ペトロ 下口 勲

福江小教区

20092月初旬、夜、高見大司教より電話でいきなり福江小教区への転任を要請されそれに従いましたが、転任のことはどこの小教区であれ全く予想していなかっただけにびっくり仰天しました。

多様な任務

福江では平戸口の信徒との別れの悲しみ、そして見知らず信者との出会いという不安な気持ちで大波止に着いてみると、下五島地区司祭、助任司祭、教会の評議員と一般の信徒、それにカテキスタのシスターに大勢出迎えを受けありがたかった。福江小教区では浜脇小教区兼任、下五島地区地区長、教区顧問としての多様な任務となっている。これらの多様な任務を果たすために現在福江教会での司牧、特に典礼の務めを主日ミサにしても平日のミサにしても修道院担当と教会担当に分け、それを助任司祭と交代で果たしている。これは決められた日程であっても慣れるのにかなりの時間がかかり、転任して9ヵ月になるが、いまだに慣れていない。今後、日程に従った行動を繰り返すことで無理なく司祭の務めを果たすことができるようになると信じている。任務ではないが福江小教区にはお告げのマリア聖家族修道院と福修修道院のシスターと2名の引退司祭が対しての配慮がある。シスターの場合、わたしは霊的指導司祭ではない。二人の引退司祭に対してもわたしが世話しているわけでもない。しかし同じ小教区の区域内に所在していることで、シスターに対しても引退司祭に対してもいろんなことを配慮しなければならない。特にシスター方とは聖マリアの園に入所しておられる地区の信者の世話と聖マリア病院に入院している信者の患者への世話において、共に協力してケアに励む立場にある。シスター方とは役割分担をはっきりとさせながら互いに協力し合って地域の福祉と病人への奉仕に尽力していきたい。

福江小教区史

福江での日常の生活にも社会生活にも司牧宣教の生活にも特に福江教会の評議員や婦人会など身近な方々に十分慣れていないことから物事や信者への適切な捉え方が偏り、状況判断を見誤り、行動が一方的になりがちであり、多大な迷惑をかけているのではないかと危惧しています。特に着任早々福江小教区のビジョンとして福江小教区史編纂委員会を立ち上げた件では信徒の実情を無視した押しつけになっていないかと気がかりです。福江小教区史編纂の必要性はあっても、信徒の実情を考えると、まだその機運になっていないかもしれない。そのような状況の中で、多くの信徒に編纂委員になってもらい、今では感謝しています。特に経済評議委員の奈切晃氏には編纂作業をライフワークにして取り組んでもらっています。わたしもこれまで所用で長崎に出向いた時には、必ずカトリックセンターに立ち寄り福江小教区の歴代の主任司祭に関する資料収集に努めてきましたし、今後も続けようと思っています。最初の頃、編集の仕事は暗中模索の作業でしたが、貴重な資料がたくさんみつかりました。資料収集に際してはいつも本部事務局委員の長野宏氏からは助言をいただきました。また、長崎教区歴史編纂委員会からは未公開の長崎教区歴史年表の資料の提供をいただきました。まだ編纂作業は始まったばかりです。今後、編纂委員の理解と協力により、編纂作業に向けての取り組み作業に励んでいきたいと願っています。

交わりの家

鳩山政権の政策の基本方針は人。子供手当や保育所増設など親が安心して子供を産み、育てる環境を充実させる。このため「コンクリートから人間へ」、「いのちを守り、いのちを育てる」ということをかけ声にしている。しかし、現実の日本社会は今、引き取り手がない孤独死する人が都会を中心に急増している。無縁死する人の中には、警察が無縁死した人の身元を調べても分からない人が全国に約1000人もいる。今まで普通に生活して来た方が晩年になったときに、つながりを失い、孤独死している。NHKの調査によると、無縁死者は毎年3万人を超えている。この数字はほぼ自殺者と同数である。

