第3代 クザン司教

 
 

                               1886年 南緯代牧区

カトリック人口………………………… 26,320

異教徒の洗礼数…………………………   719

異教徒の子供の洗礼数…………………   222

クーザン司教の報告。すべての善の造り主への感謝にあふれて、日本南緯代牧区の布教状況についての二回目の年次報告概要をここにお送りする。神の国の発展への努力は静かに、しかも着実な進歩を見せて広く続けられている。というのも神の恵みに欠けることも、又宣教師たちの熱意が弱まることもなかったからである。それで今までにない成果を上げることが出来、皆、将来に大変明るい希望を持っている。

 

司教としての第一年目の殆どを代牧区内のいろいろな共同体を巡ることに使うことが出来たということは、私の生涯の最も幸いな思い出の一つとなることであろう。宣教師たち皆に、例外なく、各自が担当する地区で働いている、その場所で彼ら一人一人に会った。あたかも、旅人の疲れと憂さを忘れさせるために道ばたに咲いている花のように、神が聖なる任務を果たす彼らの足元に、時々慰めを散りばめて下さるという話を私は一人一人の口から聴いた。しかし悲しい哉!善に楯突き、熱意を削ぐが如き妨害の羅列にも、度々耳を貸さなければならなかった。しかしそんなことはどうでも良い。

 

今日の働きは昨日の働きに重ねられ、実りも小止みなく増え続けているのだから。南の方では、信者の小グループが各々、自分たちの教会を建てたいと思った。どんな犠牲も彼らをひるませなかった。殆どが甘藷しか食べられず、米というものがあると聞いているだけで、口にしたこともないという程貧しい彼らが、この目的を達成するためにどこまでも生活を切り詰めなければならなかったと考えるだけで恐ろしくなる。彼らの教会は大建造物ではない、しかし一般的に、優美さ、趣味の良さも備っていて、我々フランスの小教区へ持って行っても決して見劣りしないだろう。異教徒を対象に布教している所では当然、事のはかどりが遅い。

 

普通、日本家屋の一部屋しか我等の主に差し上げることが出来なかった。けれども、どの人も、神なる客人に礼を失することのないよう、この部屋を飾ろうとどれ程一生命であったことであろう!「あなたの家を思う熱情が私を焼き尽くす」。私の方は、どこへ行っても、感心させられるばかりで、又どこでも神の使者の様に迎えられた。それで、ありとあらゆる天候、道、途、路、とにかく思い浮かぶ限りの交通手段を使っての1,500里の旅の事ゆえ、その往復につきものの苦労や細ごまとした不愉快や厄介もあったが、すべては神なる師が味わせてくださった慰めの影になって思い出の片鱗も残っていない。さて、クーザン司教の後について代牧区のいろいろな地区を回って見るとしよう。

 

 

五島列島地区―― フレーノ師が北部地区を受け持っている。19の共同体に分かれて3,600人の信者がおり、18の聖堂がある。2530里も距った地域に散在しているから、一人の宣教師の仕事としてなかなかの事である。平戸の場合と同様(また五島列島の南の部分も同じことである)危篤の病人に必ず秘跡を授けようとするなら、絶えず、船に乗っていなければならない。このために師は殆んどの時間を費やしてしまう。この地区に着任してすぐ、彼は江袋に、より抜きの少年を数人集めて小神学校のようなものを始めた。豊後から一緒に来て貰った日本人に彼らの教師を頼んだ。奇特な人々がいくばくかの土地を寄贈してくれるので、この事業が誰の世話にもならずに自活してゆけたらと希望している。生徒たちは祭壇の奉仕にあたり聖務日課を歌誦している。

 

今、教師が非常に不足しているので間もなく彼らが教壇に立つすがたを見ることが出来るだろう。又地区の異教徒の村々を巡って、福音を宣べるだけの資格を持った伝道師にもなれるだろう。南部の地区の信者たちは北部程散らばっていない。数は大体同じ位でなる共同体は8つしかないがそれぞれに教会がある。殆んど、どこでも宣教師は巡回司牧中、香部屋に寝泊りした。従来通りの布教に加えて、今年、マルマン師は聖児童福祉会の施設の完成のために特別尽力した。報告に依れば男子学校5校に生徒75人、女学校1に生徒12人、年間洗礼数175、内成人は21人である。

