ペトロ 下口 勲

 

平戸口小教区

平成204月、高見大司教の辞令により平戸口小教区に転任となった。平戸地区で働くのは初めてのことで、ほとんど平戸口小教区の現状を知らないまま任地に着きました。

平戸口教会信徒の信仰

平戸口小教区には二つの巡回教会がある。一つは江迎教会ともう一つは潜竜教会である。転任前に手元にある平戸口教会献堂50周年を記念して発刊した平戸口小教区史を読み、平戸口教会に関しても情報を得ていました。それによると、かつての平戸口教会には育成会、青年会、火曜会、グミの会などが組織され活発な使徒的活動で賑わっていたことを知りました。そのような記念誌での情報によって、二つの巡回教会よりも主任座教会となっている平戸口教会が活気のある教会ではないか推測していましたが、平戸口教会は少子高齢化がすすむ教会となっていました。それに対して巡回の江迎教会と潜竜教会は佐世保市内に勤務するサラリーマン世帯か多く、その中には比較的若い世帯もいました。このような教会の実態は主日ミサ典礼に参加している信徒の年齢と教会学校の生徒の数によって把握できました。また、平戸口教会の信徒は、葬式のときなど参列者が少なく、信徒同士の交わりと一致という点で物足りないところがありました。しかしそれはかならずしも信徒の精というよりも、信徒が居住している地理的状況とその地域の過疎と少子高齢化に伴う社会的状況と関連があるのではないかと思いました。それにわたしたち司祭の指導不足も原因していたのかもしれません。前任者の長谷師が発会した謹生会が毎月のある土曜日午後7時から開催されていました。この謹生会会員の理解を受けて、今の平戸口教会の使徒職活動をもっと生かす道があったかもしれません。今後の会の発展を祈っています。

ところで、平戸口の家族の信仰は先祖からの信仰の伝統を受け継いだ根強いものがありました。現在、長崎教区司祭の生活は基本的に他教区の司祭と異なり、ミサ謝礼によって得られた収入によって生活をしていますが、平戸口小教区でのミサ謝礼のほとんどの収入は、平戸口教会の信徒から依頼されたでミサ謝礼からのものでした。先祖との信仰つながりを大切にし、その冥福を祈るためのミサ依頼することで、司祭を助けてくださる平戸口教会の信徒に感謝しています。また、平戸口教会では毎月の初金曜日の午前中、病人訪問をしてきましたが、その時は司祭にとって一人一人の信徒の信仰のすばらしさを肌で感じるときでありました。使徒言行録にありますが、「受けることより与えることが幸いである」とありますが、病人訪問では病人から学ぶ経験を何度も経験しました。たとえば、谷川病院に脳梗塞のため入院していたある信徒は、言語障害によりまったく会話ができませんでしたが、ご聖体を届けると、ことばにならないことばで顔一杯に喜びをにじませて感謝のこころを表していました。

平戸口、江迎、潜竜教会の子供の信仰教育

今子供たちがおかれている教育環境は偏差値教育、知的偏重教育、受験教育などますます厳しくなって来ています。親の過度の期待を背負って、一生懸命に勉強しなければならない日本の子供たちは、果たして、人間として最も大切な人間形成や、大人となる訓練をすることが、あるいは人間らしいこころを養うことが十分できるのでしょうか。わたしはそこに疑問を感じます。このような現状を顧みるとき、より健全で、より理想的な人間教育の必要性を痛感します。ではいったい、どのような人間を目指して教育していけばいいのでしょうか。それは簡単なことではありませんが、とにかく何とかしなければなりません。

 

平戸口小教区では、平戸口教会の子供は、中学生の指導を司祭がして、小学生の要理の指導はお告げのマリア西木場修道院のシスターにしてもらい、江迎の子供たちと潜竜教会の子供たちの要理の指導はカリタス修道会のシスターの奉仕で行ってきました。指導にあたっては、可能な限り、要理の勉強と典礼教育を通して子供たちが最高の教師であるイエスキリストの生き方を身につけ、愛を実践できる成熟した人間になることを目指しました。しかし実際には時間と地理的な制約があって理想通りの教育はできないままだったかもしれません。お告げのマリア修道会とカリタス会の惜しまない奉仕に深く感謝しています。毎朝の典礼奉仕のために夏も冬も西木場修道院から通い続けながら、子供たちに要理の指導をすることは大変犠牲だったと思います。また、カリタス会は昭和45年カリタス会聖母幼稚園として現在地に新設。それ以来、カリタス会のシスターも典礼奉仕と小学生の要理の奉仕を熱心にしてもらい感謝しています。今日の少子化の影響で幼稚園の児童数が減ってきているようで気になっていましたが、潜竜教会の司祭も信徒もすっかりカリタスのシスターに助けられて来ました。今は司祭も信徒も当たり前のようにシスターから奉仕をうけていますが、もし幼稚園が閉鎖になり、修道院が閉じることになれば、潜竜教会はどうなることでしょう。考えてだけでもぞっとします。今回カリタス修道会に入会した潜竜教会の吉田志願生はシスターだけでなく、潜竜教会の信徒にとっても希望の星です。

