ペトロ 下口 勲

仲知教会ステンドグラス工事

着任して約2年間は仲知教会の窓の改修工事を始め、江袋教会、米山教会、赤波江教会と次々に教会の改修工事に全力投球しました。ステンドグラスを中心にした仲知教会の改修工事は自分で資金をつくる覚悟で臨みましだが、仲知小教区史で紹介しているように、ほぼ仲知教会窓の改修工事の終わり頃になってから、地元出身の島本要大司教より、かねてからの約束の通り予想をはるかに超える多額の寄附を受けることになりました。しかしこの寄付金がいただいた頃はすでに仲知教会の工事代金の支払いの目安が出来ていたので、大司教様からの寄付金は全額江袋教会と赤波江教会の改修工事の基礎資金に充当させることができました。もし大司教からの多額の寄附がなければ江袋教会も赤波江教会も全面的な改修工事は不可能でした。大司教には大変感謝しています。

 

ある教区司祭はわたしの顔を見ると、ステンドグラスのことを思い起こすようで「神父様はどこの教会に赴任してもステンドで教会を飾りますね」ということばを投げ蹴る。確かにわたしは褥崎教会に赴任して以来、ステンドグラスに拘ってきた。褥崎教会、その巡回教会の大加勢教会、深堀教会、それに平戸口小教区の巡回教会の江迎教会と潜竜教会もステンドグラスを教会に導入してきた。しかしその中で一番の中心はやはり仲知教会のステンドグラスである。19914月、仲知に赴任して教会に入ったとき、いの一番に思ったことは鉄筋コンクリートのこの教会は内陣に向かって天井が高く設計され、ステンドグラスが似合う教会だという思いでした。しかしゴシック式教会のように天高く広々とした内陣は天井に小さな窓4つ並んでいるだけで薄暗い。気をつけなければ中央に安置されている十字架さえもよくはっきりと見えない。内陣の改修工事でいくつか大きな窓をつくり、救いの秘儀の中心である復活とそれに関連したステンドで飾るなら、きっとこの教会は周辺の山と海の景観にもっと溶け込んだすばらしい教会に蘇るに違いない。何とか信徒に話してステンドグラス設置するための窓の工事ができないかどうか議題に挙げ、検討してもらおう。

仲知教会のステンドの特徴はステンドの業者グラッシー氏を直接ミラノから現地に来ていただいて下見してもらいながらイエスの生涯を描いたステンドを導入したこと、初めて巡礼者が教会に入ったときに内面正面の復活のステンドが目に止まるように大きく製作したこと、イエスキリストの救いの業の中心は受難と復活の神秘であることを表現するために復活のステンドを中央にしてその両サイドに配置してこと、イエスの弟子たちを描いてステンドで、グラッシー氏のアイデアを採用し地元の信徒をモデルにしたこと、褥崎教会のとき以上に円高リラ安のためステンドの価格が安かったために総ステンドグラスにできたことである。

九州建設サービス株式会社の江藤歴男さんは最初曽根の国民宿舎から通っていたが、途中から司祭館に宿泊を希望された。それは何よりも刺身を大好きで、司祭館で一緒に鮮度のいい刺身をわたしと一緒に食したいという願いからであった。その後、仲知に仕事で来られるときはいつも司祭館に宿泊をされた。宿泊の御礼に大変温厚で誠実な方で会社から支給される宿泊料金を全額支払いされた。現場監督であったが、正面の復活のステンドグラスの高さを修正して設計よりも30センチほど下方修正したが、これなどは現場にいないとできない仕事でした。仲知のステンドグラス工事から1年後、今度は司祭館の改修工事を九州建設サービス株式会社にお願いしました。彼に来てもらいたかったが残念なことにその時はすでに退職され、別な方が見えた。一方、サッシ施工者大島博徳氏は若い独身で長崎にマンション暮らしの方であった。彼も刺身が大好きで仲知教会の仕事で仲知に来られると、司祭館でわたしと一緒に刺身を食することを何よりも希望された。特に仲知のウニが大好きで皿一杯のウニを一人でたいらげた。カステラだけでなく、ポットなどの電化製品などをお土産にと持参した。仲知のステンドを中心とする窓の工事は仲知の信徒に一切経済的な負担のかけるつまりもなかったが、工事後、当時の宿老の山添正義氏がわたしに内緒で信徒総会を開催し信徒からということで現金300万円を持ってきたのにはびっくりした。そんなことはまったく考えていなかったからである。受け取りはしましたが、信徒の信仰のすばらしさに感動しました。同じようなことが江袋の改修工事もあった。