     1887年 南緯代牧区 

カトリック人口………………………… 27,772

異教徒の洗礼……………………………   902

異教徒の子供の洗礼……………………   229

 

クーザン司教の報告によれば、「我々にとって、今年の大きな出来事は布教聖省から間もなく日本に第三の代牧区設置の栄誉とそれに伴うすべての利点が与えられるという知らせを受けたことである。今、中部日本の我々の同僚たちは、当然のことながら、首を長くして教皇聖下が神の名において送って下さる新しい牧者を待っている。彼らの熱意に、より広い活動分野が開かれるであろう。

 

南部に於ても、一人一人、我々に対する神の計画に応えるために熱心さと活動を倍加しようと意気込んでいる。その間、皆、地道にそれぞれの小さな収穫を収めた。今年受洗した人々の数が我々がまだ出会えないでいる人々の数に比して極少数であるとは言え、少くとも昨年のそれを遥かに上回っている事実を見て喜んでいる。それに受洗者の数はますます増えており、代牧区の中に聖主のものでない人が一人でもいる限りこの数を増やし続けて下さるようにと主に祈っている」。クーザン司教(アクモニア名義司教)の報告に続いてこの一年の出来事の中から最も興味深いものをここに掲げよう。

 

 

五島列島の北地区ではフレーノ師が34人の成人洗礼を表に書き込んでいる。彼は宣教会から援助を得て、しかし特に地区の信者たちの熱意に助けられて、鯛の浦の村に、難船したブレール師とその同伴者の記念碑を建てた。山を背に低い垣に囲まれた美しい見晴台に、美しい花崗岩の十字架が三本立っているのが遠くから見える。中央の一番大きな十字架の台石には、ラテン語と日本語の文字が刻まれていて、この二言語によって、宣教の義務を果たしながら殉死した司祭の思い出がよみがえってくる。他の二本の十字架には彼と一緒に遭難した日本人の名前が書かれている。記念碑の祝別式は大変荘厳に行われたので、島の人々は忘れ難い印象を受けたことだろう。

 

中央の十字架の足元に、信者たちの船の帆で作ったテントを張り、そこに祭壇を設けた。祝別の後、五島の地で初めて壮麗な司教ミサが挙げられた。日本人の弾奏者によってオルガンは奏され、聖歌隊は美しく聖歌を歌った。最前列にその日、初聖体を受ける子供たち200人が、全員色のリボンで首からメダイをかけ女の子たちは白いベールを被って、ぎっしりと何列にも並んでいて、見るだけで素晴らしい光景であった。

 

それより隔たった所には、入江という入江、小島という小島から、突然集まって来た45,000の人々が、儀式を見ることが出来るように、少し突き出ている斜面至る所に長い鈴なりになって見物していた。半数を占めていた異教徒は常時静粛であったとは言えないとしても悪い感じはみじんもなかった。その上、村長が正装の警官二人を伴って3里の所からはるばると治安のためとは言うが、実はかくも珍しい催物を見るためにやって来た。式が済んでからこの三人の偉い人たちは私に紹介してほしいと人に頼んだ。私が20年前のことを彼らに話すと大笑いになった。

 

話とは、20年前私が真夜中に、丁度この所で船からおろされ、日本人に変装させられて、警官らしきものはなんであっても絶対に避けるようにという厳命を受けた話である。信者3,700人、洗礼149人、内、異教徒の成人23人。これが南五島地区を担当しているマルマン師の数字である。彼は今年ごく僅かな収穫しか差し出すことが出来ないと嘆いており、又異教徒の布教のために、資格を持った伝道師は、死と結婚という二人しかいないとも付け加えている。すなわち老人のためには死、その時に洗礼を願うから、そして若い人のために結婚、何故なら、地区の信者たちは宗教の違う人と結婚することを断わるからである。これについてマルマン師はある臨終の洗礼で神の手が見えた事実を語っている。

 

それは旧信者の末裔で、占い師を生業としていた70才近い老人のことである。20年以上前から彼は宗教の話を聞くことを拒み、キリスト信者を罵り続けて来た。しかし、彼にこの様に話し、行動させていたものは憎しみでも、無知でもなく、唯金であった。もう十年以上も前のことになるが、今神学生となっている野浜がこの老人に改宗を勧めたことがあった。この老占い師は率直にキリスト信者になるのは良いことには違いないがそれは自ら生活の道を断つことになるのだと答えたのである。

