら夜半まで騒ぎました。名前は誠蔵でしたが、わたしたちは普段彼を野中の“社長”と呼んでいました。彼自身が賑やかな方で、座を盛り上げることに長けていました。わたしは酒に弱く、しかも眠り上戸のタイプでしたので、早めに切り上げはいました。しかし当時はそれでも夜半近くまでつきあってみんなと交わって楽しんでいました。土曜会のメンバーと浦上教会の金曜会のメンバーがそれぞれの教会を訪問し合って交流したこともよい思い出として今でも記憶に残っています。土曜会はかた苦しい規約などなく、壮年であれば、だれでも自由に参加できる気軽さと雰囲気がありました。いつも飲んで騒ぐばかりの会ではなく、教会奉仕のことも心がけ、教会や司祭館のペンキ塗り替えなど男でないとできない奉仕をしていました。また、後では家族同伴の旅行を計画し、一緒に巡礼旅行するようにしました。わたしの頃のメンバーは熟年になりましたが、いまでも土曜会活動が存続しているのはすばらしいことです。

定例役員会と福音宣教

定例役員会だけは司祭館で定期的に開催していました。役員会議は提示されたテーマを審議する場です。人にはそれぞれの顔があるように、その人の意見を持っている。満場一致で決まることもあれば、ときには意見の食い違いにより確執や対立が生まれることもある。信徒同士のトラブルに巻き込まれることもあれば、役員と対立することもあった。その場合に信徒に非があったのか、司祭のわたしに非があったのか、何ともはっきりしない思いが残ることもありました。役員会でひとたび分裂や対立が起こると、和解することはむずかしくなる。一度は主任司祭のわたしの許可なく、信徒の役員が司祭館でなく、信徒の家で役員会議を開催したことが判明しました。どうしてそういうことをしたのか、当時の私には分かりませんでした。時を同じくして体調を崩し、長崎市の成人病センターで一泊二日の人間ドッグの検査をしてもらいました。結果は別に病気はない、強いて病名をつけるなら自立神経失調症である、こういう病名はよく学校の先生など人間関係のこじれから起こることがある職業病であり、たぶんあなたも同じ病気です、ということでした。丸尾の役員には若さのいたれりで、知らぬ間に自分の考えに固執し続け、信徒に犠牲をかけてきたことが何回もあったにちがいない。しかしこのような意見の対立などが起きた場合に森商店の森與四郎さんが顧問長としてわたしを補佐し調整してくれていたのでしばしば助けられました。かれは温厚な方で、教会全体のこと、主任司祭のわたしの視点で常にものごとを客観的に判断できる有能な顧問でした。役員同士の意見の相違のため会議が紛糾することが時としてありましたが、彼の賢明な仲裁で何度も救われたことでしょう。彼の存在が対立の静める中和剤となっていましたし、時として仲裁役となって下さいました。彼の家に食事の接待を受けることがあり、個人としても親しいつきあいをしました。定例役員会議でのわたしの議長としての役割は単に提出された議題を審議させることだけでない、評議員相互の意見を尊重して常に丸尾教会の信徒の交わりと福音宣教の務めを丸尾小教区という地域のニーズに合致した行事を創出することでした。しかし丸尾集落は集落の半分が他宗教者であることや、似首、榎津、浦桑集落などの近隣の集落も他宗教の集落であり、成人に要理を教えて洗礼を授けるという伝統的な意味での宣教は他小教区に比較してむずかしい地域でした。このような事情もあって、宣教の成果はほとんどなかったことは司祭としていつも悩みの種になっていました。しかし他宗教の方とは小中学校や町民運動会のときには一般他宗教の信徒と、小中学校の卒業式などには招待を受け、小倉町長、教育長、教育委員会の職員、町会議員の三役、地域の町議、学校の校長と一緒に食卓を囲みながら交わって友好を深めていましたが、そのようなときは丸尾教会信徒の議員野中八郎氏がいつも一緒でしたので心強く感じていました。それにしても新魚目町の集落や町の慶事があるたびに町の主立った人が祝いにかけつけるという風習はよい伝統であったと思っています。