わたしは福江小教区着任後、4年後に控えた福江小教区表百周年を目標にし、現在の小教区を長崎教区が提言しているみことばの分かち合いなどによって交わりの家、憩いの家とすべく微力を尽くしたいと考えています。人間はパンのみで生きるべきでない。人間の尊厳にふさわしい人生を生きるためには周りの人と神の支えを必要としている。人間関係が薄くなっている現代社会では家族や友人、周りの人の支えなくしては人生を歩み続けることは困難である。人間にとって、人と人との出会いと交わりは富よりも価値がある。人との交わりこそが人に真に安らぎを与え、その心を豊かにしてくれる。しかし、人間の支えには限界がある。人間は人間を無から創造し、永遠に温かく見守り、支え、導いておられる神の支えを必要としている。人間の究極の幸せは、神との交わりによってこそ与えられるからである。すべての人を歓迎し、すべての人に奉仕する交わりの家、あるいは誰でもが渇きを癒すためにやってくる「水飲み場、憩いの場」となる小教区になるようにしましょう。過疎と少子高齢化がすすみ、若者が流出している現状ですが、福江小教区を交わりの家のするために力を尽くしたいと思っていますのでよろしくお願いします。

お告げのマリア福江修道院と聖家族修道院

前お告げのマリア会長の名切シゲ子シスターから、どこの修道院も会員の減少と高齢化の影響を受けている。しかし福江修道院と聖家族修道院は大きな所帯になっているということを伺って福江教会に転任してきました。赴任後の福江修道院での最初のミサでは、同じ修道服できちんと整列して熱心に祈り、歌う大勢のシスターの姿に圧倒されました。同時に、同じ修道服を身に纏うシスターを見て、ローマ聖座よりそれまでの聖ひ姉妹会が正式にお告げのマリア修道会に改称し、着衣式が実施されてことを思い起こしました。記憶に間違っていなければ1975年のことです。その年の4月から、わたしは大浦教会の助任司祭から大司教館勤務になっていました。各修道院の着衣式は里脇大司教様の指示のもとそれぞれの主任司祭を通して各地の修道院で実施されましたが、辻町の本部修道院での着衣ミサは里脇大司教様がみずから司式なさいました。その着衣式にお告げのマリア修道会の指導司祭をしていた松永久次郎師(当時はまだ司祭の身分)と一緒に預かり、その後、玄関前で記念写真を写らせてもらったことを記憶しています。当時第二バチカン公会議の影響を受けてか、かなりの修道院がそれまでの修道服を私服に換えていた流れの中にあって、お告げのマリア修道会では、会員同士の間に修道服にすべきか、今まで通りの私服にするかどうかかなりの議論があったと伺っていますが、当時の修道会の役員のシスターが司教様や松永指導司祭の指導に従い、修道服に決定したのは英断であったと思います。伝統のある長崎教区との強い絆の中で小教区の司牧と子供たちの宗教教育に奉仕することを目的に創立された修道会であることを考えるにつけ、この修道服着用は福江で病人と高齢者のために献身するシスターにふさわしいと思いました。同時に福江と浜脇小教区での小学生や中学生の要理教育や典礼奉仕、それに病院と老人ホームを通して医療活動と社会福祉活動に協同していただき、神の国の到来の目に見える印になってもらえればすばらしいことです。司祭は苦しむ人のための愛の奉仕者です。ベネディクト16世教皇は第18回世界病者の日のメッセージで「司祭は病者の奉仕者としてすべての苦しむ人に伝えられるべきキリストの受難のしるしであり道具である」と述べて言います。日本の司教団も社会と共に歩む教会の優先課題の一つとして、「一人一人の苦しみを分かち合う」ことを求めている。これらの司祭の聖務をお告げのマリアが取り組んでいる医療事業と福祉事業と可能な限り連携し、お互いの分野をわきまえ尊重しながら、神の国の建設のために共に尽力していきたいと願っています。

浜脇教会司祭館と牢屋の迫殉教教会の改修工事

司祭の聖務は神と人に仕えることです。わたしたちはすでに何かに仕えていますが、だいたい自分の夢や願いを中心にして生きています。夢や願いは理解しやすい、身近な目標だからです。ただ主につかえ、人に仕えるとなれば、自分の夢や願を後回しにして、神の思い、願いを中心に据えなければなりません。しかし神の思いははっきりとした思いとはっきりとしない思いととがあります。司牧に関しても同様なことがいえるのではないかと思っています。これを確かめることは常に私たち司祭にとって大切なことであります。

 

