歴代主任司祭

 

第6代 イグナチオ 今村悦夫 師 

1942年(昭和17年) 12月、   堂崎教会主任司祭 巡回福江教会

1944年(昭和19年)        転出

 

1905年(明治38年) 11月、   北松浦郡田平町に生まれる。

1918年(大正 7年)  9月、   長崎公教神学校入学

1929年(昭和 4年)   月、   東京大神学校入学

1933年(昭和 8年)  6月29日、早坂司教より大浦天主堂にて司祭叙階。

1933年(昭和 8年)  9月、   長崎公教神学校。

1934年(昭和 9年) 11月、   浜脇教会主任。

1937年(昭和12年) 12月、   鯛之浦教会主任。

1940年(昭和15年)  8月、   青砂ヶ浦教会主任。

1941年(昭和16年)  6月、   中町教会主任。

1942年(昭和17年) 12月、   堂崎教会主任司祭 巡回福江教会

1944年(昭和19年)  2月、   大浦教会主任。

1947年(昭和22年) 12月、   紐差教会主任。

1949年(昭和24年) 12月〜   宝亀教会 (紐差教会兼任)。

1951年(昭和26年)

1953年3〜7月(昭和28年)    宝亀教会 (紐差教会兼任)。

1963年(昭和38年)  2月    黒島教会主任

1983年(昭和58年)  3月、   引退。お告げのマリア修道会黒島修道院チャペル付司祭館へ。

1988年(昭和63年)  2月28日、聖フランシスコ病院にて帰天 82歳。1988年(昭和63年)  2月29日、浦上教会にて大司教区葬。

赤城聖職者墓地に埋葬。
 
 

1932年(昭和 7年) 11月 1日、カトリック教報

南田平及び神崎堅振傍観記

本年は南田平及び神崎地方の堅振年に当たっているそうだ、例年通りに行けば長崎教区司祭一同の黙想直後と言うことであるから10月下旬か11月上旬というが定石であるが、本年は多少の番狂わせが来て9月4日の日曜に突然南田平天主堂で、中田神父様から9月11日の日曜に堅振のあることが一般に布告せられた。6月の土用休暇を利用して常々の準備に馬力を掛けて其事のためにとて用意してた事とて受堅の児童達は、このニュ−スを聞いて一層緊張するのであった。段々情報を集めてみると、本年は特殊の事情が其の間に介在しているとの事である。南田平が生んだ現在東京大神学校の神学4年級の今村君は既に助祭の位を享けて居らるゝ。土用休暇で帰省中も中田神父様の片腕となって児童の教理研究を指導せられたり帳簿の整理やらその他の教務に真に助祭の役を確実精勤に助成されて居られるゝことは、あの瀬戸山の天主堂所属の司祭館の一隅を一瞥せられた方はご承知の通りだ。

然るに此の今村君は来年は司祭で一度は錦着て帰郷せられるであろうが、今日助祭として頒け与えられた職責中の盛典、即ち晴の舞台は余所は知らぬがご自分の郷里では誰一人として見た事はない、そこで司教様にも之に留意せられて今村君の夏休帰省中、堅振のついでに司教大歌ミサを挙げさせられて一には今村君に我が郷土に於いて本職の盛典を郷里の人々の前で行使して助祭の権能を発揮せしめ、一には地方の教会では滅多に見られない聖会盛儀を荘厳なる司教歌ミサに於いて展開せられた、信徒一同に信心恭敬の念を一層鼓吹せられようとの御望みとの事である。此の日午前9時高く鐘楼より南田平の原野に鳴り渡る合図の鐘の音と共に、歌ミサの序幕は切り落とされた。型の如く大玄関よりの入堂式、オルガンの音に合わせて歌う荘重なる“Saccrdos et Pontifex”幾多の侍者に助けられて、高座にての着衣、今や司教歌ミサの準備は総て整うた模様である。遥か

後半 教報が無く記録 不可

 
 

1933年(昭和 8年) 7月15日、カトリック教報

長崎教区の二大慶事 司祭叙階式と神学校移転祝い

 6月29日聖ペトロ、聖パウロの祝日に、長崎教区では二大慶事が挙行された。その一は司祭叙品式で、他の一は長崎神学校移転祝いである。叙品式 長崎教区では5年前に叙品式が行われたばかりで、その間、島内・本田・大崎・田崎・畑原・五霊父の長逝によって極度に司祭の欠乏を来たし、浦上教会の如きは8千の信徒を一人の司祭が司牧する様な惨状を呈していたのであった。従って今回3人の司祭が叙品された事は実に干天の慈雨であり、全教区が三師に期待する所も亦それだけ多大なものがあるのである。さてイグナチオ今村悦夫、フェルナンド畑田善助、ヤコブ溝口正雄の三師は6月中旬、東京大神学校を目出度く卒業して、急遽長崎に帰られ、6月22日より東山手なる公教神学校において同校々長浦川師の指導の下に司祭叙品準備の黙想に専心従事せられていたが6月29日、早坂司教閣下によって慶く司祭に叙品されたのである。午前8時大浦天主堂の鐘楼から式の初めを告げる鐘が勇ましく鳴り響いた。この日は幸い木曜日だったので、長崎市は言うまでもなく、平戸・五島・黒崎・大村・伊王島・福岡などから來崎された20余名の聖職者、浦上・港外・外海・五島・平戸・黒島・朝鮮等から参集せる信者によって信徒席は言うも更なり、付属のシャペルも樂楼も立錐の余地なきまでに埋まり、何れも熱心に叙品式の進行に注目凝視するものであった。

