ペトロ 下口 勲

褥崎小教区時代

褥崎教会増改築

19884月、3代目の主任司祭として辱崎小教区に着任。着任早々、教会を「祈りの家」としてふさわしいものにしたいという願いから、教会増改築を計画。幸いなことに教会内陣周辺に増改築できる教会所有の土地があったので、19904月、信徒の理解と協力により総額2700万円を投資し、教会献堂25周年に備え増改築する。窓はイタリアまで製作依頼に出かけイエスキリストの生涯を描いたステンドグラスにしました。増築経過報告については褥崎小教区沿革史を参照していただくことにして、これからは増改築の当事者としての想い出をごく簡単に語ることにする。しかし増改築後20年も経過しているので細事については間違いがあるかもしれないことを了解していただきたい。

増改築はステンドグラス工事、祭壇、聖書朗読台、聖櫃、玄関と信徒席横の勝手口の窓工事にかかる費用を除いて、佐世保市天神教会の信徒杉山設計事務所と設計施工とも15,000,000円で契約しました。しかし、最初の工事計画案は22,000,000円で当時の顧問と了解済みであった。この案だと内陣を現在よりも約1メールは高い設計にしていました。この案に設計を計画変更したのは新築当時から信徒の寄付によって安置されていた内陣正面の大きな十字架を取り付けることができるように配慮したからである。しかし、この案はあまりにも信徒の経済的な負担がかけることになるという理由によりある顧問によってキャンセルされ、現在の案に修正を余儀なくされました。これによって、従来の大きな十字架取り付けが不可能になり、改修工事後、撤去して十字架山に移動して保存することにし、代わりに現在のやや小さな十字架を配置せざるをやむなくされた。今思えば、あのときにもっと当時の宿老や信徒のみなさんと対話を繰り返して最初の工事案で工事していれば、建設当時信徒の寄附による大十字架を依然とほぼ同じ場所に安置できました。そうすれば正面中央の復活のキリストを描いたステンドグラスとも対照的に配置され、今よりもっと見栄えもよくなり、祈りの家に適した教会になったことは間違いない。わたしが褥崎教会に赴任した当時の信徒の生活は巻き網業者にしてもタイ養殖業者にしてもすでに斜陽化が始まり、経営はすでに下火になっていましたが、今現在のような厳しい経済不況ではなかった。全体的にみれば、いわし巻き網業者もタイ養殖業者も黒字経営をなさっていました。そこで、最初の増築案で示された金額に対しての理解と協力は、わたしが経済顧問と共に忍耐強く対話しておきさえすれば建設の協力と理解は得られたに違いない。後で褥崎教会の訪れるたびに、自分のふがいなさを強く感じている。

ステンドグラスの工事

わたしが辱崎教会に着任の頃、時津教会の主任司祭岩永師が佐賀教会の主任司祭ザガルチィ神父を窓口にして、ご自分が新築工事した長与教会にステンドグラス導入していましたので、彼にお願いしてザガルチィ師を紹介していただきました。当時の佐賀教会は木造教会の古い教会でしたが、窓ガラスはイエスキリストの生涯を描いて総ステンドグラスになっていて美しいという評判となっていましたので、当時の経済顧問吉浦晋太郎氏、吉浦春夫氏、吉浦美代治師、浦田晋氏の4人と一緒に佐賀教会のステンドグラスを見てきました。その後佐賀教会以外にも経済顧問と一緒にステンドグラスが導入されている佐世保地区の教会、平戸地区の教会、長崎地区の教会を見学して回りました。その結果、褥崎教会の増築においては主任司祭が必要経費の責任を負うことを条件にステンドグラスを採用することに同意してもらいました。ステンドグラス業者はイタリアミラノのグラシー氏です。イエスキリストの生涯を描いたステンドグラスを導入できましたのは、当時円高リラ安で、今日では考えられない安い価格でステンドグラスを購入できたこと、それと当時純心聖母会の総長であった末吉シスター寄附をお願いしましたら、思わぬ高額の援助金をいただいたことにつきます。業者は、時津教会並びに大加勢教会のステンドグラス業社と同じ健鋼社社長宮地氏です。宮地氏には岩永神父様と一緒にミラノに同行してもらって現地で直接グラシー氏と面談し発注できました。

それにしましても、褥崎教会改修工事はわたしにとって初めての大きな工事でした。当時の経済表委員の4人とは杉山設計事務所が作成してくれた設計図をにらみながら熱い議論を旧司祭館で何度も重ねました。わたしたちには増築工事することに最初から意見の一致がありましたが、工事規模に関してわたしと吉浦晋太郎氏との間で意見が食い違い、互いに口角泡飛ばす議論になりました。しかしもともと晋太郎氏とはウマが合う性格で意見の食い違いはあっても決して不仲になることは一度もありませんでした。それはその後転任になるまで彼とも彼の家族とも親しいつきあいをしていたことによっても分かります。