教会行事と事業

ここで取り上げるほどの教会行事は何もしていませんが、あえて何をしたかと問われるならば、思い起こすのは運動会と聖母月行列です。特に新魚目中学校のグランドを借りて小教区主催の運動会を今でも開催したことは覚えています。教会の改修工事など事業で記憶に残ることもほとんどありません。小さな事業なら、司祭館の横に信徒会館を新築したこと、それに教会内陣の模様替えをしたこと、大工としてまた、指物師として当時上・下五島各地の教会の改修工事をなさっていた岩本工務店に依頼して、正面の内陣全体に絨毯を張り、その上に十字架を黒檀のご聖櫃を造ったこと、信徒席右側の玄関を活用して、告白部屋にしました。また、野中組から重機を借りて土曜会のみなさんと教会前に庭造りにして植栽をしたこと、旧墓地で不要となっていた墓石を活用して土曜会全員が参加して、重い墓石を担ぎ、教会の案内板を設置したこと、二股左官の協力を得て教会玄関前にマリア像を建立したことも想い出なっている小さな工事です。いずれの工事も教会内の内装工事を除けば、役員会や土曜会の定例会などで議題としてしっかり討議された事業であったと思います。この信徒との対話の実りとしての事業であったことは評価さるかもしれません。仲知時代にはお葬式のときなど丸尾教会を訪問する機会が何度もありましたが、正面の黒檀の聖櫃を見るたびに喜んでいました。それは材質が高価であるだけでなく、丸尾教会の中心として光って見えていたからです。上五島の教会を紹介しているパンフレットの中にも丸尾教会の聖櫃がカラー写真付きで紹介されていました。それに気づいたわたしは一般の写真家にも丸尾教会の聖櫃が被写体のふさわしいように見えたのではないかと推測しています。

 
 

釣りとテニス

32才の若さで最初の主任司祭として上五島丸尾教会に赴任してからの10年間の司牧期間にわたしは前半を釣り、後半を仲間とテニスをすることを趣味にして過ごしました。ある年、浦桑郷岸壁で開催された4級の免許の実技に合格し、免許を取得すると、さっそく4人乗りの船外機付きフラスチック船を購入し、丸尾集落の港を基地にして有川湾周辺で舟釣りを楽しみました。有川湾内から頭島方面に向かって流し釣りでイトヨリ、アオナ、沖アラカブなどを釣り、浦桑と似首郷海辺での砂浜ではキス釣り、丸尾港前の瀬や似た首の海岸や頭島の磯で、何度も持ち船からクロ釣りを楽しみました。釣果はいまいちでしたが、昼間の釣りのためか、夜釣りのように大きなクロは一度も釣ることができなかった。夜釣りは早朝ミサの関係で控えました。

秋になると、新魚の目町浦河郷の釣り好きな方が、有川湾のほぼ中央部に位置する瀬にチコ鯛が産卵のために群れをなしていることを発見し、他の人には知らせず、オキアミ付きのサビキ仕掛けでチコ鯛釣りをしていました。それにいち早く気づいたわたしも同じ仕掛けのチコ鯛つりを挑戦すると、面白いように800グラムくらいの大きさのチコ鯛がクーラー一杯釣れました。爾来、早朝ミサが済むと、釣り場に急行し、朝から晩まで一日中チコ鯛釣りにはまりました。しかし、チコ鯛釣りはサビキとオキアミなどかなりの資金が必要でした。それを毎日続けるとかなりの負担になりましたので、せめてえさ代だけでも取り戻そうとして、ある日、チコ鯛を佐世保行きの鮮魚船にトロ箱に並べて出荷した。ところが未信徒の方から神父が金儲けすると批判されましたので中止しました。また、最初のころは時間を忘れて釣りに昂じていましたので、着替えもしないで小学生の要理のケイコをすることがありましたが、そんな時、子供たちからオキアミの臭いの苦情を何度も受けました。あるときは船酔いしているのに、頭島付近でクーラーボックス一杯になるまではアラカブ釣りを頑張り続けたこともありました。さらに釣りの帰り道、荒れ狂う突風にもてあそばれ、大波に飲まれて、転覆しそうになりました。後でその様子を目撃していた信徒から注意を受けることがありました。