三師は純白のアルバを着流し、白色の祭服を左腕に携え、右手に蝋燭を持ち、敬虔荘重な足取りで祭壇の前へ進んで行く。早坂司教様には神学生のエッチェ、サチェルドスの聖歌に迎えられて御入堂、緋の祭服を御召になり、浦川校長を大司祭に、中田師・出口師を助祭・副助祭とし、多くの侍者を引具して式を挙行された。先ず大司祭浦川師が被叙品者の近接を促すや、公証人たる松岡師は三師の名を呼びたてる。三師が司教閣下の前に跪くや、大司祭は司教閣下に向かい、この3人を司祭に叙品せられんことを請願する。司教閣下は「彼等がこの聖品に相応しきことを知るや」と反問し、「人間の浅ましさが許し得る限りにおいて、彼等が相応しきことを知り、且つ保証す」と答える。それでも猶司教閣下は大事を取って、信者の意見をお尋ねになる。然る後被叙品者に向って聖職の重要さを説き、懇ろに注意を与え、やがて、諸聖人の連祷が歌われ、被叙品者は祭壇の下に平伏して祈る。

次に按手禮があり、司教に次いで立合える司祭等が皆同じく按手する。又その次に司教閣下は序誦の曲で、この秘蹟の形相を歌い、聖服を着せ、唱歌隊がウエニクレアトルの聖歌を歌う間に、両の掌に聖油を塗り、パテナとカリスに手を触れしめる。ここにおいて三師はいよいよ「永遠の司祭」、「第二のキリスト」となられたのだ。よってパンの奉献から司教と共にミサを朗読する。緊張した満堂の胸は、その感激の顫に打たざるを得なかった。聖体拝領前、司教と新司祭は平安のしるしに接吻をなし、やがて今日始めて親ら祝聖した聖体を司教の手より拝領する。明日からは自ら祝聖して自ら拝領するのである。司祭! ああ永遠の司祭! 彼ら司祭によって十字架の祭りは再現し、悪魔は追い払われ、神の御国は打建てられ、人々は永遠の救いを得るのである。聖体拝領後、新司祭は司教に従順の約束をなし、続いて特別の祝福を与えられ、やがてミサは終わり、式は閉じられた。
 
 

新司祭の標語は次の如し

「神は愛にて在す、而して愛に止まる者は神に止まり奉り、神もまた之に止まり給う」(ヨハネ14の17) 今村神父「人全世界を儲けるとも若し其生命を失わば何の益かあらん、又人何物を以てか其魂に代へん」(マテオ16の26)畑田神父「誰も其友の為に生命を棄つるより大いなる愛を有てる者はあらず」(ヨハネ15-13) 溝口神父叙品された三師は、正午聖職者の歓迎会に臨み、司教閣下を始め浦川校長、三師の出身地の主任司祭守山・中田・出口の三師、前の神学教授ドルウエ師、マリア会のルシュ師等の祝辞やら忠言やらあり、三師は交々起って謝辞を述べられ、終って記念撮影をなし、午後3時半東山手の神学校に於いて神学生の歓迎会に臨まれた。因みに今村師は平戸南田平出身、頭を捻ってよく考える人、堀川直吉氏の従弟だ。畑田師はもと五島久賀島の人、善助というその名に違はず、強健にしてしかも善意の持ち主。溝口師は浦上の人、松岡師の甥さんで、松岡師に劣らず人気男となられるだろうと皆が期待している。

 
 

1958年(昭和33年) 8月 カトリック教報より

今村悦夫師 題名不詳 後半の文のみ(教理研究所落成式)?