休みになると、わたしは彼が勤務する養殖イケスからタイ釣りをして楽しみましたが、それはできたのは彼がいて、話し相手となってくれていたからです。

 

平戸口教会(平成2022年)で司牧していたときには、何度か褥崎教会にでかけ、聖体訪問をしていましたが、新設された信徒席とステンドグラスがほどよく調和がとれていて、聖堂全体に祈る雰囲気がみなぎる教会となっていました。キリストは十字架で死なれた後、復活なさった。教会の真の姿は、復活の喜び、キリストのパスかの勝利で満たされたキリスト信者の集まりです。第2バチカン公会議は、復活秘儀を非常に強調しています。この復活秘儀ということばの中に、キリストの死と復活が分かつことのできないものとして結ばれています。それを褥崎教会のステンドグラスでもその巡回教会である大加勢教会のステンドグラスでも視覚で表現しています。なお、教会内玄関と信徒席ドア、祭壇と聖櫃、聖書朗読台製作は五島の丸尾教会インテリア工事をしてくれていた岩本工務店にお願いしました。

信徒の一致

長崎教区では盛んに「参加し、交わり、宣教する教区つくり」をスローガンに掲げ、そのため聖書の分かち合い運動を展開しているが、わたしは宣教することを除けば、すでに「参加し、交わる教会つくりに」成功した小教区として真っ先に褥崎教会をあげたい。これまでの37年間全部で7箇所の小教区で働いて来ましたが、信徒の一致という点において一番まとまりのある小教区が褥崎教会でした。そのことを感じたのは特に印象つけられたのは、冠婚葬祭のときと野外ミサのときでした。その頃、結婚式の披露宴は佐々町のホテルであり、そのときには主任司祭も必ず招待され参加していましたが、褥崎集落のほとんどの信徒も祝いにかけつけ、新郎新婦と喜びを分かち合うことが常でありました。結婚式当日になると、丸一日つぶれてしまうので、重荷なることもありましたが、今ではよき想い出となっています。平成元年10月ロザリオの月、教会下のグランドで聖母祭を挙行したことがありますが、そのときはわたし自身隣接する純心修道院の保育所入り口付近で出入りする保護者や巡回教会の大加勢教会ではミサ後の知らせで繰り返し参加をよびかけました。そしたら期待に応えて大勢の信徒が参加しくれて、共に聖母を称え、総数は何と400名を超えていました。今赦しの秘蹟から遠ざかっている信徒が多くなる傾向となっているが、わたしが褥崎赴任当時には、クリスマスや復活祭など大祝日に信徒に赦しの秘蹟の日時を設定して呼びかけると、信徒はその時間になると、大勢の人が行列して自分の順番を待つ光景をみかけました。これも司祭への従順と赦しの秘跡への信仰があったからであると思っています。

褥崎教会と大加勢教会の子供の信仰教育

褥崎教会に赴任した頃はすでに日本経済の斜陽化の兆しがみえていましたが、

バブル崩壊以前のことでまだ日本は経済大国としての地位を保ち続けていました。しかし経済の発展に役立つならば、いかなる犠牲も顧みないという方針が貫かれたために、多くの弊害が出ていました。経済繁栄がいつのまにか人間のこころを蝕んでいたのです。それは教育の世界でも同じでした。学校が荒廃し、いじめや登校拒否などが社会問題になりつつありました。

長崎教区では1990年、島本大司教の意向を汲み、要理教育研究所所長橋本師が中心になり、現場の神父様やカテキスタの協力を得て、教区統一の要理テキスト案の作成に取り組みが始まりました。それは各地区の教育現場が活性化され、足並み揃えた信仰教育の推進と向上の核となるためであります。小学生用3部作「こみち」「あゆみ」「いのち」、中学・高校生用として「ふっかつ」を発行。

