インド、バングラデシュ少数民族支援地訪問

インド視察旅行に参加して

私は2006年2月3日(金)から10日(金)までの8日間、カリタスジャパンの海外援助プロジェクト「インド視察」にカリタスジャパンチーム4名の方々と行って来た。今回の視察の主要目的は、カリタスジャパンが提供した援助金で建設されている「インドオリッサ州の先住部族の子供たちの寄宿舎」を視察することによって、援助金が有効に使われていることを確かめることと、現地のスタッフや子供たちとの交流を深めることにあった。

1,日本からは遠い国インド

出発前の私には気がかりなことがいくつかあった。その一つは長崎を2月2日(木)早朝出発してから、視察の場所であるインドオリッサ州、山岳少数民族の子供たちの寄宿舎に到着するのに丸4日もかかり、さらに所用のためカリタスジャパンチームより2日間早く帰国しなければならず、日程の大部分が移動時間に費やされることが分かっていたからである。こんな中途半端な視察旅行で果たして派遣者としての任務を誠実に果たせるのだろうかと言う気がかりであった。私たちカリタスジャパンチームは2月3日(金)午後10時過ぎ、インドではデリーに次いで2番目に人口が多いコルコタ(カルカッタ)市の郊外にある国際飛行場に着くと、カリタスインド西ベンガル地域事務所長で、今回の私たちカリタスジャパンチームの案内役のサンジャイ氏の出迎えを受け、その夜は彼が予約してくれていたコルコタ市内のホテルで一泊。翌日午後からサンジャイ氏の案内でコルコタ市内を見学した後、同市のハウラー駅から午後10時30分発の夜行列車でオリッサ州ジャルスガラへ出発。コルコタ市から南東に400キロの距離にあるジャルスガラ駅には2月5日(日)早朝に到着予定だったが、3時間近くも遅れ、ジャルスガラ駅のプラットホームに降りたったときには照りつける太陽の光線がまぶしい昼間になっていた。インドでは列車時間の遅れはよくあるらしいが、日本では列車が3時間も遅れるなら、乗客にその理由を説明しお詫びするのが社会常識である。ところが、私たちカリタスジャパンチームが乗り合わせたインドの夜行列車は、帰りの夜行列車も同じように2時間以上遅れたのに、その経緯を乗客に説明するアナウンスは一度たりともなかった。

私たちカリタスジャパンチームは、同駅から近いところにあるサンバルパー教区社会福祉協議会センター職員の出迎えを受けた。同センターに立ち寄り昼食の接待を受けた後、午前11時過ぎ、いよいよ最初の訪問地オリッサ州バリバアルにある少数部族少女のための寄宿舎へ向かって出発。約200キロの道程を、サンジャイ氏が予め予約していたジープ二台に分乗し、アサファルトで舗装されていた平坦な国道を猛スピードで走ったが、目的地に到着した時は昼休み時間をとっくに過ぎていた。しかしながら、今回が初めてのインド旅行であった私にとって、一人旅ならきっと退屈になるはずの長い移動時間が、カリタスジャパンチーム相互の理解と交流を深める機会になっただけでなく、さらに現地のスタッフとも交流を深める機会となった。

2,        パートナーシップを構築する絶好の機会となった移動時間

5ヵ国語は話せるという案内役のサンジャイ氏は、実に気さくな方で、開発援助に関してのしっかりしたキャリアと見識を持っており、私たちのどのような愚かな質問でも丁寧に答えてくれる誠実な人柄であり、しかもユーモアのセンスを持っていた。また、カリタスジャパンチームより一足早く帰国する私のことを配慮してグループのスケジュールを一部変更してくれた。このためコルコタ市の巡礼地としてすっかり世界的に有名になった福者マザーテレサが創立した神の愛の宣教者修道会本部とシスターが路上に行き倒れになっている人々のために最初に造った施設「死を待つ人の家」の巡礼ができた。帰国の際にもコルコタの飛行場まで見送くってくれた。私のためだけでなく、私たちカリタスジャパンチームのため現地でのスケジュールの企画、宿泊の予約、それに加えて、交通手段である夜行列車、専用のジープと食事の手配など、私たちカリタスジャパンチームがより快適な環境で視察旅行ができる配慮をしてもらった。特に夜行列車の長い待ち時間に、サンジャイ氏の気遣いでプラットホームと列車内で一緒にいただいたインド特産のお茶は、格別に美味しく忘れられない想い出となっている。

