歴代主任司祭

 

1983年(昭和58年)7月15日 島のひかり(浦頭カトリック教会報)より

今村神父様金祝おめでとう

 昭和17年から20年まで、堂崎小教区第7代歴代主任司祭としてご活躍くださった今村神父様は6月29日聖ペトロ・パウロの祭日に司祭叙階50周年を迎えられた。小教区では祝電を打ち、感謝の意を表した。なお今村神父様は現在佐世保の黒島に隠居中でお告げのマリア会のシスタ−に見守られながら平穏な日々を送っている。

 

1983年(昭和58年)10月1日  カトリック教報

金祝 銀祝 叙勲 田平教会で三重の喜び

 田平教会出身第一号の今村悦夫師の金祝、横浜教区の木村義男師の銀祝、マリア会修道士で泰星、明星、暁星の高潮を歴任された堤清三先生の勲四等の叙勲を記念して去る8月24日、田平教会で三重の喜びを祝う会があった。同教会出身の司祭17人を始め修道士、修道女、信徒ら約200人が集まり、今村師司式のもと全司祭の共同ミサが行われた。ミサ後、信徒代表の祝辞、記念品、花束の贈呈、続いて今村師の謝辞があった。今村師は「今日まで50年、神様のお恵みにより、働かせていただいたことを感謝し、私の後に19人の司祭、修道司祭が続いてくれたことを大変嬉しく思っている。今後も引き続き後継者養成に努めてほしい」と強く信徒に要望された。正午より会場を信徒会館に移し、田平出身司祭を代表して第二号の浜崎伝師(大阪教区)主任司祭・竹山師の祝辞、木村師、堤先生の謝辞があった。

 

今村悦夫神父様 (中町教会献堂90周年記念誌より)

 昭和16年6月より17年12月までの1年6ヶ月余中町教会主任として司牧に当たられた今村神父様は、80歳を迎えられた今日、黒島・お告げのマリア修道院に隣接した建物に住んでおられ、当時の思い出を語って下さった。着任して1ヶ月、稲佐の病人を訪問しての帰りに大東亜戦争が始まったことを知りました。日支事変以来引き続く戦争で若い神父様方は応召して、当時の中町教会の区域は、稲佐、本河内、八幡町、善長谷それに対馬の巡回とあって、一人ではなかなか多忙でした。在任中、対馬には2回行きました。また、物資の不足が徐々に浸透し始めて、教会の鐘を供出するように言って来ましたので、その人たちと一緒に鐘楼に登ってみましたが、鐘は時計で鳴るという精巧なもので、「供出するとなればコンクリ−トの床も壊さなければなりません」と申したところ、「これは珍しい時計仕掛けになっているから、当分見送ることにする」と言うので助かりました。後に仏教方面から苦情があったと聞きました。

 中町は、山口大司教様時代に火災にあって、記録が焼けてしまって、以前からの事を知ることが出来ませんでしたが、教会の役員の方は、市の中心部から二人、立山一人、稲佐一人、銭座に一人いたように思います。信者の多くは他からの移住者でしたが、役員の方の努力もあって、まとまりがよく、司牧しやすい教会でした。戦時中のことであり、主だった人々や若い人たちが応召して、軍隊に行っていたと言う事もあって、信者の使徒職会は活動していませんでした。在任中に一度大きな台風が来て、司祭館や幼稚園の屋根が吹き飛ばされ、人手も無い時でしたから、自分で屋根に上がって修繕したこともありました。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 

 後任の主任司祭今村悦夫も、戦後、彼と代わった古川重吉も診療所の活動を支持した(お告げのマリア 小坂井澄著) 
 
 

浜脇教会記念誌より

 清水師の後に赴任された今村悦夫師は、田・牛の購入のほか、毎日の農耕にも率先して出かけ、若い姉妹たちをよく指導してくださった。「櫓」を漕いで牛の草きりに行ったり、ご自分で肥料を買って下さり、姉妹たちは感謝のうちに受け取りに行くこともあった。また、お祝いの日が来ると各自に小遣いを下さったり、会員達は喜んだものである。後任の主任司祭今村悦夫も、戦後、彼と代わった古川重吉も診療所の活動を支持した(お告げのマリア 小坂井澄著)

5年前に司牧生活を引退し、お告げのマリア修道会黒島修道院で静かなお祈りの生活を送っておられた今村悦夫神父様が、2月28日、聖フランシスコ病院で肺ガンのため帰天された。82歳であった。

 

 故今村悦夫神父様は、北松浦郡田平町に生まれ、昭和8年6月に大浦天主堂で司祭に叙階された。以来昭和58年3月に引退するまでの約50年間、上五島、長崎、下五島、平戸、佐世保の各地の教会を歴任し、教会発展のために献身された。記憶力抜群で「歩く百科事典」というニックネームを付けられるほど物知りで知られ、特に歴史や芸能関係に詳しいのには定評があった。明るく飾り気のまったくない性格は、皆から特に愛され慕われていた通夜の儀では黒島教会主任司祭、中田千代吉神父の追悼のことばの他、神学校入学が同期であった里脇枢機卿も、同師のユーモラスな逸話を語って参列者を笑いに誘う一幕もあった。