仲知小教区史編纂事業

仲知出身の島本大司教が夏の休暇で仲知に帰郷したときに、以下のようなお願いをされました。「仲知は陸の孤島で生活に不便なところであるが、信仰だけはしっかりしたものがある。長崎の西彼杵出津教会と同様、この小教区からたくさんの聖職者や修道者が排出している。そのうえ、かつてはこの小教区は上五島地区での宣教の拠点になっていた伝統と歴史のある小教区である。そこで是非信仰の歴史を紐解いていただきたい」。この要請はわたしには受け入れがたいことであった。褥崎小教区編纂作業で成果を出すことが出来なかったので疲れ果てていた。そのような心理のときにこれだけはしたくないと思っていた歴史編纂作業を要請されたからである。司教様からのたっての願いでありましたが、そのときばかりは、素直に従うこが出来なかった。それにまた、あらゆる教会の歴史に関する書籍は処分して赴任してきたので、教会の歴史にかかわる書籍は一冊もなかった。

ところで、改修工事が完了する頃になると、少ずつであるが、改修工事したそれぞれの教会の歴史について知りたいと思うようになりました。特に明治初期の面影を漂わせている古い木造構築物の江袋教会は、全国から訪れる観光客と巡礼者が多く、いつになく、誰によって、何年に建立されたか聞かれることがありましたが、そのたびに返事ができず困っていました。そこで仲知教会の前主任司祭の田中千代吉神父に電話で聞いたりしていましたが、その時神父様はすでに病んでいてはっきりとした返事はいただけませんでした。それで、江袋教会建立の頃上五島地区の担当司祭であったフレル師やブレル師らが記した洗礼台帳が仲知教会に保存されてありましたので、恐る恐る手にして調べ始めました。不思議なもので調べ始めてみると、教会創建時代の信徒代表の名前やその当時の信徒の世帯数や信徒名、教え方名が少しずつ分かってきました。同じように他の仲知教会、米山教会、赤波江教会の洗礼台帳を調べてみると、いろいろな小さな発見がいくつもありました。こられの小さな発見を整理して繋げていけば、江袋教会の歴史だけでなく、仲知教会、米山教会、赤波江教会、それに当時宣教師の担当地域となっていた大水教会、野首教会、瀬戸脇教会、小瀬良教会、大瀬良教会の信徒がいつの時代に、どのような経路で、どのような理由で、どのような方法でそれぞれの地に移住してきたかのあらまし分かることを知りました。大変な作業になりますが、これはやり甲斐のある仕事であり、何となく編纂作業にのめりこんでいったわけです。その後1年半は褥崎教会史編纂作業で失敗したことを教訓にして仲知小教区歴史編纂作業に打ち込みました。土曜日の主日ミサの務めをときどき忘れてしまい、信者から電話で知らせてもらうときも時々ありましたが、それくらい古い信徒台帳の整理と分析に夢中になっていたわけです。また、その後、深堀教会の転任になると、長崎のコレジョ院長をしていた仙台教区長の溝部司教が善町谷教会に信徒を連れて何度か巡礼していました。わたしが仲知教会の歴史編纂のことを話すと、溝部司教は間髪をいれず「歴史調査と編纂作業はさぞかし楽しい作業だったことでしょう。わたしもそういう調査をしたい。」このことばを聞いてときにはびっくりしました。今もそうですが、歴史の調査は大変だと思い込んでいたからです。今もその思いは変わっていません。司教様のことばはご自分の体験による真実のことばと思いますが、わたしにはまだそのような心境にはとてもなれない。これからもきっとなれそうにないと思う。しかし、これだけは言える。仲知教会史の編纂作業は苦しい仕事であったが同時に楽しい仕事でもあった。このような心境になり始めたのは特に深堀教会に赴任してから半年間作業を続けて完成させた「仲知教会の牧者たち」です。「仲知教会の牧者たち」は仲知小教区史の姉妹編です。この本でわたしは仲知小教区で司牧宣教した邦人司祭から指導を受けて育った当時の仲知教会の古老たちの信仰体験を時代順に聞き取り編集しました。聞き取り作業はわたしが転任になったために中途半端で終わりましたが、それでも古老や古老が信仰教育を受けた先輩司祭から多くを学ぶことができました。