 

ちなみに言っておくが、彼は盲人で占い棒を使うのが非常にうまかったそうである。そのために大変有名で、度々人が占って貰いに来ていた。そして彼は野浜にこう付け加えたのだ。「わしが命取りの病気になったら、きて洗礼を授けてくれ。こう言う訳はわしはあの世で良い所へ行くにはキリスト信者として死なねばならんことを知っとるからだ」と。み摂理はこの頑固な老人が望んでいたように事を運ばれた。まず、長く苦しい病気が彼に熟考の時を与えた、折から野浜神学生が健康上の理由で家に帰っていた。これを知った老人は彼を自分の所に呼んで貰った、それで数日にわたって、野浜は病人に一番根本的な点を非常に良く教えた。それで、ある日、私の所へこの老人の占いやまじないの道具が全部もって来られたのである。「これを全部、神父様の所へ持って行け、わしはそれを家に残したくない。

 

子どもたちの物になることを望まんのだ。わしは死のうが、治ろうが、キリスト信者でありたいのだ。だからこんな悪魔の道具はもう要らない」と瀕死の老人が言ったというのである。終に、すべてを放棄してから八日目に、病人は最期の近いのを感じて、私に会い、私の手から洗礼を受けたいと言った。この良き知らせを受けるやすぐに私は老人のもとに急いだ。ああ、ところがそこは少し遠い久賀島にあったので、病人の家迄の海岸通りを半分程行った所で使いの者と会い、「今亡くなりました。村の水方が洗礼を授けました」という知らせを受けた。それでも私は家へ行った。

 

この老人のために出来ることはもう何もないとしても、彼のこの回心で私には集まっている子供たちと近所の「離れ」の人たちと会う絶好の機会が与えられたからである。遺体の前で私が述べた言葉が集まっていた人々に強い印象を与えた様であった。子どもたちも孫達も皆そこにいた。彼らは私に、キリスト信者になることを約束した。また死ぬ時まで待たずに父の模範に倣いたいとも言った。老人の回心は村やその付近一帯の「離れ」の人々の間で、そして島の異教徒の間でさえ評判になった。
 
 

          1888年 南緯代牧区

カトリック人口………………………… 25,534

異教徒の洗礼……………………………   350

異教徒の子供の洗礼……………………   164

 
 

信者たちの司牧だけでも我々全員に充分な仕事であり、神の恵みによっていつも慰めとなる結果がもたらされるとはいえ、そこには多くの難題もある。まず日曜と祭日のミサにはまだ今の所この信者たちの中のごく限られた少数の人しかあづかることが出来ないこと、殆どの者に、秘跡にあづかることをどうしても必要な回数に制限せざるを得ないこと、彼らに一貫した要理教育を授けられないこと。というのは少なくとも幾つかの広い地区では通りがかりに彼らに会うだけだからである。

 

又全国的に教育制度が公立になって義務教育、無宗教々育がしかれるようになり、信者の中で、善意という資格の他には免許も持たず、資金なしにすませる習慣しか持たずに教育事業に挺身して来た人々の献身が水泡に帰す悲しみもある。宣教師、伝道師たちが「離れ」の人々を柵に連れ戻そうと、勇んで次々といろいろな試みを各所でするのだが、まさに自分から入りそうに見えていながら土壇場になって後退りしてしまうのである。異教徒に対する布教にも、おびただしい犠牲があるが、悪魔の抵抗にもかかわらず信仰を植えつけるために、たゆまぬ献身が続けられている。

 

殆どの場合、すぐに希望が芽ばえるのだが、悲しいことに度々残酷な失望がそれを追ってくるのだ。それにもかかわらず、落胆はどこにも見られず、間もなく豊かな収穫が得られるだろうとの希望にみなぎっている。以上が過ぎし一年の我々の布教状況のまとめである。年間告白数(17,675)と復活祭の聖体拝領(15,417)の数は増え続けており、これについて我々は主に最も深い感謝を捧げている。というのは、特にここから、布教成果と洗礼台帳に名のある信者たちの信仰の堅固さを計り知ることが出来るからである。1,428人の洗礼によって教会に新しい子供たちが生まれた。その内訳は次の通りである、信者の子供914人、異教徒の子供164人、成人350人。昨年度の布教状況とその結果を以上のように要約した後、クーザン司教は神の国の働き人たちが出会った種々の困難について以下詳しく述べている。