他方、サムバクバー教区社会福祉協議会の秘書で、今回のわたしたちカリタスジャパンチームのインド視察のハイライトであったオリッサ州バリバハルとパルハラにある男女の山岳部族寄宿舎訪問に同行してくれた若いジョン神父は、温かく親しみやすい穏和な人柄であった。移動時間だけでなく、カリタスジャパンチームが事情によって二泊することになったサンバルパー教区社会福祉協議会センターでは、紙を使う習慣のないインド人様式のトイレで私たちが困っていることに気づくと、直ちにトイレットペーパーを各部屋に準備し、また、センターとその近所にある聖ヨゼフ修道院での2月6日と7日の早朝ミサでは、私たちカリタスジャパンチームのために座って行うインド固有のミサ典礼の司式を担当してくれた。このようなお二方の気遣いと配慮は私たちカリタスジャパンチームにとって有り難いことであった。特に異文化ショックで緊張している私にとっては、同じ信仰で結ばれた兄弟としての連帯と交わりを深めることになった。

ところで、今回の視察旅行の第1の目的は、カリタスインド設立50周年を記念して、カリタスジャパンがカリタスインドを通して送金した援助金が、山岳民族の女子と男子の寄宿舎建設に確実に使われているか、建設後、寄宿舎としてうまく活用されているかどうかを調べ、それを日本の援助者へ報告することにある。しかし、それと並んで今回の視察で私たちカリタスジャパンチームが出発前に非常に重要なことだとお互いに強く認識していたことは、視察に派遣される私たちカリタスジャパンチームと現地カリタススタッフとのパートナーシップを構築することにあった。援助をする先進国は援助を受ける国に対して発言力や決定権を持ち、援助金をどこに使うべきなのかなど用途までも決めてしまう傾向にあると言われている。しかし、主役はあくまで援助の受け手の当事者である。正しい援助のあり方は援助の受け手が自らの判断で選んだ道を出来るだけ尊重し後押しすることである。時間つぶしのようにみえた移動時間帯が、当事者とのパートナーシップを深めるために大きな役割を果たしたことになったのは旅行前には考えてもいないことであった。

 

3,        インド、オリッサ州バデハバル教区の宣教ビジョンは、キリスト教共同体つくり 

カリタスジャパンの海外援助活動は国籍や宗教を越える社会活動であり、同時に日本のカトリック教会が海外の援助活動に貢献することを目的にしている。長崎カリタスジャパン担当者の私自身、長崎教区司祭として小教区の司牧宣教も兼ねているので、今回のインド視察では、日本のカトリック教会がスローガンにしている福音宣教という視点でインドを視察した。私たちカリタスジャパンチームは、2月5日(日)と6日(月)にカリタスジャパンの援助金で建設されたオリッサ州バデハバルにある少数部族少女のための寄宿舎訪問と同州バデハバルにある少数部族少年のための寄宿舎訪問をしただけでなく、2月7日(火)午後には、オリッサ州バデハバル市の司教館を訪れ、司教様と面談させていただいた。面談時間は司教様が心臓病のため短い時間になった。それでも私たちカリタスジャパンチームにとって司教様との面談は大変印象深いものであった。それはバデハバル教区での司教様の福音宣教への熱い思いと取り組みにとても共感出来たからである。

バデハバル教区の司牧区域であるオリッサ州は、西インドのベンガル文化圏に入り宗教と歴史の重みを感じさせる州で、ベンガル湾近くにある州都ブバネーシュワルは、インドの各地から巡礼と観光客を引きつけている聖地となっている。人口は3670万人でその内の80%が村に住み、24%が山岳民族である。主要言語はオリヤー語であるが、各部族に固有の言語がある。車窓から眺めるオリッサ州は広々とした田畑、森林がどこまでも続き、豊かで美しい自然に恵まれている。通り道の街や村のあちらこちらに見える広場では人々が三々五々集まり、何することもなくただのんびり過ごしている。また、街や村の中の所々に設置されているポンプ式井戸で汲み上げ作業をしている婦人、車道でのんびりと寝そべる牛や山羊など、かなりのスピードで走り抜けるジープの車窓から眺める風景は、自然と共生して生きている人々と動物ののどかな風情であり、やや緊張気味の旅の疲れを和ませてくれた。事情が許せば、どこかの村か町にぶらりと立ち寄り2,3日旅人として留まり、ゆっくり過ごしてみたい衝動に誘われた。

ところが、オリッサ州の人々の暮らしは大変厳しい。日本の国土と比べると大陸のようなインドでは最も貧しい州と言われ、ハンセン氏病の発生率が最も高く、貧困というとてつもない最悪の難題を背負っている州である。私たちカリタスジャパンチームは、これまでの3日間、バデハバル教区を初め、バデハバル教区の司牧宣教に協力しているベタニア女子修道会、聖ヨゼフ女子修道会、フランシスコ修道会、神言修道会が、それぞれのやり方でインド政府、インドカリタス、カリタスジャパンなどから援助を受けて活動している教会、学校、寄宿舎を急ぎ足で視察して来たが、その中で一番オリッサ州の悲惨な現実を現していたのは、司教館を訪問する直前に訪問したコロニーである。このコロニーはオリッサ州では一番小さな町ジャスガハラに所在し、ハンセン氏病や村を出てきた貧しいローカーストの人々が暮らす集落。45家族、120名で、大部分の人が物乞いで生計をたてる。近くでミッションスクールを経営している聖ヨゼフ女子修道会の若いシスターたち4、5名がサンバクバー教区社会福祉協議会と協同しながら、公民館建設や山羊飼育、住民票などの書類手続きを手伝っている。インドでは政府がローカースト貧民層に住居手当として25,000ルピーを支給する。支給に際し、シスターたちの手伝いは彼らにとってなくてはならない存在となっている。