子供の信仰教育

わたしが司祭になった1972年頃の仲知小教区は受堅生が多い小教区として長崎の司教館で話題になっていました。25年後にわたしが仲知小教区で主任司祭として働くことになりましたが、その頃の仲知小教区の世帯数は依然とほぼ同数でしたが中学と高校を卒業した子供の都会への流出が続き、信徒数は約600人に減少していました。以前から仲知小中学校は学校の先生の児童以外は全員が信者の学校であることで知られていましたが、わたしが仲知小教区に赴任した年の仲知小中学校の生徒数は90人程度、お告げマリアの仲知保育所の園児は30人程度でした。しかし仲知小中学校の子供たちは、たとえ生活に不便な僻地であっても、自然環境と宗教的環境に恵まれた中で、新魚目町教育委員会、先生、保護者、育成会との連携により、都会の子供たちに負けない立派な人間教育と信仰教育を受けていました。わたしも地域住民の一人として、学校の卒業式、運動会などの学校の行事に毎年参加し、子供たちの成長を温かく見守ってきました。一度は学校の教育活動に協力したいと思い、育成会の会長になりましたが、多忙で例会に出席できず、ほとんど育成会の仕事に協力出来なかったことを悔やんでいます。仲知、江袋、米山、赤波江の小中学生の信仰教育は、お告げのマリア仲知修道院のシスターに奉仕してもらいました。仲知教会、米山教会、江袋教会、赤波江教会のそれぞれの教会担当のシスターが同時に子供たちの要理の指導もしてもらいました。仲知小教区に在任して、5年後に、児童数の激変により、米山の小中学生が通学していた津和崎小中学校が廃校に、仲知小中学校も小学校は廃校となり、津和崎の中学生も仲知と江袋の中学生もスクールバスで北魚目に中学校に通学するようになりました。その頃は仲知小教区だけでなく、上五島の他の小教区でも少子化と過疎のために受堅生が激変し、それまでのように小教区での堅信式を行うことは困難になり、当時の上五島司祭団の取り決めにより、その年から上五島青方教会で毎年堅信式をするようになりました。青方教会での最初に堅信式は仲知教会出身の島本要大司教様でしたが、仲知小教区の受堅生が8名であることにほっとしておられました。当時、司教様は毎年夏休みの里帰りのたびに仲知の子供が減って来ている現実を心配なさっていたのでしょう。

前後の日本は本当に惨めな状態でした。国土は爆撃を受けて廃墟のようになり、物質は不足し、何の資源もない最貧国でした。その日本がどうして豊になり経済大国となったのか。その理由としてよく言われることは日本人が勤勉で働き者であったこと、日本人には伝統的に教育があり、それが国を次第に経済発展へと導いたことが指摘されています。しかしそれには1つの根本的な問題を残しています。知的技術的面の教育に力を注いだが、精神面の教育がおろそかにされたことです。そのことによって家庭内暴力、登校拒否、いじめなどのいろいろな不健全な減少が起きています。日本では公立の学校では宗教教育ができません。今こそ、教会でも私立のミッションスクールでもカトリックの信仰と愛の価値観に基づいた人間教育の重要性があるのではないかと認識しています。それから、仲知では信仰教育、典礼奉仕だけでなく、司祭の生活の面倒もしてもらい、そのお陰で仕事に集中できました。6年間奉仕した賄いの真浦シスターには感謝します。

江袋教会の火事

わたしが信徒を一緒に汗を流して復元した江袋教会も平成19年に漏電による火災によって、信徒席のステンドグラス付き窓も欅で造られていた内陣両サイドの脇祭壇も、中央祭壇奥の祭壇と祭壇に安置されていたフランス製の天使像、聖人像、聖画も内陣中央に設置していたキリストの十字架と変容を描いたステンドグラスも全部火事によって焼失してしまいました。残念至極です。でも信徒と一緒になって整備した教会前の御心像の庭、教会後ろの雑木林を整理して植え込んだツツジは火事を免れていると思います。それから旧教会の床はその上に杉板を張り替えましたので消失を免れたのではないかと思います。改修工事したからこそ消失を免れたことになり良かったと密かに思っています。