 

「県庁所在地から、又一般に中心都市から遠ざかるにつれて、人々は新思想に対してより強い拒絶反応を示し、その結果、より疑い深くなってゆく。又昔の迫害の記憶とその再燃の怖れとが消えずに、どこよりも強く残っているのがこの南部日本である。それで宣教師が、自分の熱意に託されたこの地に着任して、先ず出会うのが彼の前に立ちはだかる他所より根強い偏見と克服すべき妨げである。しかし、ここを攻囲するにはもう少しの時間と努力が必要であろう。神の恵みによって終には陥落するだろう」。

 

 

五島列島の二地区には、まだ多くの「離れ」が残っていて、宣教師たちは連れ戻すために一生懸命になっている。北部には、フレーノ師が24人の洗礼を獲得した。同じ洗礼数が南部地区でも、マルマン師によって得られた。その上、水ノ浦――楠原(Kusabari)のキリスト信者の村に8家族だけ「離れ」としてのこっていた人々が戻りのしるしを見せ帰順した。マルマン師は言う。「私が特筆しなければならないのは、浦頭の村で、この前の迫害の間に行われた『十字架踏み』を憶え、償うために聖十字架称揚の名をいただく教会が建立されたことである。」実際、この教会は、拷問と踏み絵の場所から数百メートルの所、かつて五島の領主ルイスの教会があったその土地に建てられた。

 

今年も二つの小聖堂が嵯峨島と姫島に建った。フレーノ師は次のように書いている。「北部には、8つの小学校の他に種類の違う学校が二つある。一つは江袋にある伝道学校で他は仲知(Thiuchi)の伝道婦学校である。それぞれ、12人程度を養うに足りるだけの畑をもっている。その目的は、片や男子の、他は女子の小さな会を作ることにある。すなわちどちらの会も、自活の道を持ちながら、異教徒と「離れ」への布教のために一段とよく教育され、準備された伝道師、伝道婦が幾人かはいつでも宣教師たちの手元にいるようにすることである。この学校は、又伝道師たちの老人の家としても使うことになっている。

 

生涯を信者たちへの奉仕に使い果たした後、身体の自由がきかなくなった彼らが家族に負担をかけないためである。彼らは手仕事、魚釣、耕作で生計を立てているが、まだ私が自分の財布から彼らに援助を与えなければならないということも言い添えなければならない。税金を納め、道具を買い、本もいくらかは要り、創立当初の家に必要な物はこの他にも沢山あるので、今のところ彼らが自分たちだけでやってゆくのは無理なのである。
 

     1889年、北緯代牧区

 

カトリック人口………………………… 10,026

異教徒の洗礼……………………………  2,008

異教徒の子供の洗礼……………………   455

 
 

オズーフ司教は次のように報告している。今年度の主な宗教的行事の中で、教皇聖下の司祭叙階金祝のことが当然のこと乍ら第一位を占めている。世界中のカトリック教会同様、この大きな出来事で、北緯日本代牧区の新信者たちは沸き立っている。彼らはその信仰の精神をあらゆる方法で表わした。先ず、代牧司教と宣教師たちがレオ13世に呈上する祝詞と一緒に彼らの聖下に対する敬愛の情のこもった祝辞をしたためた日本語の手紙を送った。

 

バチカン博覧会があると聞いた彼らはあらゆる方面から、高価な物ではないにしても少なくとも、日本の特産品のような非常に興味のある物を集めた贈物を詰めた12の大箱がローマへ向けて送られた。それにしても、聖下のために北緯日本代牧区の子供たちが捧げた最上の贈物は何といっても、聖下のためにこの一年を通じて、特に降誕祭の大祝日に、神に捧げられた多くのミサと聖体拝領と祈りである。宣教会ではこの御降誕祭の日を教皇金祝ミサの日、とりわけ一番美しい祝いの花束を集める日として選んだのであるが、この期待は裏切られなかった。

 