視察の途中、私たちカリタスジャパンチームは家の外にあるかなり大きな石の上(?)にじっと座り込んでハンセン氏病の痛みに耐えながらしきりに泣き続けている一人の婦人に偶然出合った。さびれたサリーを纏っていたので、病状の程度についてよく分からなかったが、それでも恐る恐る様子を伺うと、少なくとも剥き出しのままの両足全体はすっかりはれあがり、親指や中指あたりはすでに両足とも膿でただれていた。この方のご主人はこの婦人をおきざりにしたまま、もう4,5日帰宅していないという。気の毒に思った。現在では、ハンセン病は早期発見であれば完全に治癒する病気である。もし彼女が日本人なら政府の援助で現代医学の治療を受け治癒するかもしれない。しかし、異国のインドで最下層の生活を強いられている彼女が高度の医療の恩恵にあずかるのは無理なことである。非常に絶望的な状況の彼女に司祭として何も出来ずその前を通りすぎたことに無力感とやるせなさを感じた。

 

4,インド、バデアハル教区の宣教は教会共同体つくり その2

インド西部に位置するオリッサ州にあるバデアハル教区司教館の会計係をしているという背の高い司祭と同行のサンジャイ氏の話によると、オリッサ州は寒暖の差が激しい州で、日中の最高温度は53度になることもあるらしい。暑さのために死者が最も多い州だそうだ。都市部ではダムを建設して自然水をコントロールできているところがあるが、中心部から遠い山間部での水対策はまだまだ十分でない。インドは10年くらい前から著しい経済成長を続け、オリッサ州にも工場が進出した。しかし、その恩恵にあずかる者は身分が高く、勉強した一部の人々でローカーストの多くはその恩恵にあずかっていないのが実情である。それどころか工場進出で、たいした保証もないまま大切な土地を安い価格で買収され、その結果、生活の場を失い、しかもそれに抗議した人が暗殺されるという悲惨な事件さえ発生したという。さらに私たちカリタスジャパンチームが調べた資料によると、西側は山岳地域で山岳少数民族が多く、その大部分がヒンズー教徒であるが、カトリックの宣教地として、またインド国内でも信徒や召命が伸びている地域である。

淡々と静かに語る司教様は、そのような厳しい最悪な環境でオリッサ州にあるサンバルパー教区の宣教ビジョンを最も貧しい人々に仕えることにあると断定された。とりあえず一日に一食だけの人は二食のご飯が食べられ、一日に二食だけの人は三食のご飯が食べられ、生命を維持するために必要な最低限のものを欠いている人々が、衣食が足りて人間らしい生活ができるようになるような奉仕でありたいと言っておられた。もう一つの教区の宣教ビジョンは、貧しい人々が外からの援助を受けず、自分たちの知恵を絞り合って連帯し、いくらかでも生活費を稼ぐことが出来るように奉仕すること、いわゆる人間開発である。このためには生活を自立させるプログラムや教育プログラム特に就職に直接つながる技術の習得を目的にするプログラムが重要となる。バリバハル教区内でも教会の宣教は、伝統的なカースト制度や競合するプロテスタント諸グループがいて厳しい状況におかれているものの、教育プログラムや自立プラグラムを提供することによって立派なクリスチャンコミュニティをつくれば、ことばで宣教しなくても自然と地域の人々によい影響を与え、それが宣教に結びつくであろう。司教様はこのようの意味のことを会計の司祭の助けを通して発言された。わたしは、司教様が最後に言われた“クリスチャンコミュニティ”(キリスト教共同体)という言葉に深く感銘した。というのは、現在わたしが所属する長崎教区では福音宣教する教区となることを優先課題として、インドや韓国の教会に倣って小共同体つくりに取り組み励んでいるからである。

 

サンジャイ氏によると、インドのカトリック教会にはこのようなクリスチャンコミュニティがなんと1,000位あるという。ということは、約1千7百万人の信徒数で153教区をかかえるインドカトリック教会では、どこの教区にも司牧宣教の中心的な本部として存在する社会福祉協議会がある。そこでは何十人もいる専属のスタッフが中心になって、宣教ビジョンを掲げ、教育プログラム、女性自立プログラム、生活改善プログラムなどさまざまなプログラムをつくり、かつリーダーを養成しながら、組織的に社会の底辺に取り残されている人々への社会活動に熱心に取り組み、それなりの実績と成果をあげ政府や社会からも評価を受けている。そして、それを通してクリスチャンコミュニティを形成し神の愛を証している。私たちカリタスジャパンのチームは、今回の視察地でそのことを知り、また、見学できたことが今回の最大の収穫であると思っている。

