ペトロ 下口 勲

深堀小教区

「仲知教会の牧者たち」発刊

2001214日、実兄下口照が長崎市聖フランススコ病院で白血病のため死亡。高校2年生の時から父代わりにわたしの生活の面倒をみてくれ、司祭になってからも精神的な支柱であり続けた実兄の病死は大きなショックだった。その頃、わたしは仲知小教区史の姉妹編「仲知教会の牧者たち」編集のため、歴代の主任司祭のことを良く知る古老の家庭を訪問し、古老が過ごした少年少女時代の教会や信仰生活の状況について聞き取り調査を開始していた。さらに佐世保や長崎方面に転出している仲知出身の古老宅を訪問する計画を練り上げていた。ところが、同月末、島本要大司教より転任の内示が来た。編集の最中であったため、真剣に転任時期をあと1年延期していただきたいと思って手紙を書きあげたが、投函せず辞令の通り深堀教会に転出し、深堀教会で司牧の傍ら編集作業に精を出し、同年9月刊行した。

宣教体制の整っていた教会組織

深堀小教区着任の歓迎会で、深堀教会評議会委員と善町谷教会評議会役員、婦人会の役員、自己紹介がありましたが、そこで印象づけられたことは教会の組織がしっかりしているということでした。この組織は阿野師が主任司祭であったときに信徒全員参加型の信徒使徒職活動を目指して組織化されたものであるが、わたしが赴任した頃にはその活動にやや陰りが見えていた。名前だけの組織に終わっている委員会もありましたが、掃除委員会や典礼委員会など活動を熱心に持続させている委員会があり、かれらの自発な教会活動への取り組みに感激しました。当然、わたしの任務はこの整っている教会組織の委員会活動を活性化させることにありました。

今年は司祭年ですが、司祭には福音宣教する使命、感謝の祭儀で信者を聖化する使命、そして神の家族としてきずなを強め、父である神のもとに導く使命があります。組織の中の委員会をつぶすことはしませんでしたが、活性化に向けての取り組みは第三者が見て評価してもらうような効果を生み出すことは出来なかったといえます。冬期オリンピックで期待されていてメダルを捕れなかった選手がよく口にすることばは、「力不足でした」ということですが、深堀教会での司牧でも。同じことを言えそうです。

葬祭は福音宣教

他方、深堀小教区は都会型の小教区であり、信徒数に比べて、教会学校や主日ミサ、年の黙総会参加者が少ない教会であることに悲しい思いをしました。このことは覚悟しての赴任でしたが、実際に信徒の教会離れの実態を知らされることは悲しいことでした。特にお葬式ですが、生前に信仰が実践されていない、面識もない信徒の葬式を依頼されて司式することが続いたことには驚きでした。信仰が実践されていない信徒の葬式を営むことはそれまで働いて小教区では経験がなかったからです。しかし葬式の場は教から離れている人に教会へ復帰させる機会でありますので、気持ちを切り替え、通夜にしても葬式にしても新設に誠実に取り組み、遺族を神のことばによって励ましました。葬儀前には告白場に座り、赦しの秘跡を希望する方に赦しの秘跡をさずけ、お葬式後のアフタケアとして教会役員によびかけ、信徒会館での3日の祈りに3日間とも参加するようにし、教会役員や婦人会役員にも出席をよびかけ、遺族を励まし続けてきました。その結果、葬式を機会に教会から離れていた信者が信仰に復帰するものが多数でました。中には役員になって教会に奉仕者となって下さる信徒が現れ、葬式は立派な福音宣教の実践の場でありました。

深堀教会記念誌「あゆみ」発刊

深堀教会にはその歴史を知るための資料として小教区設立25周年記念紙「ひろがり」があった。それはその年に着任されたばかりの中村満主任司祭の指導のもとに信徒の有志が自主的に発刊した記念紙でした。わたしは着任後の教会改修工事をしながら同時に深堀小教区の歴史を知るための記念紙「ひろがり」の姉妹編として発刊できないかどうか定例評議会で討議してもらった。幸いにも評議会の同意を得ることができたので、さっそくその年の秋から、評議委員や婦人会役員や有志信徒の協力を得て編集作業を開始し、翌年2月、信徒自身の熱意が実り深堀小教区誌「あゆみ」を発刊した。その頃、わたしは教区福祉委員会の支援活動とカリタスジャパン担当司祭としての仕事を抱えていたので、「あゆみ」編纂作業に本腰をいれて手伝うことができなかったのは残念であった。20074月、平戸口教会に転任になってから、有名なフロイスの「日本史」など切支丹関係の書籍を読むことにより、切支丹時代にしても外国宣教師による再宣教時代にしても深堀と善町谷には由緒ある歴史があることに気づいたが、後の祭りになりました。それでも「あゆみ」発刊は記念誌「ひろがり」のように司祭と信徒との協同作業として、また「ひろがり」の足りないところを補う意味でも意義があったと信じている。