これまでかかわりと関心があって、多くの小教区で転任したときに教会の改修工事をして教会を祈りの家としてふさわしくなりように整えてきました。今回の転任先の福江教会も浜脇教会も教会自体の改修工事の必要はない教会です。鉄筋コンクリート造りの福江教会の内陣正面にはイエスのみこころを描いたかなり大きな絵画が安置されています。浜脇教会も昭和初期に建立した鉄筋の構造物であり、内陣正面にはみこころ像が安置されて教会によく溶け込んでいるので、今以上に修正するとか別のご像に換える必要はまったくありません。しかし浜脇教会の司祭館とその巡回教会の牢屋の迫殉教教会は評議会を開催して評議員の同意を得てそれぞれ改宗工事をしました。牢屋の迫殉教教会は川上忠秋師が主任司祭のときに建立した木造の教会ですが、すでに建立後25年が経過していながら、これまで一度も防水工事をしていなかった。そのため教会のあちこちにひび割れとかクランクが発生していました。司祭館も30年前、前田万葉師が主任司祭であったとき、そのころに流行った安価な新建材で建立した木造の構造物である。これまで雨漏り防止の屋根の工事をしていましたが、それ以外の老朽化している個所の改宗工事はほとんどしていなかった。そこで今回は五島市福江教会信徒の岩下建設に依頼し、屋根の増水工事、外部のペンキ塗り替え工事、それに一階の廊下と食堂の板張り張り替え工事をさせてもらいました。総工費は牢屋の迫殉教教会改修工事を含めると245万円ほどでした。

 

牢屋の迫殉教教会も浜脇教会の司祭館も長崎教区の財産です。長崎教区の財産である以上、教区長の許可が必要でした。しかしこれまでわたしは司教様の認可をうけず工事をしてきました。これからはすべての工事について教区会計か秘書を通して教区司教の許可を受けることにします。浜脇教会司祭館と牢屋の迫殉教教会の改修工事に関しては事後報告の予定です。今年は牢屋の迫殉教地の整備事業として「信仰の碑」の台座を活用し、純心大学の本田先生に依頼して当時の殉教を忍ばせるレリーフ製作をしてもらう計画です。すでに信徒評議会の了解を受けていますが、大司教様にお願いして実現させようと願っています。

散歩と釣り

主なコースは二つ。一つは福江川に沿ってその沿道を福江ダムまで往復するコース。このコースは川の流れ、そこの生息する川魚、それを狙う渡り鳥、田園など、のどかな風景を鑑賞しての散歩である。しかし冬時期は暗くて道が見えなくなり危険が伴うことから、昼の時間帯が長い夏のシーズンに限っての散歩にする計画。もう一つは司祭館から小田町方面にまっすぐ通り過ぎ、田園地帯に至り、奥浦の曲坂を経由して福江市内を通って司祭館に戻るコース。今年の教区司祭マラソン大会では、小田町コースを歩いて足腰を鍛え、若い司祭たちと一緒に汗を流そうと計画していましたが、レース直前に風邪を引き、十分なトレーニングをすることもなく参加しました。タイムは悪かったが、それでも亀の足取りで、福江と浦頭の信徒、子供たち、シスターたちの応援のお陰でやっとの思いで完走できたのは何よりもうれしいことでした。

 

釣りは希望しているのにまだ実現していません。今年は舟釣りを副業か趣味している信徒を見つけて、友となり、一緒に鯛釣りなどをして憩いのひとときと持ちたいと思っています。わたしは上五島桐教会出身ですが、桐は陸地こそ狭量で畑に恵まれていませんが、目の前は天然の漁場になっていて、前戦には川波の缶詰会社がありましたし、戦後も衆議議員だった白浜仁吉氏の実兄の経営のイワシ網船“勢漁丸”の基地として賑わいました。その桐に昭和20年、漁師の4男として生まれ、イワシとアジ、いもとかんころで育ちました。わたしの先祖は外海村池島からの移住者で、信仰のDNAを先祖から受け継いでいる。それだけでなく、魚のDNAも受け継いでいる。これまで丸尾小教区、褥崎小教区、仲知小教区、深堀小教区、福江小教区で司牧しましたが、深堀小教区を除けば、すべて漁師を職業にする信徒が圧倒的に多い小教区でした。深堀教会もすぐ目の前が漁港となっていた。毎朝、製氷会社の氷を砕く騒音に悩まされてミサをしていた小教区だったのです。最後に詩編126の1節のことばを引用してわたしの司牧の回想を終わりにします。ありがとうございました。「主と共に働くわれらは主と共にその実りを味わう。」



  
   
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