わたしたちチームは司教館訪問後、バリバハル教区司祭方2,3名が司牧宣教する学校を見学した。その学校は司教館から約40キロ程度のところにあるが、途中から舗装されていない凸凹だらけの山道を20分ほど走った辺鄙なところにあった。広々とした学校の敷地内には学校の他に教会、運動場、寄宿舎、司祭館、それにブラザーの家があった。ここで子供たちは司祭やブラザーと一緒に共同生活をして、キリスト教の宗教理念に基づいた教育を受けている。司教様が言われたように、ここでもクリスチャンコミュニチィが形成されていて、わたしたちカリタスジャパンチームが訪問したときには、家が遠くて寄宿生活をしている子供たちが運動場の掃除や新築中の司祭館のお手伝いなどをして明るい学園生活の様子が伺えた。

インドは日本のようにキリスト教徒は少数であるが、教会が宣教のスローガンとして、実際に目の前にいる弱者に対して、救いの手を差し伸べる援助活動を展開し、かなりの実績を挙げている。本来はインドの政府がしなければならないことであるが、それが困難な状況の中で教会の奉仕は貴重なものに思われた。日本のカトリック教会も司教団が音頭をとって、教会がもっと社会にかかわり、特に社会の底辺におかれている人々を大切にする社会活動を福音宣教の優先課題にして久しい。どうすればもっと社会に開かれ、社会と共に歩む教会となることができるのか、もう一度立ち止まって考えてみる必要があることを実感した視察旅行であった。

バングラデシュ視察旅行

チッタゴンでの教育プログラム

 

わたしは今回のように短い視察旅行であっても、一歩前に進み、チームを組んでカリタスジャパンの支援地を視察できたこと、さらにバングラデシュカリタスが、バングラデシュ教会と組織的に協力体制を取りながら、少数民族の人権擁護のために働き続け、実績をあげていることを学び、その成果として、少数民族がしっかりしたコミュニティを形成し、自立へ向かって前進している様子を自分の目で確かめることが出来たことに今回の視察の意義があったのだと思っています。

 

思いがけない再会

今から約3年前のことです。日本のNGOエスナック教育里親グループ(代表者;藤田文子氏)は、2004年10月、設立25周年を記念するため、当時バングラデシュのシレット地方でエスナックのコーディネイターをしていたオブレート修道会のFr.シュバシュとFr.ビジョイを招き、全国各地でエスナックフェスティバルを開催しましたが、長崎開催においてはわたしがフェスティバルの世話をさせてもらいました。2人に対しての想い出として今でも印象に残っているのは、前任地のカトリック深堀教会で一緒に主日ミサの共同司式をしたことと、フェスティバル開催の翌日、2人を原爆資料館や26聖人殉教地など長崎市内の案内をしてあげたことです。2人とも聖地の長崎を巡礼できたことをとても喜んで帰国されました。ところが、わたしたちは今回、カリタスジャパン視察チームが訪問したチッタゴンのアルガミンで、偶然にも2人にお会いすることになり、このときばかりは、世界は広いといえども狭いものだ、と強く感じました。

 

教育プログラム視察の感想

わたしたちの今回の主な視察地は、チッタゴンの少数民族の3カ所の小さな集落(パラ)でしたが、3カ所の集落とも、2人の小教区の巡回教会になっていました。2人は既にチッタゴンでのカリタスジャパン教育プログラムの事務担当者として活躍しておられますが、今回の視察では、わたしたちのチームに同行し、案内役として奉仕するだけでなく、食事の接待、宿泊の手配もして下さいました。2人が司牧宣教する小教区は2005年にチッタゴン教区に設立されたばかりの新しい小教区で、信徒数3,500人、40を越える巡回教会がある。巡回教会の多くはアップダウンの険しい山道で、5キロも6キロも険しい山道を歩かなければならない巡回教会もたくさんあるという。しかし毎年200人近くも信徒数が増加し、さらに司祭になって社会や人々のために、一生を捧げたいと思う青少年が多い地区となっている。チッタゴン教区のパトリック司教のお話によると、バングラデシュの神学校の神学生の内、約3割から4割がチッタゴンやシレット地区の少数民族出身となっているそうです。わたしたちが訪問した3カ所の少数民族の集落は、緑豊かな山間地で、開発こそ遅れているものの、純真な子供達と乳飲み子を抱っこしている若いお母さんが多い集落となっていました。その様子は戦後、経済成長が始まる前の、どこの教会も子供が多く、司祭召命も豊かであった長崎県五島列島のカトリック集落で育った少年時代の自分の姿と重なり、とても懐かしく思いました。現在ではどの教区でも司祭召命が少なくなっているといわれる中、どうすれば司祭召命を育てる教会になれるのか、自分に問い直してみる必要性を感じました。