深堀教会と善町谷教会のホームページ新設

次の仕事として、2002年末に深堀教会のHPを公開した。その頃はHPを開設して教会を紹介しているカトリック教会は全国的にもまだ少なかった。そのような状況の中で深堀小教区HP公開にしたことは小教区の広報活動としてそれ自体に意義のあることでした。しかし残念なことに、深堀の信者のほとんどはHPを閲覧できる家庭環境にありませんでした。HP作成においては深堀教会の記念誌の「ひろがり」も「あゆみ」も写真付きで全文を公開することにし、記念誌「あゆみ」に掲載されている巡回教会の善町谷教会のページは、深堀教会のHPのなかで公開しました。その頃わたしは深堀教会青年信徒でホームページ作成に詳しい中村氏から作り方のノウハウを教えてもらって、教区福祉委員会HP「福祉の森」を公開し、教区福祉委員会がサポートしている「一粒の麦の会」とか「シナピス会」など福祉諸団体のあゆみとその活動内容の更新作業をしていましたが、ページ作成に時間もエネルギーも注いていたため、視力も衰え、持病の腰痛にも悩まされるという多忙な日々でした。

平成14年末にはHPの編集作業に慣れて来たので、カトリック深堀教会のHPも作成し公開することに挑戦しました。深堀教会と善町谷教会とその周辺は、景観に恵まれているので、HP作成作業においては、その特性を生かし、美しい写真が閲覧できるHPになるように最善の努力をしたいと思いました。そこで浜の町のカメラ店に出かけ、性能のよいニコン製の一眼レフカメラを購入しました。善町谷教会のページの風景写真の撮影においては天候と撮影の時間帯に考慮して撮影しました。撮影方法と技術が未熟なため何回も失敗しましたがそれまでの努力が実ったのか、私が作成したHPの中で人気のあるHPは仲知教会のホームページの次に善町谷教会のページとなっています。公開した翌年のことだったと思いますが、このページを閲覧したある大阪在住の女子青年が、長崎市内の観光地ではなく、わざわざ善町谷教会とそこからの景観をみるためだけに来られたことを知って喜んだことを今も覚えています。現在は更新していませんが、長崎市の景観賞を受賞している善町谷教会のページを作成したことを誇りに思っています。

教会改修工事

深堀教会が所在する場所は、初代の主任司祭渋谷治師が個人の資産で購入した由緒あるところで一般に“殿様屋敷”と呼ばれている。渋谷師は馬込教会から深堀教会に赴任すると、現在地に3千坪という広大な土地を購入され、幼稚園を開設し、地域の保育事業に大きな貢献をされた。当時、カトリック信徒は少数であったために、教会は新築せず、購入時にあった古い屋敷を仮の聖堂として使用しておられた。今現在の教会も司祭館も川口清師のときに教区の援助で建立したものであるが、わたしが赴任した時にはすでに老朽化が目立っていた。わたしが着任したとき深堀教会は献堂25年、巡回の善長谷教会は献堂50年を記念し、教会内には真新しい絨毯が敷かれ、5月になると佐世保俵町教会信徒の浜口氏が製作した信徒用長椅子が搬入され、教会内部はそれだけでも以前と見違えるような雰囲気になりました。そのよい雰囲気をさらによくするために聖櫃、聖書朗読台、司祭用椅子、祭壇など教会内陣全体の模様替え工事をさせてもらうことにし、見積もり書をこれまで教会の改修工事のたび毎にお世話になっていた岩本工務店にお願いしました。また、着任当時、深堀教会外壁はひび割れの修理の跡が痛々しいうえに、見た目もよくなかったことから仲知教会の教会改修工事依頼、つき合いのあった九州建設株式会社にお願いして教会が外壁の修理と防水工事、屋根の修理、それに窓の工事の見積りを提出してもらいました。これら二つの見積もり書を評議会に提出し審議してもらった結果、屋根の修理と教会外壁の防水工事の費用は信徒がそれまで積み立てていた資金から支出する承認してもらい、後の支出はわたしの責任で行うということで信徒の了解をいただき、さっそく工事することになりました。この工事により教会は外側も内側もより一層祈りの家として整えることができました。

 