釣り

1992年4月、褥崎から上五島仲知小教区に転任になった。今回の辞令を出したのは仲知教会出身で釣りが大好きな島本要大司教である。褥崎と同じように仲知の信徒の職業は主に漁業従事している人が多い小教区。仲知集落だけでなく、他の3つの巡回教会江袋、米山、赤波江も仲知と同じように海に面して信徒の家庭が集合しているカトリックの集落となっている。仲知の巡回教会の小値賀も周囲は海に囲まれている漁業が盛んな町である。それに仲知小教区には信者経営の定置網が江袋と一本松にあった。このような漁場に恵まれた小教区に着任すると、釣り好きにならざるを得ない。さっそく仲知教会宿老の山添正義氏の兄の持ち船だった4人乗りプラスチック船を購入して舟釣りを始めた。氏が船の管理をわたしが頼まなくてもいつもすべてそうすることが当然のことのように、無報酬でしてくださり大変ありがたった。司祭館から真浦漁港までは500メートル程度の近距離。司祭館は急傾斜になっている真浦集落の中央部に位置しているので目の前の海が一望に見通せる場所。だれにも気兼ねせず、天候さえよければいつでも気が向いたときに好きなだけ釣りを一人で楽しむことができた。丸尾と異なり、漁場だけでなく釣果の方も良かった。真浦漁港の目の前に周辺全体は砂浜になっているが、ここは昔から秋になると、大型のエソとイトヨリが釣れる好漁場。エソ釣りの釣り方は手釣り。仕掛けが海底に落とし、海底から約15メートルの範囲を巻き上げては落とす、を繰り返す。巻き上げを両手で両サイドに大きく揺さぶることが釣果のコツ。手応えがあると、一気に勢いよく素早く引き上げる。しかし、仲知時代にはまだ体力が残っていたから何度もエソ釣りを楽しんだが、仲知の漁港の岸壁からクーラー満配の獲物を引き上げるのに苦労したことが何回もあった。

真浦のすぐ目の前に小島がある。名前の通りの無人の小さな島である。この島のすぐ目の前の瀬とそこから海岸線に沿って約1キロ走った場所の瀬がイサキが釣れる好漁場であり、年中、マキエでイサキ釣りを楽しんだ。釣り好きな島本大司教を地元の司祭も一緒にこの瀬でイサキ釣りしたときがあった。その時のイサキはやや小ぶりであったが、それでも二箱くらいの釣果があった。そのときばかりは司教様も上機嫌だった。釣れたイサキは仲知修道院にくれたが、シスターはとても喜んでいた。

仲知での釣りで何と言っても一番の楽しみは夜のミズイカ釣りであった。しかし、ミズイカ釣りは、夜の釣りだから経験がないと成果を収めることはできない。ミズイカの漁場の周辺は定置網をいくつもしかけてある。夜はそれが見えないので要注意。わたしの場合は失敗の連続で一人前になるまでには何年もかかった。釣果ではいつも地元の信者に負け、そのたびに悔しい思いをしてきた。

米山の信徒竹谷秀樹氏はわたしが在任中にガンのため死亡したが、まだ元気であったころによく話していたのがミズイカ体験談である。彼によると、米屋までは秋のミズイカのシーズンになると、夕闇せまる頃から漁を開始する。ミズイカで持ち船の生けすが満杯になるとミズイカが酸素切れのため死んでしまう一端港に戻り、港の生けすに生かし、それから漁場に戻りミズイカ漁を再開する。また生けす満タンになると港の生けすに生かしてから、一端自宅に戻り、休憩する。休憩後またミズイカの漁場に戻りミズイカ漁を再開する。最盛期にはこれを繰り返すことになる。その後、いけす中のミズイカを専用のたびで掬い上げトロ箱で佐世保行きの組合の鮮魚船に出荷する。こうして得られた収入は生活資金の足しになっていた。ライバルの仲間とミズイカ漁の釣果について話すときは、何匹釣れたかでも何キロ釣れたかでもなく、昨晩は何航海したかであるということでした。わたしは早朝ミサのため、夜通しミズイカ漁をしたことはないが、一度だけ例外があった。その日は有川湾一帯にイルカの大群がミズイカを襲い、そのためたまたまわたしがミズイカ釣りをしていた場所の周辺一カ所に集まっていたのだろう。他の人はまったくミズイカが釣れないので早々に引き上げていた。わたし一人だけが夜半近くまで大型のミズイカと格闘し、大型のクーラー一杯釣り上げ、ライバルたちを驚かせた経験がある。

