今村留市師

第7代 パウロ 今村留市 師 

1913年(大正 2年) 4月28日 長崎市(浦上)生まれ

1940年(昭和15年) 3月22日 ロ−マにて叙階

1940年(昭和15年) 8月    黒島教会助任

1942年(昭和17年) 4月    浜脇教会主任

1944年(昭和19年) 2月    桐教会兼任 

1945年(昭和20年)5月まで

1945年(昭和20年) 3月    堂崎教会主任司祭 巡回福江教会

1947年(昭和22年)12月    出津教会主任

1953年(昭和28年) 7月    浅子教会主任

1963年(昭和38年) 2月    田平教会主任

1967年(昭和42年) 8月    褥崎教会主任

1978年(昭和53年) 3月    曽根教会主任

1979年(昭和54年) 2月    三つ山教会主任

1992年(平成 2年) 4月    引退後、養護老人ホ−ム恵が丘在住

2002年(平成14年) 1月21日 午前0時15分、脳梗塞のため聖フランシスコ病院で帰天88歳。

 
 

カトリック教報 1935年(昭和10年)6月1日

ロ−マ便り  今村留市

 ローマ在留の長崎教区神学生及び他の日本人神学生は皆元気で、他事ながら御休心下さいませ。私共は初めてロ−マの復活祭を迎えることが出来ましたが、実に印象深いものでございました。四旬節中は毎日大斎、その上スタチオ(毎日参詣聖堂を定めて聖典を行うこと)なる物が毎日執行され、ローマ市民、殉教者の聖血を以って贖われた敬虔な信者の深いふかい信仰を直感する事が出来て、欣快に堪えません。ことに私共の心を感動せしめたのは、彼ら市民の聖人に対する信心、尊敬憧憬です。彼らはその聖人の遺骨を保存してある器にも触れ、之に接吻し、ロザリオ、メダイ等を接触させるのを無上の喜び、光栄としているのです、老若男女を問わず、身の困難をも厭わず、押し寄せてくるその信仰の熱烈さには全く驚かされます。

さすがはロ−マ市民だ、カトリックの本山だとあっけに取られます。彼らの此の四旬節の厳格な大斎苦行が信仰の火をいやが上にも燃やしているのですから、彼らの為に御復活は実に尊いものであるに違いないのです。教会で執り行われる四旬節中の儀式もまた実に荘厳なものがあり、カトリックの神秘的な点を如実に表現し、私共の心を天上へ挙げさせるだけの魅力を持っているのです。聖週間中に執行される典礼,歌等もローマ市民はそれを聞かんが為、見んが為に悉く教会へと押し掛け時間が立つのも知らないで夢中になり見聞しているのです。聖水曜日午後から「暗之聖務(オフィチウムテネブラルス)」がいと厳かに、盛大に各教会で歌われます、その際中に何の意味だか知りませんが,詩篇を誦える毎に15本のロウソクに火をつけるのですが、それを一つひとつ消していきます。そして「暗之聖務(オフィチウムテネブラルス)」が終わると聖堂内を真っ暗くし、皆一緒に音を立てます。それはキリスト様の御死去の折の地震等を思い起こす為との事でした。

私は一度聖木曜日に聖ペトロ大聖堂に行って見ましたが、丁度その時、幸いにも夜課(マッチヌム)が盛大に歌われ、司教カノニコ(司教参事会員)等が百人程集まり行われていましたがその周囲を取り巻く無数の拝観者は熱心に聞き入っておりました、丁度終り頃でしたので「キリストは死に至まで従えるものとなり給えり」の四部合唱が歌われ一同皆膝を折って聞いていましたが、その声、そのメロデイ−の美しい事と言ったら話しにならず、心は全く奪われてしまいさながら天国における天使聖人の賛美の声でも聞いている様なそして自分も天国へ飛んでいるかの様な気持ちが致しました。可愛らしい十二・三才の子供が美声を放ち、しかも大人同様に四部合唱しているのですから、私共にとり驚かさざるを得ないのです、かかる美しさは到底日本辺りでは聞く事の出来ないと思っています。「MisereremeiDeus」なども見事なものでした。
 
 

