岩永四郎主任司祭

 

デオドロ 岩永 四郎 (浦上)

 

1911(明治44)年  2月14日 長崎市城山町に生まれる

1938(昭和13)年  3月20日 パリ留学後、大浦天主堂で山口司教より叙階

1938(昭和13)年  5月    浜脇教会主任

1941(昭和16)年  5月    馬込教会主任

1948(昭和23)年 12月    浜串教会主任

1959(昭和34)年  4月    諫早教会主任

1970(昭和45)年  3月    愛野教会主任

1971(昭和46)年  5月    三浦町教会主任

1983(昭和58)年  3月    時津教会主任

1992(平成 4)年  4月    長与教会主任

1996(平成 8)年  3月    引退

1997(平成 9)年  9月19日 時津百合野病院で帰天 86歳

 
 

岩永四郎師 助祭に叙品 長崎教区の慶事 (カトリック教報 昭和13年)

 

長崎教区神学生としてパリ市サン・スルピス神学大学に留学された岩永四郎師は、病を得て昨年九月帰朝、長崎公教神学校で、病を養はれる傍ら、勉学中であつたが、いよいよ御健康も完全に回復されたので、去る二月廿日長崎神学校付属聖堂で、山口司教閣下から助祭に叙品された。司祭の叙品は来る三月廿日の予定である。

同師は浦上の人で、大正十二年九月大浦神学校に入学、哲学終了後、昭和七年五月渡欧、同年九月パリのスルピス神学大学に入学、同十年五月副助祭に上げられた。同年十一月病を得て南佛に傳地療養、翌十一年更にモンブラン山の付近なるメゼーウのプレヴエントリウムで一カ年養生し、その間神学を準備し、エキス・アンプロヴアンス教区で神学試験に合格。十二年九月イタリアを巡遊して帰国され、今日に至つたものである。

 

岩永四郎師 助祭に叙品 長崎教区の慶事 (カトリック教報 昭和13年)

 

長崎教区神学生としてパリ市サン・スルピス神学大学に留学された岩永四郎師は、病を得て昨年九月帰朝、長崎公教神学校で、病を養はれる傍ら、勉学中であつたが、いよいよ御健康も完全に回復されたので、去る二月廿日長崎神学校付属聖堂で、山口司教閣下から助祭に叙品された。司祭の叙品は来る三月廿日の予定である。

同師は浦上の人で、大正十二年九月大浦神学校に入学、哲学終了後、昭和七年五月渡欧、同年九月パリのスルピス神学大学に入学、同十年五月副助祭に上げられた。同年十一月病を得て南佛に傳地療養、翌十一年更にモンブラン山の付近なるメゼーウのプレヴエントリウムで一カ年養生し、その間神学を準備し、エキス・アンプロヴアンス教区で神学試験に合格。十二年九月イタリアを巡遊して帰国され、今日に至つたものである。

 
 

五島久賀島における岩永師と神学生

(カトリック教報第237号 昭和13年9月1日)

 五島のキリシタンの復活は、久賀島がトップを切つた。現在信者百十余戸、島民尊慕の的であつた今村、七田両師の後を受けて、この春赴任した新進の岩永四郎師が、活躍している。

 去る七月、川西長崎県知事の離島訪問があり、カトリック教司祭の活動に望みを嘱して、岩永師に懇談あり、八月十四日の村青年団総会には、団長より講演を依頼されるなど、信者のみならず、島全体の衆望を負うている。

 しかし九部落、五会堂に分散せる信者の救かいに忙しく、その講演は、折よく来島の長崎神学校の田北教授が代りをつとめた。

 翌日被昇天の祝日は、その聖母を守護といただく『永里(えり)』の会堂でミサが立つた。

 二里三里を遠しとせず、或いは山を越え、海を渡つて集まる老若男女約四百、明治初年の大迫害を見た「紋ちいさん」は、両脚不自由の身を、松葉杖にすがって、前々日から泊りがけで来て居り、自ら人牢の憂目をなめた「友じいさん」は、早朝二里を徒歩で来た。

 聖母の貞潔にあやかれ、との力強い説教の後、東京大神学校の野口氏の指導する合唱隊の参加によつて荘厳なる歌ミサがあり、午後は海岸にテントを張つて、青年団員の講演会、神学生の劇、福引きなど、盛沢山の余興があつた。
 

江口、岩永両君の佛国留学 (カトリック教報第89号 昭和7年7月1日付)

本年四月、哲学の修学を卒()へし江口源一、岩永四郎の両君は佛国パリ、スルピス大学校へ留学を命ぜられ、去る六月四日箱崎丸に乗込んで門司を解纜した。江口君は海星中学卒業後、長崎神学校へ入学した特志家、岩永君は神学校の生抜きである。両君とも秀才と云う程ではないが、健康の頑強なので、可なり常識に富んで居る所からこの選に与つたものである。我等は両君が一日も早く卒業帰国して、大いに我国の宗教界に活動せられんことを希望して止まない・
 