20084月からの教区組織再編成を前にして、20083月、長崎教区信仰教育委員会委員長烏山師より、小学生2年生、56年生のテキストと教案が配送されてきました。このテキストは実際の小学生の要理の奉仕をしているシスターと話し合ってから検討することにしていましたが、そのための話し合いは出来ない状況で福江教会に転任になりました。

平戸口教会空調設備

空調設備は、平戸口教会出身の信徒から大口の寄付があったことが導入のきっかけになりました。このたびの空調設備導入により、暑さ寒さに左右されず、どのような天候でも、すっきりした気分で、ミサ典礼や冠婚葬祭の儀式に参加できるようになりました。ある信徒は「寄付をしてくださったあなたに背を向けては寝られない」と言っておられましたよ。主日のミサや祝祭日だけでなく、平日のミサでも稼働し、日常的に涼しい環境で、神への感謝と礼拝を行うことができるようになりました。

江迎教会の改修工事

平成194月末、下口師着任したとき、江迎教会前の駐車場とその周辺のコンクリートが老朽化し不便になり、見た目の印象も悪くなっていた。また、梅雨の季節になると教会玄関とその周辺には水が貯まって大股で教会に入堂しなければならず不便であった。そこで、紐差教会の信徒の大山土木業者に依頼して教会前を駐車場にし、教会玄関も雨水で困らないようにし、ついでにポスター用掲示板を改装した。その後、信徒の了解を得て、教会の窓の工事、内陣の絨毯工事、聖書朗読台の改装工事をさせてもらった。それに江迎教会の内陣中央の十字架は以前の古い家御堂の十字架であったが、それは家庭用の小さな十字架であったため、現在の教会には不釣り合いであったので、新しい十字架に取り換えることにした。新しい十字架像は、フィリッピンの木彫り彫刻家として評判の高いフランク・ガジョー氏の作品。素材はフィリッピン産のランカ材であるが、非常に硬質な素材であるため思ったより遙かに重量があり、取り付け工事には3人がかりで半日もかかった。その後、現在の十字架上の窓の改修工事をして、復活のキリストを描いたステンドグラスを導入した。さらに教会周辺も信者やサクラ作業所の子供たちと職員のボランチィアにより水仙を植えた。

江迎教会空調設備

現在どこの教会でも大方エアコンは導入されている。わたしが着任したときに江迎教会には教会の似合った信徒用座席もエアコンもなかった。それに江迎教会の主日ミサは最終主日ミサを除いて、いつも部屋の温度がいちばん高くなる夕方の時間帯に挙行さされていたために汗をびっしょりかきながらの信徒も司祭も主日ミサの務めを果たしていた。そこで、江迎教会では信徒の同意を得て、同年の5月から9月にかけ、空調設備工事を行った。空調設備工事は、主任司祭の要望を信徒が受け入れて行われた。施工は長崎の吉野電気。改修工事と空調設備工事は献堂30周年と主任司祭の着任年と重なったが、信徒はこれらの工事により、教会が祈りの家として蘇ったことを喜び合い、一層祈りに励むことを誓い合った。たまたま工事の期間中に入院をしていたある江迎教会の信徒は、「しばらく教会を留守にしている間に、教会が見違えるように美しくなってびっくりした」と言って友人と喜びを分かちあっていた。他方、老朽化が目立つ信徒会館も床の間が特にシロアリで痛んでいたので、藤村大工に依頼し、その駆除とそれに伴う床の張り替え工事とクロス貼り工事を行った。これらの工事の基礎資金は、いずれも信徒の積立金によるものであったが、それだけでは資金の確保が出来なかったので、不足分を主任司祭からの補助金で補った。