 

教育プログラムの課題

2月12日の夜、チッタゴン教育プログラム視察後、振り返りミーティングがチッタゴン教区の司教館でパトリック司教を囲んでありました。その席で伺った話によると、今年ここの少数民族は穀物被害で日々の食料に不足し、保護者は初等教育を受けている子供たちの先生の給料を支払うことができない状況に追い込まれているため、翌日の午前11時から、チッタゴンの司教館で、臨時のトップ会談を開催し、穀物被害の対策を協議する予定になっている、ということでした。同じような災害や差別がいつ発生してもおかしくないのが今の少数民族がおかれている状況ですが、バングラデシュ教会とバングラデシュカリタスとの協力体制によるサポートを受け、自分たちの力でしっかりとしたコミュニティを作って頂きたい。また、司教は「カリタスジャパンとの長期支援が切れる3年後のことが心配で眠ることができない。支援が切れても何らかの方法で支援を継続して欲しい」と言われましたが、私には視察から2ヵ月が経過している今でもこの司教の切実な言葉が脳裏に焼き付いています。支援継続の問題は今後の重要課題ですが、これについては、私1人ではどうすることもできません。しかしカリタスジャパンがチッタゴンでの教育支援プログラムで成果をあげるためには、どうすれば持続可能な支援ができるのか、今の内から支援地の責任者と対話を続けるだけでなく、カリタスジャパン教区担当者とも論議することが望ましいのではないでしょうか。

インドのハンディキャップの子供たちに見習う。

 

わたしは10月17日、深堀教会で日曜日のミサに出席した深堀教会の信徒と一緒にインドとバングラデシュで精神里親運動をしている藤田フミ子さんのお話を聴講できる幸運に恵まれました。30分だけの話でしたが、彼女の体験をふまえてのお話は、聞く人に強い感動を与えました。わたしが藤田さんのお話を聞きて今もなお心に焼き付いている話は、彼女がインドで両足に障害がある子供たちのお世話をしているシスターに頼まれて、障害者の施設を訪問したときの話です。施設のこどもたちは健常者に比較すると体力の面では劣ったものとして写ります。しかし、他人を大切にすることとなると、かれらの目が一斉に輝き出します。たとえばお客様が来ると、心から歓迎します。それぞれの子供たちが部屋を四つん這いになってあちらこちらと動き回ってお客を歓迎する。自分の場合もそうであった。この施設の子供たちはお客が自分たちのために来てくれたことを心から喜んでいるからこそ、からだ全体で歓迎をあらわそうとするのだと。

 

また、この施設にいるハンディキャップの子供たちはお互いに兄弟に対するいたわりと思いやりが一般の子供たちよりもはるかに豊かであることを次のように話された。手足にハンディのある子供たちは9歳までに手術すれば、歩行ができるようなる。それで、この障害者施設では恩人の経済的な援助により、可能な限り手術によって健常者のように歩行ができるように必要な支援活動をしており、今では約40名の子供たちが手術により健常者のように歩けるようになっている。あるとき、藤田さんは施設のシスターに頼まれ、二人分の手術代金を送ったことがある。ところが、次回に訪問してみると、彼女が援助した二人分の手術代金で4人の子供たちが健常者のように歩けるようになった、という報告を聞いた。不思議に思った藤田さんはその理由を聞いてみると、彼女の援助で手術する予定になっていた二人の子供は、痛みに耐えて麻酔なしに手術することで、あと二人分の手術の費用を節約できたという返事であった、という。日本の健常者の子供たちは、友達のために麻酔なしの手術をすることは思いつきもしないことであろう。しかし、インドのハンディキャップの子供たちは痛みに耐えて同じハンディキャップを背負う仲間に対してこのような思いやりを持つことができるということは驚くべきことである。

 

藤田さんが訪問したインドの障害者施設の子供たちは重い障害があってもシスターや職員が愛の奉仕で尽くしてくれるので何も問題はないことでしょう。どんなに苦しいことがあってもそれに耐え、すべてに感謝して希望をもって明るく生きていることでしょう。これに対して豊かな国に住んでいる日本の子供たちは、果たしてインドの子供たちのように多少の困難ことがあってもそれに耐える力を持っているだろうか。社会や親からの過度な期待を背負って、一生懸命に厳しい勉強を毎日送らなければならない日本の子供たちは、はたして、人間として最も大切な人間形成や大人になる訓練をすることが、あるいはまた、他人の痛みや苦しみにやさしくなる豊かなこころを養うということが教育されているでしょうか。わたしはそこに大きな疑問を感じます。長崎や佐世保で発生した少年犯罪を思うとき、子供の教育はこれでいいのだろうかという思いが強くこころに起こってきます。そして、このような人間を駄目にしてしまう今のような知識偏重の教育のあり方に対して、子供を人間らしく高めていくような、より健全なこころを養う情操教育の必要性を強く感じます。