一般的にミズイカは刺身に美味しいと言われているが、わたしは仲知ではミズイカではなく、ミズイカよりマイカを好んで刺身にしていただいた。マイカは身が柔らかく、甘みがあって美味しいからである。そのマイカを狙って真冬の夜、ミズイカの道具と釣り方で釣りを楽しんでいたが、一度危険なことがあった。マイカの釣れる場所は真浦漁港からかなり離れているところであったが、ある日、濃霧で視界が極端に悪くなり、帰る時間になっても一寸先が闇夜で帰ることが出来なくなった。途中海岸とか定置網などの障害物があるがそれが濃霧のために見えない。しばらく待つことにしたがなかなか濃霧は晴れない。意を決して暗闇の中を超スピードで走行し、やっとの思いで寄港できた、という苦い経験もした。しかし、総じて仲知での釣りは仕事が教会改築と教会の歴史の編纂作業がだんだん忙しくなり、趣味の範囲内に留まった。わたしが所用で釣りにしばらく行かないときがあると、釣り仲間の山添正義氏や久志さんが気をきかせて釣り帰りに司祭館にお裾分けをしてくれていました。また、特にわたしの持ち船の管理をしていた山添正義氏や坪網の山添透氏や米山の山田常吉氏の家には何度も食事に招待され、家族ぐるみで親しいつきあいをしました。

坪網漁

定置網シーズンになると、定置網の従業員に混じって一緒に網をもみ、その後、納屋で従業員と一緒に取り立ての魚を刺身や鍋にしていただき、帰りにその日網で捕れた魚をおかずにいただいて帰るということも楽しみの一つだった。これは仲知での司牧期間の7年間ずーと続けた。さらに散歩で挨拶している内に、一本松の海岸のところで家族で坪網を経営しているある方と親しくなり、いつの間にか家族の坪網の手伝いをするようになった。毎年11月末頃からの北風は寒グロシーズンの季節。彼が一本松の北側に仕掛けてある壺網には、この風はこの季節が漁の最盛期となる。この北風が吹き付ける季節になるとクロの他にススキ、ミズイカ、イッサキ、寒ブリなど各種の魚が捕れていた。土地の漁師さんはこの風を黄金の風と呼んでいる。この季節で北風が吹き付け、大漁が見込まれると判断される前の晩には、わたしの方から彼に電話予約して坪網漁に早朝から出かけた。期待したとおり大漁するときもあれば、網が破れていて不漁のときもあった。漁師だから大漁に恵まれたときにはいつもよりも気前がよくなる。夫婦とも気勢があがる。主人の方はいつもよりも酒の量がふえる。タバコ好きな人が仕事の間に一服するような感じで好きな焼酎を気持ちよさそうに飲んでいた。同時に捕れた鮮魚の箱詰め作業に忙しくなる。港に帰ると佐世保行きの運搬船に間に合うように箱詰めを急がなければならない。そんな時には港まで船の代行運転をして彼を助けた。また、持ち船のいけすの魚を大きな足袋ですくいあげ、甲板上で暴れる生きた魚を一匹一匹手で押さえつけ、ころしを入れ、箱詰め作業する。この一連の作業を手伝うこともあった。帰りにはいつもその日に捕れた高級魚をいただいたが、彼の家にあがりこんで家族と飲食することもしばしばであった。

散歩

仲知は山間僻地となっていることから、散歩コースは限られていた。司祭館から米山教会までの4キロのコースが通常の散歩コースで、県道は整備されているのに人も車の往来もほとんどなかったので、昼も夜も道の真ん中を歩き、海景色や可憐に咲いている野草、ヤブツバキ、それに群がっている野鳥、特にメジロのさえずりを聞きながら米山教会まで歩いていた。米山教会で午後のミサをするときには歩いて往復することもしました。夜の散歩は有川湾の漁り火が見事でありました。それでも途中山犬に襲われる危険がありましたので、夜の散歩では山犬対策として道の途中に小さな丸太を専用のものとしておいて活用していました。夜の散歩に出かけ始めると、真下にあるお告げのマリア修道印の夕べの祈りのリズムカルな歌を聞くこともありました。昼の散歩では途中、急勾配になっている一本松漁港に降り、定置網船で捕れた鮮魚を夕食のおかずにいただいくこともしていました。江袋教会の改修工事が始まると、工事の進捗状況を見るために毎日のように昼間散歩していましたが、ある日、NHK番組で定置網と教会の改修工事の取材を受けましたが、それが朝と夕、全国に放送されたため話題になりました。
 



  
   
inserted by FC2 system