「ふっかつ」は1992年ローマより発布された「カトリック教会のカテキズム」の配列に従って、書き下ろしたテキストとなっています。これらのテキストは何をどのように教えたらよいか困っている司祭や信徒に何か少しでも手伝うことを意図して出版されたもので、わたしも褥崎在任のとき、これらのテキストで助けられた記憶があります。褥崎教会の園児も小学生も隣接の純心聖母会のシスターの奉仕によって宗教教育を受けていました。わたしは中学生を担当し、シスターと協力を得ることで子供の要理に励みことができました。褥崎の子供はお互いが親戚同士の間柄、かつ地域で幼い友として育っていましたので、ケイコの時間に騒ぐ子供がいましたが、一般的に素直な子供が多く、ケイコで悩むということはなかったと記憶しています。主日ミサにもかなりのこどもが祭壇近くの絨毯にグループになって座り、参加していました。特に褥崎にだけ子供が多い教会であったというより、その頃どこの小教区でも見ることのできる主日ミサ風景だったと思います。一年に一回のペースでカテキスタの奉仕をしているシスターから誘いを受け、保育所に勤める職員の慰労も含め、一緒に大分県湯布院方面にドライブしたことは楽しい想い出となっています。当時の大村院長シスターの配慮に感謝。また褥崎教会在任期間の6年間は隣の純心聖母会の褥崎修道院の二人の山口シスターが賄いの奉仕をしてくださいました。お陰さまで司牧宣教の務めをつつがなく果たせたのもシスター方の献身的な教会奉仕によるものです。こころから感謝しています。

大加勢教会の子供

大加勢教会のこどもは、褥崎教会の子供ほど多くいませんでしたが、当時の所帯に応じた子供がいました。平成205月の大加勢巡礼で、わたしが大加勢教会を司牧していた時に、当時の子供たちと一緒に写った集合写真が信徒会館に飾っていましたが、懐かしい思いで見ました。ただ褥崎教会の特色は大人だけでなく、隣の神崎小教区と同じように、親元で働く青年がかなりいて、かれらが青年会を組織していたということです。その褥崎青年会は、活発な活動をしていたということではなかったにせよ、月夜間になると、三浦町教会の久志師や山村師の指導を受けて、大崎教会青年会との交流などそれなりの活動をしていました。

大加勢教会の子供の指導はどうしていたか具体的に思い起こすことができません。教会建設のこと、旧教会を巡回していた頃のミサ風景、その頃のミサに熱心に預かっていた役員会の顔、婦人会の顔、家族でミサに参加していた子供たちの顔が、かなりのご負担をかけておきながら、平気で旧教会のミサ後に婦人会の接待を受けていたこと、一緒になって新教会の整地作業をしたこと、教会建設の準備金として空きビンや空き缶の収集をしたことなどが走馬燈のようの懐かしく思い起こされます。

褥崎教会記念誌

まったく一般の歴史にも教会の歴史にも無知なわたしが由緒ある褥崎教会の歩みを紐解くことになったのは、当時浅古教会の主任司祭でわたしの従兄弟であった浜口偵一師からの強い勧めによるものでした。もともと教会の歴史に明るい師は神崎の主任司祭をしてときにすでにかつて神崎、褥崎、浅子一帯を司牧宣教していたパリミッション会の宣教師が記した洗礼台帳で神崎と褥崎の信徒の系図を丹念に調査したいくつもの資料を大切に保存していました。それを私に提供するから、褥崎教会の土台となり、今日まで褥崎教会を築いたキリシタンの歴史を掘り起こし、それを一冊の記念誌にして欲しいという依頼を何度も受けていました。もちろん、わたしにはそのような趣味も教養も能力もありません。だから当然のように最初はしぶっていました。当時わたしは教会の歴史に関心もなければ興味もありませんでした。それに教会の歴史の編纂に不可欠な資料となるはずの浦川司教の“復活の切支丹”、“五島切支丹”など切支丹関係の歴史的書籍も持ち合わせていなかった。そのようなわたしがどうして時間もエネルギーもかかるあのような記念誌編集にのめりこんでしまったのか、今でもわれながら不思議です。結局、浜口師からと当時佐世保の鹿子前教会で司牧していた道向神父様方から最低必要とする切支丹関係の書籍を借り、そして読み、すでに褥崎教会に司祭館に保存の古い洗礼台帳を丁寧に分析し、整理する編集作業を開始しました。出版にこぎつけるには2年もかかり、分厚い記念誌発刊になりましたが、それを今読んでみると、写真がやたらに多く、内容のない記念紙です。2年間も貴重な時間を無断にしただけでなく、その無駄にした時間とエネルギーとを信徒との奉仕と交わり、祈りなどの神との交わりのために使った方が賢明であったのではないか、という思いに今でも悩まされ続けている。ただ一つだけいいことは、先祖調べのために信徒の家庭訪問を何度も繰り返し、その結果、特に高齢者の方との交わりを強め深めることができたこと、それに司祭としての使命を果たすために必要とされる犠牲と忍耐、そして十字架を背負って歩むことことに精神面で修養になったのではないかということ、それと記念紙編纂作業のためいつも司祭館にこもっていましたから、いつも信徒の用件に対応できていたこと、特に病人見舞いや葬祭のときの信徒への対応がすばやく対応できていたこと、次に赴任した仲知教会での記念紙編纂で、褥崎教会史編纂の失敗を生かすことができたことなどが指摘できる。

