竹谷音吉 主任司祭

 浦上教会信徒 野原清氏 竹谷音吉師の思い出

私の尊敬する父、竹谷音吉神父

浦上教会、野原 博

桃泥棒

浜脇教会の下の浜で一人泳いだ後、暑い陽射しの中、疲れと腹ペコに喘ぎながら教会まで辿り着いた。ふと何気なく崖の上の畑を見ると、畦に出来の悪いいびつな黄色やピンクの桃が目に映った。神父さまの桃に違いない。でも、空腹と渇きに負けてエーイと2個くらい取って食べたかな? 明くる日の主日のミサに行くと思い出して急に気になり出し、決心してゆるしの秘跡を受けた。きっと怒られるだろうなと覚悟したが、竹谷神父さまはとても優しくて涙が出そうだった。

 

尺取虫

 楽しい聖母月のロザリオがあり、帰りは友達と蛍を掴まえたりしていた。左の聖母祭壇の前に神父さまが膝まづき、後ろに2つ上の従兄弟の中山真二と私がいて数十人で唱えていた。目の前の聖体拝領台の手摺の上を灰色の小さな尺取虫がヒョットコショ、ヨッコラショと大袈裟に歩いている。おかしくて堪らない。こらえれば堪えるほどおかしくて堪らない。案の定、神父さまに叱られた。でもどんなしても押さえ切れず、笑わないでいられない。神父さまが2度目に振り返った時、私が一番笑っていたので立たされた。終わってみんなは帰り暗くなってしまった。中村スミあねさんが門の扉を閉めにやって来た。「ひろし、あんたまだ居ったのか。神父さま忘れっとぞ。神父さまんとこ行って、謝って早く帰らんね」。神父さまが言った「あらア!忘れとった。ごめんごめん。暗かせん怪我せんごと帰らんね」。幽霊の出るような真っ暗な山道を3つ越え独り必死で帰った。

祈る人

 神父さまは本をよく読み聖務日祷やロザリオをいつも唱えていた。私は神父さまの説教が大好きで、遊びながらよく真似して「…….それはとりもなおさず…..であります」とやっていた。4年生になると侍者のラテン語の祈りと練習が始まった。神学校に行きたいと思っていたからとても嬉しかった。合掌して背筋を真っ直ぐにすること。顔が痒くても我慢して動かないこと。私の父はビルマで戦死したから、その教えや厳しい躾に父親を感じ夢中になっていった。神父さまの姿見たさに良く賄い部屋に出入りし、あねさんたちに貰っては飲み食いし、喉が渇くと井戸の水を飲みに行った。

 

神父さまと長崎へ

 中学から長崎公教神学校に入学することになり、親友の田中力君と共に神父さまに連れられ長崎に行った。「3階にフランス人の神父が居るけど、名前が覚え易いよ。ネーラン、寝ていてもネーラン神父。ハッハッハ」。 夏休みに久賀島に帰って神父さまの新しい自転車を借りて乗った。返す前に外上集落の腕白共がそれに乗りたいと言い出した。一二分も経たない内にソロっと返しに来た。無残にも前輪の首が折れていた。どう言い訳しようか悩む間もなくそれを見つけた神父さまが「ひろーし、自転車が壊れているじゃないが、なぜ私にそれを言わないのか。黙ってたら駄目じゃないか。」と言われてしまった。私はただ、「すみません」とだけしか言えなかった。

久賀島への愛

またある時、休暇で帰ると司祭館の前に池が掘られていた。「見てみろ」。中にミニ久賀島が造られていた。「ここはいろんな鳥がたくさんいるので、狩猟免許を取ったぞ」と空気銃を取り出し説明してくれた。また、伝馬船を神父さまから借りてよく釣りに行った。神父さまの舟は漕ぎやすく扱い易かった。エスという名の犬がわが家にいたが、これを乗せて釣りをしたらエスガ船酔してしまった。犬も酔うことを知った。ちなみに神父さまの犬は霊名洗者ヨハネから取ってジョンと呼ばれていた。「ひろーし、浜辺務さんを外上に探しに行ってくれんかね。散髪をせんばやっとん」。私は生涯竹谷神父さまに逆らったことはなく、神父さまが喜ぶことは何でもしたかった。一つだけ私が神父になれなくて済まないと思っているが、神父さまは私を自慢してくれているらしい。

 

ミサ中に起きた珍事件

 「ひろしー、今夜司祭館に夕飯食いに来いよ」。食事のあとフィルムの現像と写真の焼付けを詳しく教えてくれた。薬品を調合することから始め、フィルムを乾かして、一円玉くらいの黒い紙を10センチ長さの針金の先に付けた物で小刻みな円を描き、ネガを通って印画紙に当たるライトの光量を調整して明暗の修正をするのである。まさか将来これが大いに役立つとはつゆ知らず。 話は変わるが、夜明しと言えばちょうど諫早大水害の夜のこと、神父さま、小島栄神学生、川端俊明、田中力、野原博の5人でパイラゲームに熱中し徹夜した。一睡もせずにミサに与ることになり、4人全員で侍者をした。そのうち一人が横に倒れた。ハッとして姿勢を正すと、膝まづいていたもう一人が後方に派手にひっくり返った。これでびっくりしたのかしばらくは何もなかったが、とうとう三度目が起こったが、これはよろけることで辛うじて転倒は免れた。信者会衆は一体どう思ったことだろう。

幸せの道

 2歳から10年間を久賀島で過ごせたことは何とも言いようがない恵みである。これ程の恵みを受けて大神学校に行き、慶應や駒澤の学校にも行かせて頂き、最後は生業として病院の放射線技師として働いた。その間幸運にも一応信仰の喜びに浸っている。これから音楽と祈りで最期まで人々に何がしかの力添えが出来ればと願っています。時々周りの人を傷つけたり、愛に背くことをする自分がいて、神さまをはじめ私を育んでくれた皆さまには済まないと思っている。しかし、こうして私が今あるのは、皆さまのお陰と心より感謝申し上げたい。島の人は信者も他宗の人も皆迫害の犠牲者だったから、仲良くしたい。



  
   
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