江迎教会対話集会と授産施設サクラ作業所

また、江迎教会では評議委員と婦人会の協力と理解により、毎月の最後の主日ミサ後、信徒の交流を深めるための対話集会を司祭と食卓を囲んでしてもらった。この時には食事だけでなく、聖書朗読とカリタスジャパン四旬節の読み物を“つなぐ”用いての分かち合い、それに草刈り奉仕作業、年に一度程度の巡礼も計画していました。同じことを潜竜教会でもしていましたが、それが転任のため中途半端になり残念に思っています。私にとって毎月の最終の主日ミサは江迎の信徒との交流を深める日でした。ミサ後、みことばの分かち合い、ロザリオ信心、掃除、草取り作業、ガーデニング、信徒会館での昼食、年に一度のサクラ作業所のワゴン者を借りて巡礼旅行、授産施設サクラ作業所の子供たちと友好を深めるための野外焼き肉会など盛りたくさんの行事を計画。意義ある交わりの集会に定着しつつあったと確信している。

 

いずれの行事が実現できたのは、基本的には信徒の協力と理解のお陰でありますが、それと並んで、江迎教会の近くに所在する授産施設サクラ作業所の施設長末長幸子氏とその職員の協力と理解による。今後もサクラ作業所の職員と子供たちと連携を深めていけば、江迎教会はもっとだれでもが気軽に立ち寄ることのできる井戸端の教会になっていけるのではないかと願っています。

潜竜教会ステンドグラス

 潜竜教会は今は平戸口教会の巡回教会となっているが、かつては炭鉱で栄え、出津・黒崎・平戸出身の信者が多く主任座教会でした。最近は地元に誘致された会社や佐世保市市内で働く信徒が増え、日曜日の9時半のミサは若い家族でかつての活気と賑わいが蘇っている。平戸口教会から潜竜教会まで約20キロ、乗用車で所要時間は約25分。わたしが転任した時の潜竜教会は旧教会の跡地に新築された教会であった。最初の頃には、潜竜教会内にある司祭用の応接室に入ると、絨毯のにおいで新しさを肌で感じることができましたが、同時に新築落成に至るには司祭にとっても信徒にとっても大変な苦労が伴っていたに違いない。そう思ったわたしは、落成祝いとして教会正面の十字架の上にイエスの復活に関連した2枚のステンドグラスを贈ることを決意。その旨を信徒に話し、評議会でも議題にして了解してもらった。今回もイタリアのグラッシー氏に製作してもらったが、当時は世界経済危機の直前のユーロ高円安の時代でステンドグラスの価格が高く、支払いに困った。

潜竜教会対話集会

信徒の居住範囲が世知原、吉井、江迎と広い地域の散在しているため集会などは不便をきたすことがある。このため評議会役員は主任司祭を協議して、教会組織を4地区に分け、教会の情報が全信徒に浸透するようにしている。また、この教会には会員が“金曜会”と呼んでいた伝統的な壮年会組織があり、毎月の例会で飲食を通してお互いの親睦を深め合っていました。わたしはこの会合は夜に開催されていたために出席することが困難であった。しかしわたしはミサと小中学生のケイコをして司祭館に帰るだけの司牧で終わらせたくなかった。何とか工夫して、少しでも交わり、宣教する潜竜教会つくりに貢献するという望みを抱き、そのことはときどき信徒にも話していた。まず信徒と交流を深めるために経済評議員、婦人会を中心に呼びかけ、教会巡礼を計画していた。さらに教会から離れたまま佐々町内に隠れている信徒を教会に復帰させるための呼びかけと対策をどうするか潜竜教会固有な課題となっていたので、この課題にも誠実に信徒と共に取り組みたいと思っていた。そこで、金曜会とは別に毎月の第3日曜日を潜竜教会信徒との絆を深める日として位置づけ、ミサ後に集会を開き、軽食をしながら、潜竜教会を「交わり、宣教する教会」にするためにどうしたらよいか対話の時間を持っていた。四旬節になると江迎教会の信徒と同じようにカリタスジャパンの小冊子を用いて自分たちの生活や現代の社会を見直し、主の復活をふさわしく迎える準備をしていました。例会にはいつも主任司祭の呼びかけに答え、評議員、婦人会会員、カリタス会のシスター、一般の信徒が大勢集まり盛況であった。