 

近年、日本の社会の障害者政策は福祉に対しての見直しに伴い、すべての分野で大きく転換し、「施設から地域へ」とうたっていますが、まだまだ多くの障害者は自分の住みたい地域に住むことができていないのが現実です。先天的な心身の障害、事故や病気により中途障害になった人などさまざまな障害を抱えている人と共に生きているのがわたしたちの社会です。そのような社会で、障害者の方が自分の障害を受け入れ、自分の居場所を社会に見つけ、障害をマイナスでなく、プラスとしてとらえ社会の中で堂々と自立して生きていけるまでになるにはどうしても社会の大多数を占めている健常者の理解と援助が必要です。

わたしたちカトリック信者はどれだけ障害者を受け入れているでしょうか。せめて教会内では障害者の人権が十分に尊重され、くつろぎ、やすらぐことができる教会になることが目的ですが、この目標からすると、まだまだ教会は十分に教会になりきっていないことが反省させられます。このたびの講話を聞いたことを機会に今後の障害者とのあり方を考え直すようにしたいものです。

 

フィリッピン・バナンバン集落で家庭訪問

 

長崎市稲佐教会出身の烏山逸男氏が創設したハウスオブジョイ(養護施設)の別荘シャロンハウスがあるミンダナオ島、東ダバオ州サンイシドロ町バナンバン集落。眼下に澄み切った珊瑚礁の美しい海や緑豊かなナツメヤシが茂る自然の景観と人々ののどかな暮らしぶりを見るとこの世の楽園のように見える。しかし、現実の人々の暮らしは貧しく、学用品さえ買えないため学校へ通えない子供たちが数多くいる集落である。平成17年5月31(火)午後7時過ぎの夕闇の中、わたしは烏山逸男・アイダ夫妻がこの町に住んでいる貧しい子供たちのため、5年前から始めている奨学金制度「カシンカシン基金」で学校へ通っている家族を訪問した。「普段その家族が食べているものを一緒にいただくには食事の時間帯を見計らい、予約なしで訪問したがよい」という烏山夫妻の提案でこの訪問が実現したのである。訪問先の家族はシャロンハウスから歩いて1分もかからないところにあった。夫ベンは32歳、妻ネネは35歳。床上式のナッパ葺きで、畳10畳くらいの一部屋だけの簡素な住居に実に親子7人が暮らし、5人の子供の内、ゼネビーとジャバニの二人がカシンカシン基金で地元の小学校と高校に通っている。

 

家族は突然の夜の訪問者にびっくりされた。幸いなことにまだ夕食はしていないという。玄関先で応対した奥様に「夕食を家族と一緒にいただきたい」というわたしの希望を伝えると、恥ずかしいといいながら喜んで引き受けてくださった。わたしたちはご主人が家族7人分と私のために夕食の準備をするまで、狭苦しい玄関で幼子を抱く奥さんと待つことになったが、玄関は暗闇である。お互いの顔がまったく見えない夕闇の中でひとときを過ごさなければならなかった。この家の夜はまだランプの生活である。しばらくして、家の中に入ると、家族が食卓で勢揃いして私を待っていた。家族に1個しかない貴重な石油ランプの灯が家族7人の顔と食卓の料理を照らしている。食卓にはトウモロコシの粉をふかしたものが大皿に、きつく塩を効かせた小さなカツオの焼き魚が数匹小皿に添えてある。普段の食事はそれを分け合って食するという。しかし、今日の夕食にはいつのまにか小魚の塩辛がもう1品添えられていた。それはわたしのために急遽、隣で暮らしている夫の両親の家から取り寄せた1品である。

 

この家族は近海で小漁師をしている父親の働きで生計を立てている。ご主人の話によると、今日は早朝3時から午後3時まで漁に出かけ、釣果は1キロであった。市場でそれをお金に換えるなら70ペソ(日本円で約140円)となると言う。海上がしけて漁ができないときや不漁のときが続く場合は食べ物に困ることもあるらしい。烏山氏の話では、食べ物がつきたときには近くにあるバナナを採取し、それをふかし軟らかくしてから食べるか、ココナツをかじったりして飢えに耐えているという。予約なしの訪問で夕食を共にできたのはご家族と烏山ご夫妻のご好意によるものであり深く感謝している。

 
 

フィリピン・ホームステイの想い出

 

去年11月末フィリピン南部のミンダナオ島にある養護施設「喜びの家」を訪問した。このとき、施設の代表者である烏山逸男さんに依頼して里子の家にホームステイすることができた。それは里子とその家族とのふれあいのためにはホームステイが一番いいのではないかと考えたからである。このときの感想の一端を報告することにしたい。

 