 

1988年(昭和63年)4月1日  

イグナチオ 今村悦夫神父 帰天 

5年前に司牧生活を引退し、お告げのマリア修道会黒島修道院で静かなお祈りの生活を送っておられた今村悦夫神父様が、2月28日、聖フランシスコ病院で肺ガンのため帰天された。82歳であった。故今村神父様は、北松浦郡田平町に生まれ、昭和8年6月に大浦天主堂で司祭に叙階された。以来昭和50年3月に引退するまでの約50年間、上五島、長崎、下五島、平戸、佐世保の各地の教会を歴任し、教会発展のために献身された。

 記憶力抜群で「歩く百科事典」というニックネームを付けられるほど物知りで知られ、特に歴史や芸能関係に詳しいのには定評があった。明るく飾り気のまったくない性格は、皆から特に愛され慕われていた。

 通夜の儀では黒島教会主任司祭、中田千代吉神父の追悼のことばの他、神学校入学が同期であった里脇枢機卿も、同師のユーモラスな逸話を語って参列者を笑いに誘う一幕もあった。

 
 
 

1988年(昭和63年)  2月29日、浦上教会にて大司教区葬。

今村悦夫主任神父様 道向栄神父

 二度にわたって神父様の助任司祭として、お仕えした者としてその想い出は尽きる事がありません性格から言えば、誰の目にもぴったりとは言えない同居人でした。師は、髪はもじゃもじゃ、よれよれのス−タンを着込み、一日中でも居間に座って、トランプいじり、人が来れば、まさに自分の親父のように壁を感じさせない。何のてらいも無く、決して怒らず、聖なる愚かさを湛えた姿に皆魅せられずにはいなかったのです。

 

 昭和29年聖水曜日の朝の事でした。早朝ミサの聖変化後、猛烈な痛みが下腹一杯を襲いました。脂汗を流しながら、150名の小学生と約50名の大人の聖体拝領はさせず、ミサが終わると祭壇の近くから祭服を脱ぎ捨て、司祭館の自室六畳の居間でのたうち回っていました。賄いのシスタ−は医者を頼み、約半時間後、医者が見えました。「急性盲腸炎だ、すぐ入院しなさい。入院費は4,000円だ」と言って病院に帰って行きました。恥ずかしい事に入院費の持ち合わせが無く、主任神父様に4,000円を貸してくださいと頼みました。事情を知った主任司祭は、腰まで裸になれとしきりに勧めるので、言われた通りにしますと、もぐさと線香を持って来て、背中の一点に灸を据えてくださいました。そして、ものの30分もせぬうちに私はス−タンを着て、すでにいっぱいおしかけている子供たちの待つ、告解場へと急いでいました。メスを消毒し、手術の準備をして待っていた医師は腹に据えかねたらしく、後日私が巡回教会に行っている時、酒を飲んで主任司祭に怒鳴り込んで来たという事を教えられ、始めて自分の非を悟り遅ればせながらお詫びをした次第でした。

 温和そのものだった師が、一度だけ怒りをあらわにされたことがありました。私が紐差教会から別の教会に転任する事になった時のことです 今村悦夫主任司祭に付き添われて、新任地に着いてみると名指しで私を呼び寄せたそこの主任司祭は留守、その冷え冷えした歓迎風景に師はかんかんに怒り、「一緒に帰ろう!」とはき捨てるように言って、何度も私の手を引っ張るのです。司祭となったからには荒野に向かうのは覚悟の上です。その荒野に辛うじて踏み止まり得たのは、この時の師の義憤に手に触れることが出来たからです

 
 

今村悦夫司祭 弔辞

 私はここに黒島教会の信徒一同に代わり、今は亡き今村悦夫神父様の霊前にぬかずき、謹んで告別の言葉を申し上げます。神父様のご逝去は、久しい歳月の間、慈父のようなご温容に育まれた信徒にとりましては、その悲しみは肉親のそれに勝るとも劣るものではございません。あなたは、私たち信徒の敬慕の的でありました。明治38年11月3日、今村庄吉の三男として田平にお生まれになり、昭和8年27歳で叙階なされ、爾来、50年余に及ぶ司牧宣教活動の中、82歳の天寿を全うされたのであります。

 昭和39年2月、黒島教会第11代主任としてご着任。昭和58年6月、司祭叙階金祝の祝いを以て、お告げのマリア修道会黒島修道院にご引退なさりましての20年余の間、私たち信徒を司牧してくださいました。この間に、黒島保育園園長、司祭館の改修、昭和58年には教会の大改修工事等に業績を残されました、ご引退なさってからも黒島教会と信徒のために日夜、お祈りを捧げられ、お守りくださいました。時折訪ねますと、例の柔和な笑顔で迎えてくださり、トツトツとした口調で、好きなタバコを吹かせながら話しが始まり、なかなか終わりません。