釣りとテニス

ときどき大野教会の堤好治師から誘われ、世知原町のテニスコートで合流し二人だけでテニスをすることがありましたが、場所の制約のため彼とのテニスをして過ごすことは長く続けることができなかった。それに代わり、褥崎教会の周辺を軽いジョギングをしました。教会から褥崎集落と水場集落を経由して教会にいたるコースがいつものコースでした。ときどき冷水岳の駐車場に車を走らせ、そこの駐車場から徒歩で散歩をして、その頃毎年欠かさず参加していた教区司祭主催の福江マラソン大会に備えていました。しかし、釣りの方は褥崎では教会史編纂作業と教会改修工事などの仕事が忙しくなり、丸尾教会のときのように釣り馬鹿になることはありませんでした。褥崎の信者の職業が漁業でしたのでいつも鮮魚の差し入れがありました。ないときで刺身を食べたいときには日頃親交があった信徒の家にでかけ好きなだけ鮮魚をいただいていました。

顧問の吉浦晋太郎氏が勤務するタイ養殖イカダにはよく釣りにでかけていました。また、教会下の吉浦末松氏前のタイ養殖イカダの海底はチヌが生息するのに適していた瀬になっているらしく、たまたま薦められてその棚に行くと、面白いくらいに型のよいチヌが釣れました。入れ食いでした。起立した姿勢で釣りを続けると、腰が痛くなって来ましたので、イカダの足場に寝そべった状態になり、釣り糸だけを利き手の右手を持ってチヌのアタリを待つ。アタリがあると、と立ち上がって釣り上げるという大変行儀にわるい仕方でクーラー一杯の獲物を釣り上げた。そのときは処分に困り、急遽長崎の純心聖母会本部にお土産として持って行ったこともあります。

大加勢教会建設

大加勢教会建設は完成までに4年かかりました。褥崎教会の増築工事はわたしがリーダーシップとなって積極的に推進しましたが、大加勢教会の場合は、わたしが着任したときにはすでに立て替えることが信徒総会で決まり、新築の場所をどこにするか、積立金いくらにするか、また構造物をどのような様式にするかについて議論されていました。工事の経過報告については褥崎教会記念史の中で詳しい説明の報告が掲載されているので割愛します。

これまで転任先の教会で数多くの改修工事を手がけてきましたが、教会新築工事は大加勢教会が初めての経験でした。しかしこの新築工事が一番わたしにとっても信徒にとっても心労の多い工事となりました。まず定例役員会議で教会のどのような構造物にするかで役員同士の意見の違いがありました。大半の役員は現在地に鉄筋コンクリートを希望しましたが、ある役員は建設費が安価で建設できる木造平屋建てを主張しました。多数決により鉄筋コンクリート造りになったもののしこりがのこることになりました。また場所が西海国立公園の厳しい規制のためせっかくの新築工事も何回か設計の縮小を余儀なくされ、希望した高さに制限がありました。また信頼している教会役員から会計の開示の要望がありました。会計に不正があったのではありませんが、もっと主任として寄附金をして信徒をことばだけでなく、経済的にもサポートすべきだったのでないかと反省させられました。また、工事費の支払いにおいて施工業者との間でかなりの金額の食い違いがありました。どうしてそのようになったのか、その当時も分からないままでした。このように好ましくないことがいくつか重なり、お互いの信頼関係の妨げが生じたかみしれない。もちろん、大加勢教会建設には評価しなければならないこと、感謝すべきこともたくさんありました。まず教会建設推進派の主な代表者の方々が、小漁師で生活がきついのに、負担金の他に多額の寄附を新教会建設のために自主的になさったこと、当時の里脇大司教から2千万の援助金をいただいたこと、佐世保地区の各小教区の主任司祭と信徒から善意の寄附があったこと、建設後、少子高齢化の波にどの小教区も襲われたが、大加勢教会だけは褥崎教会信徒が結婚後、親から分家して大加勢に移住してきたこと、その結果、大加勢教会の信徒数は建設後も減少を免れたうえ、他の小教区に比べて若い家族と子供たちの人数が多いことがあげられる。これは新築の教会が礼拝の場、祈りの場、信仰教育の場として活用されていることになるわけで、大変喜ばしい限りです。わたしは平成25月に江迎教会の信徒役員と同年6月には潜竜教会の信徒役員と一緒に同行して大加勢教会を訪問しましたが、信徒会館に歴代の主任司祭と一緒に写っている大加勢教会の子供たちの集合写真がありました。その写真を見ると、少なくとも子供の数に関してはわたしの時代よりも現在の子供たちが多いことに気づきました。
 



  
   
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