丸尾教会司牧の後半になると、大曽教会に3才後輩浜口末男師が赴任、浜串教会には先輩の堤好治師が着任する。二人とも外海町出津教会出身でタフなスポーツマンで知られる。それまで一人で舟釣りをしていたわたしは、二人からジョギングとテニスに誘われ始めた。ジョギングは苦手なので誘いには乗りませんでしたが、テニスは学生のときに軟式をしていたことがあったのでつきあうことにした。軟式でなく、公式テニスでしたが、毎週火曜日、有川の総合グランドのテニスコートを借りてタフな二人から基本からみっちりと教えら鍛えられました。練習する内に楽しくなり3人で試合ができるようになった。爾来、真夏であろうが、真冬であろうが、一日中三人で一対一の試合をして過ごした。肉体的な疲労のため頭痛に悩まされることがよくありました。聖体がテニスのボールに見えると言って友人を笑わせることもあったし、火曜日以外にもライバルの仲間をテニスに誘い、テニスコートの水がたまっている箇所があれば、雑巾で水を吸い取り、二人だけで試合をしたこともある。堤師はテニスだけでなく、バスケットやサッカーも得意でしたので、ときには休みで帰省していた神学生なども誘って奈良尾町中山のグランドでサッカーをすることもあった。
 
 

将棋

月曜日になると、わたしの召命の恩人青砂ヵ浦教会の竹山涼師から電話で呼び出され、大曽教会の峰師と一緒に青砂ヵ浦の司祭館2階の竹山師の居室で将棋の手ほどきを受けました。いつもは先輩の峰師と私とが試合をし、竹山師は二人が指す将棋を見て楽しむ、という感じでした。大先輩の竹山師は浦上助任時代から里脇司教さまと互角に勝負できる腕前で、わたしたちが勝負を何回挑んでもいつも負けてばかりでした。竹山師の青砂ヵ浦教会主任の期間は20年以上でしたが、上五島地区の地区長として、また上五島町の教育委員として活躍されましたが、司牧においては常に中立の立場を貫き、どのようなときにもあわてず、あせることもなく落ち着いておられました。2階の畳の間で峰師とわたしが藪将棋を指しているときに、いつも側で寝そべりながら試合を観戦し、ご自分の薄くなっていた髪の毛全体を片手でなで回し、笑っている姿がとても印象に残っています。

最後に丸尾教会在任期間の10年間を通して、前任者に引き続き、ご主人の協力と理解を受けることによって、馬込トキ子氏より賄いの献身的な奉仕をしていただきました。ご夫婦には心より感謝申し上げています。

他の小教区への奉仕活動

丸尾教会在任の最初の年は、司祭団の中でわたしはベンヤミンであり、また丸尾小教区が上五島のほぼ中央部に位置していることから、時々周辺の司祭から依頼され年の黙想会の指導や赦しの秘跡の依頼を受けることがありました。仲知教会主任司祭の永田静夫師は、活動的な司祭で、点滴を打ってもらいながら、新魚目町教育委員、仲知教会と米山教会の新築工事、巡回司牧など大変忙しい司牧活動していましたが、2回聖地巡礼のため長期の留守をしたことがありました。そのときわたしは2回とも、留守番を依頼され、喜んで引き受けました。2回目の留守の期間中のことですが、米山教会の青年が不慮の事故で急死するという不幸な出来事が発生しました。彼は米山教会の顧問長の息子で、米山集落の西側の海岸の磯で事故死体となって発見されました。跡取りの息子を失った老いた父親は、たいへんなショックで、通夜と葬儀を司式するわたしも気の毒で、どのような励ましのことばで慰めるべきか困った経験があります。旧教会の墓地に土葬となりましたが、山頂付近にある旧墓地までのかなり急傾斜になっている山道を通って遺体を担ぎ上げることはとても困難な労働でした。

それから8年後、わたしは、仲知教会の主任として米山教会に巡回司牧をすることになりましたが、そのときにはすでに当時の主任司祭永田師も宿老も亡くなり、旧墓地に代わる新墓地が教会の近くに建設中されていました。。
 



  
   
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