屋根の補修と教会の外壁の防水工事、それに窓の工事が済んでから3年後やっと、告白場の新設工事、玄関前のタイル張り、玄関天井の工事と玄関床の板張りの工事、それに教会前の3つの掲示板、その周辺の植栽工事を3年かかりで蓄えたミサ賽銭収入によりさせてもいました。それに並行して教会正面の復活のステンドグラス、教会入り口から駐車場にいたるツツジ約200本の植栽は、大井先生の寄附によるものです。氏の善意に対して感謝しています。年月がかかりましたが、これまでの一連の工事により深堀教会とその周辺は、以前よりぐんと祈りの家にふさわしくなったと思っています。赴任当初は深堀教会に巡礼者が見えるたびに恥ずかしい思いをしてきましたが、改修工事後は褒めてもらうことはあってもけなされることはありませんでした。今後の取り組みについてですが、九州建設より、屋根瓦の全面改修工事をすれば、あと15年位は現役で使用できるだろう、という励ましのことばを受けていました。将来、ふさわしい教会にするための積立金のことを小教区評議会で議題にしましたが、時は熟していなかったのでしょう。しかし、噂によると、平成21年から信徒の合意で教会建設の積立金が始まったと聞き喜んでいます。いつかはこの地区で誇ることのできる教会建設の完成を待ち望んでいる。深堀教会の6年間は、小教区以外の社会福祉活動とカリタスジャパンによる国内国外援助活動の仕事のために司牧活動に制約がありましたが、深堀の信徒と善町谷の信者には小教区以外の福祉活動に多大の協力を受けたことを深く感謝します。深堀教会在任中司牧活動で思い起こすのは、3年連続地区集会したことと信徒が自発的に立ち上げた聖歌隊活動を側面より支えた程度です。

信仰教育

教会は宣教と同時に信仰教育をもう一つの生命活動として、専念してきました。宣教することと信仰を育むことは、相関関係にあります。宣教活動が盛んな時代の教会は、信仰教育にも熱心な教会でした。信仰教育なしに福音宣教はあり得ない。深堀小教区に赴任した2001年頃には、少子化の波が上五島だけでなく長崎市内のすべての教会を襲っていました。浦上でも飽ノ浦でも仲町でも大浦でも滑石でも、さらに修道会が司牧する西町小教区でも城山小教区でも少子化が襲い、そのためにカトリックの保育所、幼稚園、学校の教育事業はどこも大きな打撃を受けていました。少子化の影響で神学校に入学を希望する神学生も修道会に入会を希望する志願生も激変し、期待できるほどの具体的対策もなく困っていました。深堀小教区も隣の学校法人純心聖母修道会の幼稚園も少子化の影響を受けていました。深堀教会の小学生も少なくなり、低学年の小学生の場合、10人以下となっていました。そのような厳しい状況の中にあっても、信仰教育によって次世代の子供を育てる養成の仕事は深堀小教区にとっても大切な務めでありました。

わたしが深堀教会に赴任したときの信仰教育と典礼奉仕は隣の純心聖母修道会の4人のシスターから奉仕を受けていました。主日ミサ後に行われていた教会学校では小学生を初聖体クラス、低学年のクラス、高学年のクラスの3つのクラスに分けて指導してもらっていました。中学生のクラスは、平日の晩に、それまで5年間、専属の教会カテキスタとして奉仕していた山田シスターに受け持ってもらいました。わたしの担当は、一ヵ月に一度小学生、中学生に赦しの秘跡を授けることと要理の指導をすることでした。教会学校の信仰教育の充実のために学期の始めにカテキスタのシスター方と打ち合わせをしていましたが、そこ場でいつも課題になっていたことの1つは、教会学校を欠席する子供たちに教会学校に来てもらうためにはどうしたらよいかということでした。

 

その頃、教区のどこの小教区でも信仰教育の弱体化が問題となっていました。それはカテキスタや主任司祭だけの問題ではなく、家庭を教会共同体にも大きな要因があり、今後の信仰教育の取り組みには、カテキスタ・家庭・教会共同体三者の熱意と連携がもう1つの課題であるという認識がなされていました。

このような環境の中で、長崎教区では司祭団を中心に熱心な討議と実践が重ねられ、また要理書編纂が試みられましたてきました。ところが、1992年に第2バチカン公会議に基づいた要理書「カトリック教会のカテキズム」が発行され、また2003年、日本司教協議会は日本の教会向けに「カトリック教会の教え」を発行しました。このような環境が整う中で、長崎大司教区信仰教育委員会は、20014月に始まる第1期活動計画に沿って『小・中学生信仰教育要領』と『小学生のための信仰教育カイキュウラム案』を作成し、2004年4月から一斉に各小教区で試行していくようにとの高見三明大司教からの勧告がありました。

深堀教会の場合、シスターや信徒の協力を願いながら、この務めにこれまで以上に取り組むことにしましたが、それ以前の課題がありました。それは深堀小教区は信徒が居住している地域が広く、親の協力と理解がなければ、子供がいくら望んでも、一人でケイコにも主日ミサにも出席できないという地理的な事情がありました。このため、保護者の理解を得る努力をしましたが、思うほどの成果はありませんでした。主任司祭のわたしがもっと要理教育に励むべきでしたが、深堀小教区では小教区以外の仕事をして多忙でありましたので、シスター山田に奉仕してもらいました。シスター山田は深堀小教区に専属のカテキスタとして12年以上奉仕しましたが、わたしの在任期間の6年間は、カリタスジャパンの事務局員として寛大な協力をうけました。深堀の司祭も信徒も深堀小教区から聖母会のシスターとなる志願生を派遣できるような信仰共同体に成長するように祈っています。