1940年(昭和15年) 3月22日 ロ−マにて叙階

助祭叙階 ローマで今村師が

 ロ−マのプロパガンダ大学留学中のパウロ今村今村留市師(浦上)は、10月15日めでたく助祭に叙品されたが、来る12月8日助祭に叙品の予定である。戦乱の欧州で叙品される同師にために遥かに祈りを望まれている。

 

教区の新鋭帰朝

  今村・浜口両師

 去る3月23日ローマ市ウルバノ大学で叙品された今村留市師は、前田朴(大阪教区)、糸永一(福岡教区)、深沢豊治(仙台教区)稲用経雄(フランチスコ会)の4師とともに郵船伏見丸で帰朝の途にあり7月3日神戸着の予定であるが、それより一船送れて浜口庄八師が帰朝中である。教区ではこの新鋭2師を迎える待望の喜びで満たされている。

今村留一氏、ローマ便り     昭和10年
6月1日 

カトリック教報 第
159

ローマ在留の長崎教区神学生及び他の日本人神学生は皆元気で学徳の研鑚に従事しておりますから他事ながらご休心くださいませ。私どもははじめてローマの復活祭を迎えることできましたが、実に印象深いものでございました。四旬節中は毎日大斎、その上スタチオ
(毎日参詣聖堂を定めて聖典を行うこと)なるものが毎日執行され、ローマ市民、殉教者の聖血をもって贖われた敬虔な信者の深い親交を直感することができて欣快に堪えません。ことに私どもの心を感動せしめたものは、彼ら市民の聖人に対する信心、尊敬憧れです。彼らはその聖人の遺骨を保存してある器にも触れ、これに接吻し、ロザリオ、メダイなどを接触させるのを無上に喜び、光栄としているのです。老若男女を問わず身の困難をもいとわず、押し寄せてくるその信仰の熱烈さには全く驚かされます。さすがはローマ市民だ、カトリックの本山だとあっけにとられます。彼らのこの四旬節の厳格な大斎苦行が信仰の火をいやがうえにも燃やしているのですから、彼らのために御復活は実に尊いものであるに違いないのです。

教会で執り行われる四旬節中の儀式もまた実に荘厳な者があり、カトリックの神秘的な点を如実に表現し、私どもの心を天上へ上げさせるだけの魅力を持っているのです。聖週間中に執行される典礼、歌等もローマ市民はそれを聞かんがため、見んがためにことごとく教会へと押しかけ時間がたつのも知らないで夢中になり見聞しているのです。

聖水曜日の午後から「オフイチュウムテネブラルム
(暗之聖務)」がいと厳かに盛大に各教会で歌われます。その最中に何の意味だか知りませんが、詩篇をとなえるごとに15本のローソクに火をつけるのですが、それを一つ一つ消して行きます。(12使徒の散離を象るという。実は昔夜中に始め朝になって、だんだん火を消した遺跡だとか)そしてオフイチュムが終わると聖堂内を真っ黒くし、皆一緒に音を立てます。それはキリスト様の御死去の折の地震などを思い起こすためとのことでした。私は一度聖木曜日に聖ペトロ大聖堂に行ってみましたが丁度そのとき、幸にもマッチヌム(夜課)が盛大に歌われ、司教カノニコ(司教参事会員)等が百人ほども集まり行われていましたがその周囲を取り巻く無数の拝観者は熱心に聞き入っておりました。

丁度終り頃でしたので
(Christus factus est obe diens, usqus ad mortemキリストは死にいたるまで従える者となりたまえり)の4部合唱が歌われ一同皆膝を折って聞いていましたが、その声、そのメロディの美しいことといったら話しにならず、心は全く奪われてしまいさながら天国における天使聖人の賛美の声でもきいているようなそして自分も天国へ飛んでいるかのような気持ちが致しました。かわいらしい12・3歳の子供が美声を放ち、しかも大人同様に4部も合奏しているのですから、私どもにとり驚かざるを得ないのです。かかる美しさは到底日本当たりでは聞くことができないと思っております。「Misereremei Deus」なども見事なものでした。

