キリストの魅力に……… 平野 勇
現代人の“私”にとってキリストはどれほど魅力があるのかと自問するとき、とまどいを覚えざるを得ない自己を発見する。キリストとの直接的触れ合いを求めようとすればするほど、キリストはより遠い存在者として自分から離れていくような気がしてならない。意識的にも心情的にも、キリストとの結びつきを求めたいと願ってはいるが、どうしても雲をつかむよう様な“もの”としてしか受けとめることが出来ない。
聖霊の美しい言葉を耳にし、心地よい聖歌の調べを気持ちよく味わっている時には、言葉としての美しさや詩の素晴らしさに心が満たされて、せつな的喜悦が感じられるはするが、それらのものが私の人生をどれほど生かしてくれているのかと考えてみると、それらのものも、やはり私にはさしたる力にもなっていないし、自分を強く引き付ける魅力にもなってはいないことに気がつく。
キリストは本当に、神の子として偉大な力を持ち、“私”を引きつけて離さないほどの存在者なのだろうか。もしそうだとすれば、そのカリスマ的力を、可能な方法で現代世界において示すようなこともあってしかるべきではないかと思う。やたらと沈黙を守っているかのような態度はどうしても理解に苦しみ「キリストよ、もっと現代社会に直接あなたの声を聞かせ、強引にあなたの力を示してください。まことに勝手な要求であるとは百も承知の上で、あえてそう申し上げるのです」と言う言葉が心からこみあげてくる。
聖書の言葉は聞きあきた。現代人の言葉の方がもっと美しいもの楽しいものを私の耳に運んでくれる。空しさは残るけれど、耳にしたその時には少なくとも感動を覚える。聖書の表現と現代人の表現法とを同一視してはいけないとおしかりを受けたとしても。聖書の言葉が現実に私にとどくのは単に耳と頭にだけであって、それらは、心にしみ、生きるエネルギーになれるほどの生命のあるものとはなっていない。だからこそ、「直接あなたのお言葉をお聞かせください」とおねだりせざるを得なくなる。
キリストの言葉には二つの真実、二つの人生はないはずだ。にもかかわわらず、多元、多様の道に走らせるのは、いったいどうしたわけなのだろう。昨日はキリストの言葉を生きた言葉のように語り告げた“者”が、今日は全く異なる世界観と人生観とのもとに生きてしまう。その道程がそうであるかは問うすべもないが、“ほんもの”であれば、決してそうやすやすと変わり得るないものではないはずだ。
キリストが私にとって魅力ある生きる言葉の源泉であれば、すべてをそのお方に賭けた生き方をするに違いない。否、そうせざる得ないほどのもが私の中に生き生きとして湧き出るはずだと信じる。
私は、たくさんのことを含めてそう考え、神に問いたいと思う。「私の生きる姿こそがキリストの言葉の具現だとおっしゃるのであれば、弱い私をしてそうあらしめるために、どうかその魅力のキリストを私に与えてください」との願いは、私の勝手な一人よがりなのでしょうかと………。たとえそうであっても、神が“ある者”を介在としてお使いになるのであれば、その方の生きる姿の中にキリストの生きた言葉の実践者としての生きる様が表れるはずである。
キリストのお言葉をもてあそぶ我流キリスト者ではなく、真実キリストを指し示し、その者の中にキリストのお姿の片鱗を見ることが出来る者こそ、真にキリスト者と呼ばれるにふさわしい者だと思う。そのような道具者としてキリストと共に生まれる恵みを今日も求め、そうあり得ることを、父である神に祈り、願い続けたい。 (上神崎教会・主任司祭)
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