 一昨年、黙想会をご指導くださったアカソ神父様は、ご出身であるスペインの自然や歴史についての話を、今村悦夫神父様から聞かされ、その正確さに、さも留学でもなさっていたのではと思われる程の博識ぶりに感心なさったと聞き及んでいます。

 今村悦夫神父様は、殊の外、節約家でした。一見ケチなように見えてもそれにはそれなりの理由がありました。例えば、タバコの吸殻を灰皿に入れず、ポケットにしまわれ、不審がると、「水に溶かせば植木鉢の消毒にはこれが一番」と、その研究熱心な一面をみせられました。とにかくものを大切になさるお方でした。このようなことは、お父さんの影響が大きかったのではないでしょうか。

 出津出身の今村庄吉は、ド・ロ神父様の振興と生活を貴重としたお考えに深く浸水されており、彼の優れた才能を高く評価されていた神父様は、彼に田平への移住を勧め、それに従った今村氏は、新天地で福音宣教を行い、信徒のリ−ダ−シップを執られました。しかし、生活は決して楽ではなく、貧困に堪える精神が、こうした生活の中で、培われたのではないでしょうか。ここで、今村神父様にまつわるエピソ−ドをご紹介いたします。ご着任の時、地下足袋で黒島の地を踏まれ、一躍有名になり、信徒に親しみを持たせたようです。魚釣りが好きだった神父様は、イカの黒みを顔に付けたままでミサをたてられたこおもありました。

 黒島教会史を執筆されるために、資料を集められている事を知り金祝の祝いの折にお手伝いをさせて欲しいとお願いしました。その後、田中主任神父様もそのことをお尋ねになると、「そんなら頭でもかかんばたい」と独特のユ−モアを飛ばされたそうです。また、以前入院された時のこと、食事を下げに来た看護婦が「全部食べましたか」と尋ねると、「おいしかった。でも一つだけは残しているよ」と言われ、「何をですか」との問いに、「バナナの皮たい」と言われ。看護婦は笑いころげたそうである。いろいろと、ありし日の思い出が次々とよみがえって参ります。神父様、とお呼びして、人なつこい笑顔。ハイハイという優しいお言葉はもう、返ってはきません。しかし、神父様の残された、数々の尊いご教訓、ユ−モア溢れるエピソ−ドは、私たち信徒の心に愛の灯となって、永遠に燃え続ける事でしょう。

 私たちは、神父様の遺影の前で、ありし日を偲び、より一層の精励を尽くすことをご霊前に固くお誓い申し上げます。どうか私たち消えそうになる信仰の灯が、より赤く、より激しく燃えるよう天国でお守りください。名残は尽きません。神父様に主の安らかな憩いが与えられますよう、お祈りいたします。今村神父様、さようなら。
 
 

今村悦夫神父様 (中町教会献堂90周年記念誌より)

 昭和16年6月より17年12月までの1年6ヶ月余中町教会主任として司牧に当たられた今村神父様は、80歳を迎えられた今日、黒島・お告げのマリア修道院に隣接した建物に住んでおられ、当時の思い出を語って下さった。着任して1ヶ月、稲佐の病人を訪問しての帰りに大東亜戦争が始まったことを知りました。日支事変以来引き続く戦争で若い神父様方は応召して、当時の中町教会の区域は、稲佐、本河内、八幡町、善長谷それに対馬の巡回とあって、一人ではなかなか多忙でした。在任中、対馬には2回行きました。また、物資の不足が徐々に浸透し始めて、教会の鐘を供出するように言って来ましたので、その人たちと一緒に鐘楼に登ってみましたが、鐘は時計で鳴るという精巧なもので、「供出するとなればコンクリ−トの床も壊さなければなりません」と申したところ、「これは珍しい時計仕掛けになっているから、当分見送ることにする」と言うので助かりました。後に仏教方面から苦情があったと聞きました。中町は、山口大司教様時代に火災にあって、記録が焼けてしまって、以前からの事を知ることが出来ませんでしたが、教会の役員の方は、市の中心部から二人、立山一人、稲佐一人、銭座に一人いたように思います。信者の多くは他からの移住者でしたが、役員の方の努力もあって、まとまりがよく、司牧しやすい教会でした。戦時中のことであり、主だった人々や若い人たちが応召して、軍隊に行っていたと言う事もあって、信者の使徒職会は活動していませんでした。在任中に一度大きな台風が来て、司祭館や幼稚園の屋根が吹き飛ばされ、人手も無い時でしたから、自分で屋根に上がって修繕したこともありました。

 
 
 
   


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