 プロパガンダでも聖週間の典礼はいと丁重に厳粛に行われました。先ず枝の主日から聖水曜の朝まで、いかめしい黙想会が有り、その碑の午後から聖務あり、午後3時間、朝4時間という長い式典でした。特別に私どもの興味、否深い印象を引いたのは聖木曜日にキリスト様が12使徒の足を洗いたもうた記念とし、校長が12人の足を洗い、そしてこれにキスする儀式でした。カトリックの愛、従順謙遜を教えるのだという観念が即座に湧き出でてまいりました。

聖木曜日の朝から聖金曜日の朝まで、ローマ市内の各教会を
7つ訪問して御聖体の前に祈りをとなえと全贖宥が得られるとのことでしたので、私どもも訪問しましたが、各教会とも多くの信者が集まり、熱誠こめて御聖体の前で祈っているのには驚きました。御復活の大祝日には聖ペトロ大聖堂にて、教皇様の歌ミサが行われました。言わずとも明らかなことですが、堂内は立錐の余地なきまでに満員で、ミサ後、教皇様は大堂の2階のテラッサより広場に参集せる5・6万の信徒と全世界の人々、いわゆる「Urbiet Orbi」に祝福を御与えになりました。

私どもはプロパガンダノテラッサよりその光景を眺めて感慨無量でした。その広場の中にはドイツ人も数百名巡礼団として来たり、その祝福の恩恵に浴したとのことです。 私どもはいつもかような市民の熱烈な信仰の深さを見聞することができ、何よりの幸福だとおもって感謝せざるを得ません。それとともに日本信徒の上にも強いかつ深い信仰を植え付けるべく、大に活動すべしと決心するのです。

そしていつも聖ペトロの墓の前で聖人の御伝達による報いをば日本上に祝福をたくさんたまわらん事を祈っているのです。ちなみに聖土曜日には中島、切江、七田の3兄は、小品級中の後の2段を授かられました。副助祭に叙せられたのは9月とのことです。
 
 

1951年(昭和26年) 4月    

投手今村師 国警黒崎対抗野球

 国家警察西彼地区署員と黒崎村チームのOB野球試合は、4月1日黒崎小学校校庭で挙行。黒崎チームは出津教会の今村師が名投手振りを発揮して3対2で黒崎の勝ち。因みに西彼地区署の署長平野氏は、黒崎出身の信者である。

 

カトリック教報より

長崎純心聖母会シトネ修道院

 褥崎には18世紀後半から19世紀にかけ、繰り広げられた切支丹弾圧に耐えて、信仰を守り続けてきた子孫がかなりいる。その先祖のほとんどは外海を共通母郷とする五島からの間接移住者である。1873年、弾圧は止んだが、宣教師たちの活動にかなりの制約があったため、水方や伝道した地の活躍が目覚しく、19世紀の終わり頃にには全村改宗に導いている。

 1967年現在地に褥崎教会が建立され、今村留市師が着任された。信徒の信仰教育に大いに力を注いでおられた今村師は地元信徒からの要望もあり「良い環境でよい教育を、特に子供の宗教教育を」と望まれ、1972年、教会隣接地に「しとね保育所」を開設され、純心聖母会にその運営を委託された。純心聖母会創立後38年目のことである。当初、会員4名が神崎修道院から通勤していたが、後には保育所園舎の一隅に居住することにした。しかし演じの増加に伴い移転を余儀なくされ、1988年、現在の修道院建築となった。当修道院は西海国立公園の一角、長串山つつじ公園より眼下に見下ろす緑の山並みの中に、赤い屋根をくっきりと浮き立たせている。

 2002年(平成14年)2月1日 よきおとずれ 第882号

後任の今村留市師も、会員養成に心を配り、励まして下さった。丁度終戦を迎えた頃で、師のご家族が原爆に会われ、その後片付けを手伝いに行ったことが鮮明と記憶に残っている。 (浜脇教会記念誌より)

 
 

1939年(昭和14年)11月1日 カトリック教報より

今村留市神父金祝

今村留市神父(三つ山教会)は、この3月で司祭叙階50周年を迎える。今村師は1913年(大正2年)4月17日、長崎市に生まれ、浦上教会出身。現在76歳。1932年(昭和7年)に長崎公神学校ラテン科を卒業。東京大神学校で1年過ごした後、昭和9年にロ−マのプロパガンダ大学に留学。1940年(昭和15年)3月23日にビオンディ枢機卿によって司祭に叙階された。以来、現在の三つ山も含めて8つの教会を歴任。もっぱら司牧と宣教に努めてこられた。今後とも同師のご健康とご活躍をお祈りしよう。