北さんと吉田さんの家族

どこの小教区でも司祭の誇りとなり、慰めとなる家庭がおられる。平戸口小教区の平戸口教会、江迎教会、潜竜教会にも信徒の模範となる家族が何家族もおられた。特に印象に残っている家庭は潜竜教会所属の北氏の家族と吉田氏の家族である。両家族は潜竜教会信仰共同体の成長のシンボルになっているのではないかと思う。両家族はいつも江迎教会巡回ミサか潜竜教会巡回ミサのどちからのミサに家族で熱心に参加し、その子供たちはミサ奉仕者でしたので身近な家族でした。ミサ後、夫婦同士がおしゃべりを楽しみながら交流し、他方、子供たちは近くで遊ぶ様子を頼もしく思っていた。吉田氏の家族は主日ミサ以外の平日ミサにも、5月の聖母月と10月のロザリオ月にも親子で毎日参加していた。現在、北氏の長男はサレジオ会の神学生、吉田氏の長女はイエスのカリタス会の志願生となっている。弟や妹たちも熱心に教会に通い、のびのびと育って欲しい。潜竜教会の評議委員会も婦人会もまとまりのある会組織となっていることと、景気が冷え込み、8割近くの人が収入減や雇用の不安を抱える時代にあって、家族のむすびつきは重要だと、ほとんどの人が感じている。しかし日本の社会は学歴社会である。その教育制度も、偏差値教育、受験のための教育、知的変調の教育であり、より健全で、理想的な人間教育が欠落している。その対策としてわたしたちが取り組むべき教育は、信仰と愛の価値観によって子供を育てることです。なぜなら、故教皇ヨハネパウロ二世は使徒的勧告「家庭」で教えているように、信仰と愛なしには、家庭は人間共同体ではなく、信仰と愛なしには家庭は人間共同体として生きることも、成長することも、完成することもできないからです。司祭と修道女になると夢の実現のための歩みを始めている北神学生と吉田志願生の夢が実現しますように祈りながら福江に赴任した。

平戸口小教区信徒台帳

長崎教区では信徒台帳未整備のままの教会が多いのではないかと思う。必要性があり、司祭以外の信徒が現在の信徒の家庭の実情に併せた信徒台帳を作成することを試みたとしても、個人情報が障害となってほとんど信徒台帳の整理ができないことがどこの小教区でも課題になっているのではないかと推察する。この課題の克服には主任司祭の惜しまない協力とやる気が必要となる。主任司祭さえやる気を持って臨むさえすれば課題は克服できるのでないかと思う。しかし、司牧に多忙な司祭にとって、信徒台帳の整備は必要性を感じていても、その調査が複雑であり、面倒であることから、実際はしていない小教区がかなりあるのではないかと推測する。平戸口小教区でもそうであった。わたしも必要性に駆られて平戸口に着任後1年が経過した頃、信徒の家族調査をしてもらっていたが、実際の台長作成作業は避けて通っていた。しかし転任の内示が来てしまった。幸いに転任までには約2ヵ月ありましたので、最後の信徒への奉仕のつもりで平戸口教会、江迎教会、潜竜教会の信徒の家族台帳作成に集中した。作成においてはそれぞれの教会の信徒の事情に詳しい信徒に協力してもらいました。こうして転任直前にどうにか懸案であった台帳が完成しました。奉仕してくれた信徒の方々の協力に深く感謝しています。この信徒台帳の作成は大変ストレスのたまる作業でしたので、毎夜のように、新装したばかりのサムソンホテルに通い続け、サウナに入り、疲れをとっていました。
 
 

散歩と田平の美味しい鮮魚

平戸口は平戸市市役所支所がある集落になっている。近くには支所の他に郵便局、銀行、学校、病院、商店街が立ち並び、生活には便利なところとなっています。教会から1975年に田平町と平戸市を結んで架けられた平戸大橋や平戸瀬戸の急流や海に浮かぶ島々が眺められます。江迎教会、潜竜教会に巡回するときには買い物の場合を除けばたいてい裏道のヤマブキ道(農道)を通るのが普通であった。周辺が田園地帯となっているのでこの農道を走ると疲れもとれる感じであった。教会周辺も少し歩くと田園地帯と美しい海となり、散歩にきわめて適した場所がいくつもありました。野田、長久保方面へのコース、平戸大橋方面へのコースなどそのときどきの気分によってどこのコースにするか選択してから散歩していました。司祭館を基点にした場合のコースに限って紹介すると、主なコースは二つ。一つのコースは司祭館から蒲田集落を経由してクビキダムに至る道を往復するコースでした。時間のゆとりがあるときにはクビキダムをさらに通り抜けて福崎教会まで散歩しました。このコースでは途中が畑と田圃地帯になっていて四季折々の野菜畑やその周辺に咲く野生の花を鑑賞することが散歩の楽しみとなっていた。さらに時間の余裕あるときには、海外線に沿って回り道しながら散歩することもありましたが、最初の頃には道を間違えることもありました。