わたしが里子の家を訪問したのは去年の11月21日の夕刻であった。家族で歓迎してもらえるのかと想像していたら、遠い国からの思わぬ遠来のお客さんということで興味をもったらしく、隣近所のこどもたち、ご両親の兄弟姉妹、親戚の人々が大勢大挙して私を歓迎してくれたのには大変びっくりした。暗闇で人数を正確に把握出来なかったが、たとえひいき目にみても百人近くはいたのでないかと思う。

 

当日、わたしは朝からずーとわたしたちが支援している子供たちが通っている学校を訪問し、里子の家を訪問する頃にはすっかり疲れていたので早めに就寝したかった。しかし、歓迎のお客さんはいつまでも里子の家の周辺に留まり続け、いっこうに帰宅しようとしない。結局、わたしは予定に反してこれらの人々との交流を余儀なくされ、やっと里子の家に入ることが出来たのは夜の9時を過ぎてからで、それまでの約2時間、この方々とのふれあいに過ごす羽目になった。小さなこどもたちはわたしのデジタルカメラに大変な興味を持ち、撮影したばかりの自分たちの姿が液晶カメラに写っている姿をみることに驚きを感じた。学校で英語を習っている里子たちは私が外国からのお客さんということで、趣味は何か、何日間ここに滞在の予定であるのか、日本の長崎にはどれくらいの信者がいるのかなどなど英語でいろんな質問をしてくる。現地の言語ビサヤ語しか話せない大人は大人で子供たちに通訳させて日本の教会のことなどいろいろを聞いてくる。

 

夜9時、やっと人々から解放されたわたしは、10畳程度の部屋に案内された。普段、この1部屋に7人の親子が肩を寄せ合うように暮らしているのであろう。もちろん、台所、寝室、居間、客間、勉強部屋すべて兼用の共同部屋である。当夜、この部屋でわたしは塩魚と米だけの簡素な遅い夕食の接待を受け、一晩宿泊をさせてもらった。もちろん、現地の言語しかしゃべれない親とはことばも通せず、トイレには不便を感じ、硬い竹のマットでは熟睡出来なかった。たが、狭い部屋に親子が一緒に夕食をとり、一緒に夕の祈りをし、兄弟姉妹5人が仲良く遊んでいる姿を見て、いまではすっかり日本の家族が失いかけている家族の団らんや信仰がここフィリピンではまだ健在であることを教えられた。

 
 

フィリッピン・ミンダナオ島、

バイバイバトバト集落で家庭訪問

 

長崎市稲佐教会出身烏山逸男氏が創設したハウスオブジョイ(養護施設)の別荘シャロンハウスがあるフィリッピン・ミンダナオ島サンイシドロ町バイバイバトバト集落。眼下に澄み切った珊瑚礁の美しい海が見え、ナツメヤシの茂るこの辺一体の自然の景観は抜群でこの世の楽園のように映る。しかし、人々の暮らしはとても貧しく、学用品さえ買えないため学校へ通えない子供たちが数多くいる集落の一つである。

平成17年5月31(火)午後7時過ぎ、わたしは烏山逸男・アイダ夫妻がこの町に住んでいる貧しい子供たちのため、5年前から始めている奨学基金「カシンカシン基金」で学校へ通っている家族を訪問させてもらった。「事前に訪問日時を知らせると、お客用の特別食を準備する。普段その家族が食しているものを一緒にいただくには食事の時間帯を見計らい、予約なしで訪問したがよい」という烏山夫妻の提案でこのたびの訪問が実現したのである。

訪問先の家族はシャロンハウスから歩いて1分もかからないところにあった。夫ベンは32歳、妻ネネは35歳。床上式のナッパ葺きで、畳10畳くらいの一部屋だけの簡素な住居に実に親子7人が暮らし、5人の子供の内、ゼネビーとジャバニの二人がカシンカシン基金で小学校と高校に通っている。家族は突然の夜の訪問者に大変びっくりされた。さいわいなことにまだ夕食はしていないという。玄関先で応対した奥様に「夕食を家族と一緒にいただきたい」というわたしの希望を伝えると、非常に恥ずかしいといいながら喜んで引き受けてくださった。わたしたちはご主人が家族7人分とわたしのために夕食の準備をするまで、狭苦しい玄関で幼子を抱く奥さんとしばらく待つことになったが、玄関は暗闇である。お互いの顔さえも見えない状況でひとときを過ごさなければならなかった。この家の夜はランプの生活である。

 