司祭移動 (カトリック教報第232号 昭和13年6月15日付)

 久賀島教会主任七田和三郎師は佐世保教会助任に転任、後任には、先般叙品された岩永四郎師が就任されることとなり、左のごとく教会辞令発表された。

 久賀島教会主任 七田和三郎師 補佐世保教会助任

         岩永 四郎師 補久賀島教会主任

 

二千六百年々頭にはり切る下五島七ヶ村信徒代表黙想会と時局対策講習会

(カトリック教報第271号 昭和15年2月1日付)

 光輝ある紀元二千六百年の年頭を有意義に初むる為企かんされた下五島全教会連合会主催の信徒総代黙想会及び辞去悔い対策講習会は、一月十五日夜から十八日朝にわたる三日間玉之浦天主堂で開催された。

 切江師を先頭に、西田師、中島師、岩永()師に引率された各教会信徒代表四十名は、十五日午後六時、玉之浦ルルド宿泊所に集合した。一団夕食を共に、夕食後、共同ホールで西田師の挨拶、当番司祭からプログラム発表及び説明があり、直に聖堂で夕ノ祈が始められるると共に黙想会に入った。

 午前六時ミサ、次いで黙想、説教は五師が交替で行はれ、修養の指導につとめられた。

 午後二時から六時まで下五島教区郷別(大正十年制定)の再検討をたして信仰と道徳の強化を計り、殊に時局対策と云う見地から修正増強を行い、司教に認可申請をすることとなった。夕食後の一時間を時局対策座談会に充当、『今日国家が我等五島のカトリック信者に要する所は何か』という点につき、相互に忌憚なき意見の交換をたし、結局、カトリックの犠牲的滅私奉公の精神を織込んだ、魂のある国民生活と美しい愛国心を表現する事がその実行的結論として生み出された。
 
 

五島久賀島における岩永師と神学生

(カトリック教報第237号 昭和13年9月1日

 五島のキリシタンの復活は、久賀島がトップを切つた。現在信者百十余戸、島民尊慕の的であつた今村、七田両師の後を受けて、この春赴任した新進の岩永四郎師が、活躍している。

 去る七月、川西長崎県知事の離島訪問があり、カトリック教司祭の活動に望みを嘱して、岩永師に懇談あり、八月十四日の村青年団総会には、団長より講演を依頼されるなど、信者のみならず、島全体の衆望を負うている。

 しかし九部落、五会堂に分散せる信者の救かいに忙しく、その講演は、折よく来島の長崎神学校の田北教授が代りをつとめた。

 翌日被昇天の祝日は、その聖母を守護といただく『永里(えり)』の会堂でミサが立つた。

 二里三里を遠しとせず、或いは山を越え、海を渡つて集まる老若男女約四百、明治初年の大迫害を見た「紋ちいさん」は、両脚不自由の身を、松葉杖にすがって、前々日から泊りがけで来て居り、自ら人牢の憂目をなめた「友じいさん」は、早朝二里を徒歩で来た。

 聖母の貞潔にあやかれ、との力強い説教の後、東京大神学校の野口氏の指導する合唱隊の参加によつて荘厳なる歌ミサがあり、午後は海岸にテントを張つて、青年団員の講演会、神学生の劇、福引きなど、盛沢山の余興があつた。
 

五島久賀島における岩永師と神学生

(カトリック教報第237号 昭和13年9月1日

 五島のキリシタンの復活は、久賀島がトップを切つた。現在信者百十余戸、島民尊慕の的であつた今村、七田両師の後を受けて、この春赴任した新進の岩永四郎師が、活躍している。

 去る七月、川西長崎県知事の離島訪問があり、カトリック教司祭の活動に望みを嘱して、岩永師に懇談あり、八月十四日の村青年団総会には、団長より講演を依頼されるなど、信者のみならず、島全体の衆望を負うている。

 しかし九部落、五会堂に分散せる信者の救かいに忙しく、その講演は、折よく来島の長崎神学校の田北教授が代りをつとめた。

 翌日被昇天の祝日は、その聖母を守護といただく『永里(えり)』の会堂でミサが立つた。

 二里三里を遠しとせず、或いは山を越え、海を渡つて集まる老若男女約四百、明治初年の大迫害を見た「紋ちいさん」は、両脚不自由の身を、松葉杖にすがって、前々日から泊りがけで来て居り、自ら人牢の憂目をなめた「友じいさん」は、早朝二里を徒歩で来た。

 聖母の貞潔にあやかれ、との力強い説教の後、東京大神学校の野口氏の指導する合唱隊の参加によつて荘厳なる歌ミサがあり、午後は海岸にテントを張つて、青年団員の講演会、神学生の劇、福引きなど、盛沢山の余興があつた。



  
   
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