略歴

1940年(昭和15年) 8月 黒島教会助任

1942年(昭和17年) 4月 浜脇教会主任

1944年(昭和19年) 2月〜1945年(昭和20年)5月まで(桐教会兼任)

1947年(昭和22年)12月 出津教会主任

1953年(昭和28年) 7月 浅子教会主任

1963年(昭和38年) 2月 田平教会主任

1967年(昭和42年) 8月 褥崎教会主任

1978年(昭和53年) 3月 曽根教会主任

1979年(昭和54年) 2月 三つ山教会主任

 
 パウロ今村留市神父帰天

1992年(平成2年)4月に現役司牧生活を引退後、2年前から病床生活を送っていた今村留市神父が1月21日午前0時15分、脳梗塞のため聖フランシスコ病院で帰天した。88歳。52年間、司牧に尽力され、温和な性格は地域の人たちからも好意を持たれ祈る司祭の姿が印象的であった。通夜は1月21日午後7時から、浦上教会信徒会館で行われ、翌22日午後1時、浦上教会で島本大司教区葬が行われた。

 

 司牧者として非常に自分の務めに忠実でした。大祭日の前には、必ず告解(ゆるしの秘跡)のために、出かけずにいつも司祭館に待機していました。私は中学2年を終えたとき、神父様の勧めで神学校に入りました。休みで家に帰ったときは、いつも神学生としての私の生活を見守り、再び神学校へ帰るときは、いつも小遣いを貰っていました。神父様はロ−マで司祭になられた方です。当時としては非常に貴重な存在なのに、一度も華々しい活躍は無く、田舎(地方)教会の主任として懸命にその任に当たりました。教区としてもその知識とロ−マ留学の特性を生かせずに損をしたのでは、でも神父様はそのことに一度も不平を言うことなく、自分に与えられた務めに一生懸命であったようです。

 

 私どもは、主イエズス。キリストの救いのみ業に全面的に協力なさった聖母マリアの使命を生きるために、「深い祈りで宣教を」という会のモットーに合わせて、託された奉仕に励んでいる。共同体のメンバー5人は、60人の園児の保育と教会学校での4クラスの要理教育等を受け持っている。「わたし、家に男ん子のおらんけん、大きゅうなったら魚のエサやりすっと」「わたし、絶対シスタ−になるよ」と子供たちの夢と希望は大きい。今年5月で創立20周年を迎えるが、園児そして、信徒児童たちたちがイエズスのみ教えに親しみ、そのみ教えに従って生き、友人への援助やいたわりを学びながら正しい考え方を身に付けていく事を願っている。

 

 先祖から熱心な信仰を受け継いだ地元の人達の中から聖職者、修道者が輩出して、教会の発展のために活躍していることは喜ばしいことである。これからも信徒の皆さんと心を合わせて召命のために協力し合って生きたいと思う。最後になりましたが、小教区の信徒の皆さんに支えられて今日の私どもがあることを感謝し、み国の拡張のために献身いたしたいと願っています。

 

1990年3月1日 カトリック教報より

 :以来、現在の三つ山も含めて8つの教会を歴任。もっぱら司牧と宣教に努めてこられた。今後とも同師のご健康とご活躍をお祈りしよう。
 
 

厳しさが私を育てる

 平戸口教会主任司祭 長谷 功

 私が今村留市神父様と最初に出会ったには、故郷浅子教会へ主任神父として着任された1953年7月、中学1年生の時で侍者をしていました。すでに頭には毛が無かったものの非常に若々しく精悍なファイトある神父様で、いつも姿勢正しくきびしい威厳ある態度で指導を受けていました。神父様の厳しさは、他人に対してばかりでなく、特に自分に対してでもあったようです。性格的に厳しいところから、特に年を取ってからの友人が少なかったようで、亡くなられる数年前まではほとんど神父様を訪れる者も無かったようです。私も時々見舞っていましたが、そばに誠実に神父様のお世話をしてくれる人がいたことが、神父様にとって大きな支えになっていたようです。神父様の永遠の安息をお祈りいたします。


  
   
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