しばらくして、家の中に入ると、一番奥の食卓で家族7人が勢揃いして私を待っていた。食卓にはトウモロコシの粉をふかしたものが大皿に、小さなカツオの焼き魚が数匹小皿に添えてある。普段の食事はそれを分け合って食するという。しかし、今日の夕食にはいつのまにか小魚の塩辛がもう一品添えられていた。それはわたしのために急遽、隣で暮らしている夫の両親の食卓から取り寄せた一品である。この家族は近海で小漁師をしている父親の働きで生計を立てている。ご主人の話によると、今日は早朝3時から午後3時まで漁に出かけ、釣果は1キロであった。市場でそれをお金に換えるなら70ペソ(日本円で約140円)となると言う。海上がしけて漁ができないときや、出漁しても魚がとれないときにはただちに家族は食べ物に困ることになる。烏山逸男氏の話では、食料がつきたときには近くにあるバナナを採取し、それをふかし軟らかくしてから食べるか、ココナツをかじったりして飢えに耐えている、という。予約なしの訪問で家族と夕食をして交流できた今回の訪問が実現したのは、ご家族と烏山夫妻のご好意によるものであり深く感謝している。

奨学生ゼネビーとジャバニの家庭を訪問記

フィリッピン・ミンダナオ島イシドロ市の海沿いの漁村。この漁村は、ハウスオブジョイ(養護施設)の別荘シャロンハウスがあるバイバイバトバト集落である。ここは一見すると、大変のどかで大自然の恵みと美しさに溢れたリゾートにように映る集落である。しかし、そこで暮らす人々の暮らしはとても厳しく、勉学に必要な学用品がないために学校へ通えない子供たちが数多くいる集落の一つである。

 

5月31(火)午後7時10分、私はハウスオブジョイの奨学金で学校に通学している奨学生の家庭を烏山夫妻の案内で訪問することになった。ハウスオブジョイ訪問が2回目となる今回の訪問でわたしは烏山夫妻が創設している奨学基金で学校へ通っているお家がどのような貧しい家庭であるかを確かめたかった。そのためには子供たちの家族と一緒に食事をすることがいいのではないかと考えた。しかし、前もってわたしの訪問を知らせておくと、その家庭はお客用の特別食を準備するにちがいない。そこで、普段その家庭が食しているものを一緒にいただくには食事の時間帯を見計らって突然訪問したがよいだろうという烏山夫妻のお考えでこのたびの訪問が実現した。訪問先の家庭はシャロンハウスから歩いて1分もかからないところにあった。ご主人ベンは32歳。妻ネネは35歳。隣はご主人の実家で今両親が住んでいる。彼の家もこの集落で一般的である床上式の家であり、玄関に畳10畳くらいの一部屋だけの小さな家に実に親子7人が暮らしている。

 

この貧しい家の訪問は家族に知らせていなかった。だからわたしたちの突然の訪問に、奥様ネネは大変びっくりされたのは無理もないことである。すでに夜の7時を過ぎていたがまだ夕食はしていないという。「夕食を家族と一緒にいただきたい」というわたしの希望を伝えると、非常に恥ずかしいといいながら喜んで引き受けてくださった。ご主人が家族7人分とお客であるわたしのために夕食の準備をするまでわたしたち3人の訪問客は狭苦しい玄関で幼子を抱くお母さんとしばらく話をして待つことにした。しかし、何しろ玄関は暗闇で相手の顔がさっぱりわからない。この集落ではランプで生活をしている家庭がほとんどでわたしたちが訪問した奨学生の家も夜はランプの生活である。わたしは持参してきたデジタルカメラで撮影するなら相手の顔が分かるのではとふと思い、幼子を抱いている目の前の奥様の撮影を試みるが暗すぎてうまくいかない。家庭に1個しかないランプは今ご主人が食事の準備に使っているのである。

ご主人の夕食の合図でわたしはこの7人の家族と一緒に夕食をいただくことになった。一番奥に準備されていた食卓には家族7人が勢揃いし私を待っていた。食卓には主食であるトウモロコシの粉をふかしたものが大きなお皿に盛られている。その側にきつく塩を効かせた乾しカツオが数匹別の小皿に添えてある。普段の食事では家族はそれを分け合って食するということであった。しかし、今日の夕食はわたしのために隣の実家からもう一品塩の効いた小魚の塩辛が食卓に並んでいた。家族はそれをご飯にかけて手際よく食していたが、わたしは乾しカツオをおかずにしてトウモロコシのご飯をいただくが、まずくてごく少量しかいただけなかった。

この家族は近海で小漁師をしている父親の働きで生計を立てている。今日は早朝3時から漁に出かけ、釣果は1キロであった。市場でそれをお金に換えると、70ペソ(日本円で約140円)になるという。文字通りその日暮らしである。海上がしけて漁ができないときや、漁に出かけても魚がとれないときにはただちに家族は食べ物に困ることになる。そのようなときには近くにあるバナナを採取し、それをふかし軟らかくしてから食べるか、ココナツをかじったりして我慢することになる。だれでも人に見られたくない、知られたくない秘密がある。突然訪問し家族と一緒に食卓を共にすることはたとえそれが善意の訪問であっても、失礼な訪問になりかねない。奨学生の家庭を訪問し家族と一緒に夕食を共にできた今回の訪問が実現したのは烏山夫妻の好意によるものであり、夫妻には深く感謝の気持をあらわしたい。



  
   
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