もう一つ買い物を兼ねた通常のコースがありました。それは司祭館から平戸口の駅まで上り、路線に沿って細道を通り抜けてアリーナ(ストア)までのコース。このコースの散歩では、愛用のリックサックを携帯し、お店で好きな食材の買い物をして帰っていました。平戸口は魚の値段も長崎に比すると格安で長崎では高値の華であったアラカブもここでは手頃な価格で買うことができました。イカにしてもイッサキにしてもクロにしても長崎より2割くらいは安く買え、日頃、刺身好きなわたしにとって平戸口での安全な食生活は、生活に潤いともたらす源となっていました。主日にも平日にも巡回のミサ帰りの途中でアリーナ(ストア)に立ち寄り、鮮魚を買って帰ることが日課みたいになっていました。江迎教会の信徒の岩崎さんより鮮魚をいただいてときには賄いと一緒に自分自身も調理しました。とくにいわし漁のシーズンになると、褥崎の新立信行氏からは新鮮なアジやカマスをトロ箱でいただき、日頃のご愛顧に夫婦には大変感謝しています。それから平戸口の信徒で素潜り漁の名人であった松下氏からはよくアワビとサザエ、タコ、ナマコなどをいただいていました。

平戸市の隣の市の松浦市は松浦発電所と漁港が有名でありますが、平戸口は松浦市に近い地域となっている。平戸口の教会には松浦の漁港に勤務する信徒もおられたが、わたしは松浦特産のサバの刺身が大好きで長崎からの来客があるときには、何度かサバのお店で接待していました。これまで上五島の丸尾教会、仲知教会、北松浦郡鹿町町の褥崎教会と釣りを趣味にして来ました。しかし平戸口教会では転任が早かった関係で信徒と一緒に釣りをして過ごす機会がありませんでした。

ガーデニング

釣りの代わりに趣味にしたのがガーデニングです。平戸口の高台に位置している平戸口教会は静かな住宅地の一角にある。900坪の広々とした境内は教会と司祭館が周囲に溶け込み、通りに面した教会横は祈りの家にふさわしいツツジなどが植え込まれている見事な築山となっている。正面玄関と司祭館側はルルドを中心にかなりのスペースがあり、そこは芝生と花壇になっている。芝生の方は信徒評議員の松山義信氏が奥さんと一緒になって定期的に芝刈りをして管理してくれていました。花壇の方は雑草がしげり、手入れもすることなくしばらくそのままにしていたが、2007年の9月、信徒の協力を得て整理することにした。まず、伊万里市松本花園からビオラやスミレなどの一年草をまとめ買いして、土地植えにしてみた。その後、潜竜の業者に依頼して花壇の土地全体の改良工事をした。そのときに機械で区画整理してもらっていたので、花の種類毎に植え付けをすることにした。それから、水やりなどの管理に心がけ、一斉に花が咲く4月と5月を楽しみに待ちわびていた。ところが、その花壇の整理が完了したときに、皮肉にも転任になってしまった。バラだけでも全部で40本あまり5種類くらいの植え付けをしていました。植え付け作業では、大方信徒の協力を受けましたが、近くのホームセンターナ・ナフコからスコップを購入して、自分でも植え込み作業し、水の手入れも熱心にしていたのだが、花の咲き具合はどうだったのだろうか。後で賄いの奉仕をしていてくれた田上サツエさんよりデジタル写真で撮った花を見せてもらったが、写真は全体でなく一部なのでその美しさを感じることはなかった。最後の平戸口信徒の田上サツエ氏には病身の身でありながら2年間賄いの奉仕をしてもらい感謝しています。彼女は前褥崎教会の主任時代から知っていましたので、無理を承知の上、教会奉仕をお願いしました。



  
   
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