前半 教報が無く記録 不可

 

間の久しきに亘って蛍雪の功を積み、見事司祭の栄冠を勝ちえ、第二のキリストとして祭壇上に立たれた。我が南田平最初の司祭、今村悦夫師の御英姿を仰ぎ見ることが出来、はちきれんばかりの喜びと感激に満たされた三千の信徒は、堂内に満ち、間もなくオムニス・グロリアの聖歌は声高らかに、荘厳に、神学生及び愛苦会の人々によって歌い出された。ミサ後、当教会主任中田師はお立ちになり、赤貧洗うが中に呱々の声を揚げた此のささやかな南田平教会も殉教者の流された尊い御血によって清められ、二十六聖殉教者堂の一つとして青空高く聳えている。最近には教理研究所も新たに建設された。しかしそれは物質的方面で、精神的方面には、今度此の教会に目出度く一人の司祭が生まれた、なお未来の司祭として、長崎に、大阪に・東京に・鹿児島に・宮崎に幾多の神学生を送り、又マリア会を始め、その他トラピスト会、その他の女修道院にも幾多の修道士・修道女を送っている。斯くの如く、一歩は一歩より進行を早め、隆盛の花を見るに至ったのも殉教者の棄てて惜しまぬ御血の賜物である、と力説せられた。終って神父様を始め、信徒一同祝賀会に移り、先ず新司祭に対して祝辞がのべられ、今村師が答えられた。次に中田神父様は慈父の心を打ち明けて、自分が学生時代の事を物語り未来の司祭として、学徳の修養に日夜奮励怠り無き田平神学生に美しい御教訓を賜った。それから波風荒い40有余年の間、幾多の涙ぐましい奮闘を続け教会の手助けとして、信徒に教理を教えて善く其の本分を尽くし、以って今日の教会建設の基礎を築き上げて下さった山口善太郎氏、及び川崎ソネ老婆には、その汗と努力の賜物に対して、厚く謝意を延べ今後も続いて教会の為に御尽力下さらんことを頼み、今村神父様と此の二人の功労者に記念品を献呈された。

 式後、新築教理研究所の落成式にとてモチマキを行い、最後の祝宴を開いて喜びの盃を挙げ、終って記念撮影をなし、散会したのは午後3時ごろであった。此の喜ばしい天気、青葉に照り映ゆる太陽の下に、高く揚げられた日章旗は翩翻と微風に動いている。

 顧みるに、創設日尚浅きこの教会が、歩武堂々と前進の歩みを続け、今日あるを得たのは、主任司祭中田師の不屈不撓の御精神と、日夜止む事無き御活動の賜物である。我らは此処にこの大いなる御活動を感謝すると共に、神父と信者とがよく相援け、相励んで、我が南田平教会をして長崎教区中、屈指の模範教会たらしめんことを期するものである。
 
 

1958年(昭和33年) 8月 カトリック教報より

今村悦夫師銀祝 

 紐差教会主任、イグナシオ今村悦夫師は、来る6月29日、司祭叙品25年を迎えられる。師は北松南田平教会出身、神学校では里脇大司教様や故大迫窄師と同級で、昭和8年6月29日司祭叙品後、神学校教授、久賀島、鯛の浦、青砂ヶ浦、中町、福江、大浦各教会主任を経て、昭和22年現在の紐差教会主任になられた。当年52歳。

 

1983年(昭和58年)7月1日  カトリック教報

神と共に歩んだ50年

里脇枢機卿と今村悦夫師の司祭叙階50周年を祝って、6月24日カトリック・センタ−で記念ミサと祝賀会が催された。里脇枢機卿は、昨年12月に金祝の記念日を迎えられていたが、健康上の理由から祝賀会が延期され、この日に祝うこととなった。記念のミサには教区司祭団の他、修道会司祭、修道女代表ら約百人が参加した。松永司教は「叙階の時に与えられたキリストの永遠の司祭職を、ますます自覚し、里脇枢機卿を中心に司祭団が固い一致を保ちながら、長崎教区のよい伝統を生かし、神の民の発展のため司祭職において奉仕しましょう」と、説教された。

また祝賀会では、浜口庄八師(教区顧問・福江教会主任司祭)が二人にお祝いの言葉を述べた。浜口師はこの中で、先ず枢機卿に対し、世間的に言えばあなたは常に、輝かしい道を歩んでこられた。然し絶えず重責の任にあって、心労も人知れず大きかったことと思う。振り返ってみれば、長崎大司教区に着任以来、カトリック・センタ−の建設、神学・聖書・結婚講座の開設、修道会の招請、それに教皇来日を実現されたことなど、日本の教会、及び長崎教区の歴史に記念すべきページを残した功績は計り知れないと述べ、ねぎらいと感謝の意を表した。又今村悦夫師には、目立たない普通の主任司祭として50年間働き続けて来た司祭生活にふれ、同師の全く庶民的で謙遜な人柄は、司祭団にとってすばらしい手本であるとたたえた。記念品贈呈に続き、今村師が挨拶に立ち、自分の司祭生活で一つだけ誇りに思うのは、司牧した信徒の中から数多くの司祭・修道女が輩出したことです、と言葉少なに語った。続いて枢機卿は、今日まで来られたのは、まず神の御計らいのお陰であり、次によい信徒に恵まれたからです。今日からダイヤモンドの祝いを目指してがんばりますと、力強いお言葉があり、なごやかな雰囲気の中に祝賀会を終了した。

 
 
   
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