善町谷教会の信徒

わたしが赴任したときの善町谷教会は少子高齢化のすすんでいる教会となっていました。子供のいる若い所帯は3所帯だけで、後は高齢の世帯となっていました。善町谷教会の多くの信徒は深堀教会の地域内に転出し、その多くは三菱かその下請けの会社で働いていました。それでも昔ながらの信仰が保たれている教会でした。景観がよく、しかもルルドがある善町谷への巡回は司祭にとって憩いのひとときとなっていました。ミサ帰りにはよく季節で収穫されたサツマイモやタケノコ、スイカ、ジャガイモ、キュウリなどを袋一杯いただいて帰っていました。聖母被昇天とお正月にはかならず自家製のふくれ饅頭とカンコロ餅をたくさんいただきました。司祭を大切にするというこの伝統と信仰は、先祖から引き継いている信仰です。わたしは仕事に疲れたときによく善町谷教会まで散歩しました。溝部司教が長崎のコレジオで働いていた頃、しばしば善町谷教会を一人で巡礼していたと伺っています。それは善町谷が静かで景観のよい場所であることだけでありません。きっと善町谷の信徒の素朴な信仰心に惹かれたからだと推測できます。

散歩

深堀教会のすぐ後ろは深堀港になっている。港には所狭しとばかり漁船が係留し、現在はかつてのような活気はないものの、夏のペーロンシーズンになると賑やかになる。地元の漁師の話によると、深堀で専業漁師は減って来ているが、かれらは自分の持ち船で五島の沖合にでかけ、延縄でイトヨリとかアマタイ釣りの漁をして生計を立てている。組合には約50人位登録していると思われるが、年々後継者不足に悩んでいるようである。水揚げが減る一方、鮮魚の価格は据え置かれ、それに油の高騰により漁業だけで生計を立てることはむずかしくなっているらしい。しかし、教会周辺を散歩すると、深堀漁港に水揚げする光景や延縄のもつれを解き、針の取り替え作業をしている漁師の姿をみかける。釣り好きのわたしは仲知教会でしてきたように持ち船で釣りを趣味にする時間はなく、釣りは最初からあきらめざるを得なかった。その代わりに実践したのが善町谷までの散歩である。散歩は夜と通勤時間には出来なかったので昼間にした。散歩の時には夏であろうが、真冬であろうが、司祭館から善町谷の教会までの坂道を歩いた。途中、善町谷の信徒と出会って挨拶をかわすことは楽しみのであった。教会まで着くと隣のルルドに立ち寄り少しばかり祈りをして、引き返していた。所要時間は早くて1時間、ゆっくり歩くと1時間15分くらいかかっていた。善町谷のコースの次の散歩コースは食料品店エレナまで往復することであった。このときの散歩はいつも小さめのリックを背負い、ストアに立ち寄り、刺身になる鮮魚やアラカブなど好きな食料品を購入していた。ときにはエレナの後ろの三菱グランドで散歩することもあった。今そのグランドは大型総合ショッピングセンター“フレスコ”になり、エレナもそこに移転しているが、開店直前に転任になり残念だった。

賄い

深堀教会に着任して困ったことがいくつかありましたが、その一つが賄いの件であった。一応、着任前にお告げのマリア修道会会長と純心聖母会総長に電話で賄い奉仕を依頼したが、修道会の事情で受け入れ困難であることがわかり、賄いは赴任してからふさわしい人を探すことにして赴任した。赴任すると、小教区の司牧の他に福祉委員会とカリタスジャパンの仕事、それに仲知から持参していた古老のテープを掘り起こし作業などの仕事に追われ、ゆっくりと自炊する時間などなかった。しかしどこの教会にも司祭の窮状に理解を示してくれる信徒はいるもので、わたしの場合、深堀教会の古老山口スマおばさんから助けられた。彼女は前の深堀教会の主任司祭阿野師の賄いとして10年間教会に奉仕した人であったが、わたしが賄いに困っていることも知り、自分から食事の世話をしてくださった。しかし正式な賄いになってもらおうと思っていた矢先、足を痛めて急遽入院となった。山口氏の入院中から司祭館の近くの長浦さんが食品の差し入れをしてくれていたが、彼女が主人の了解を得て正式な賄いとして教会の奉仕してもらうようになり、わたしは仕事に集中できるようになった。
 



  
   
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