代牧区の四方八方から私のもとへ手紙が届き、宣教師たちも信者たちも一つの心になって聖下の御意向のためにミサと聖体拝領を捧げたと書いてあった。その上、誰もが隣人と競い合って、祝いの外的な雰囲気を盛り上げようとした。ありとあらゆる飾りつけ、花束、花環、ポスター、飾燈等、すべてが北緯日本代牧区のカトリック信者の心がこの祝祭の日ローマにあったことを語っている。ミドン師の中部日本代牧区長任命と、去る611日の横浜での司教祝聖式も又この宣教区に大いなる感動を呼び起こした。

 

かくの如き宣教師を失うという、我々としては当然の悲しみを、神の恵みによって埋め合わせてくれたのは、隣の宣教区の同僚たちがミドン師を長上に頂いて大喜びしていることである。神の御旨が行われんことを、御国がますます広がらんことを! 着座式のことも、この機会に集まって来た宣教師たちのこの大家族の中で味わった大きな慰めについても何も言わないことにする。次に掲げる代牧区のカトリック人口調査表は1876年の設立以来の伸び率を雄弁に物語っている。

    年    カトリック人口         年     カトリック人口

   1876…………        866            1883…………       4,855

     1877…………       1,235             1884…………       5,574

     1878…………       2,164             1885…………       6,193

     1879…………       2,766             1886…………       7,116

     1880…………       3,263             1887…………       8,114

     1881…………       3,547             1888…………      10,026

     1882…………       4,094

 
 

         1889年 南緯代牧区

 

カトリック人口………………………… 26,060

異教徒の洗礼……………………………   308

異教徒の子供の洗礼……………………   974

 

クーザン司教は次のように述べている。報告しなければならない洗礼数は全体に見れば、昨年の総数よりもやや増加しているので、この布教区の中に僅かながらも進歩し続ける恵みが与えられていることを神に感謝せずにいられない。だが実際には、この数は余り慰めにはならないということを認めざるを得ないのは、成人の受洗者が数多くないからであり、何れにせよ年の初めに抱いた希望は応えられず、特に代牧区のすべての宣教師たちが望んでいたよりも受洗者は遥かに数少なかった。

 

この本当の理由がどういうことかは常に神の秘密であり、神の霊はいつも望む所に吹き、そしてその勧めに従うことも、拒絶することも出来る人の心の自由さを、神は尊重なさるからである。だからこの結果は宣教師たちが払った努力や熱心と量り比べられるものではなく、実り豊かな結果をもたらすべく出来る限りを尽した、と彼らが言うことが出来るのは永遠の慰めとなるであろう。

 

しかもその上に、我々が生活しているこの国の中で政治的な種々の問題があるので、福音を宣べるためにそれは大きな妨げである。今、日本が政変に直面しているのは誰でも分かっている事だが、今後その危機によってどのようになるかは未来の秘密である。かなり前からこの危機は続いているが、一年前よりその状態は激化した。今迄あった外国人についての協定を見直して改正し、外人が自由に歩き回ったり、何処にでも居住する権利を与えたりするなどは、ある人々にとって国を敵に引き渡す政府の裏切り行為の様に見えるのである。

 

日本人は皆、この問題について賛成か、反対かということで過激な行動に出て、お互いに激しく争いあい、自分と反対の敵を攻撃し、打ち破ることが唯一の目的となってしまった。議会制度を開始する為に今までの古い政府組織に変わる新しい憲法が公布され、来年から議会(国会)が開かれるはずであり、この4月に市町村と市町村会議員が、普通選挙で選ばれ、下院議員の選挙は今準備中である。これらの事柄は人々の精神を興奮させる刺激剤となって、選ばれたいという野心を持った人々は自分の野望を成功させる為には、至る所で討論が討論を引き起こして、新しい新聞が続々と数多く刊行され、小さな村奥まで新聞が配達されたので、今まで想像も出来なかった新しい考えが生じて来たのである。

 

でまかせな説明をしたり、賛辞を呈したり、非難したりして、全く矛盾したような勧めを政府に提言し、又脅迫する事さえ平気で口にする程である。事実を言うならば、誰もが皆この変動の中に入りこんで実際かかわっている訳ではないが、この事に無関心な人は一人もいないのだ。というのも誰もが明日はどうなるかと未来の事を心配しているので、人々の頭の中には永遠の生命とか、超自然の物事を考えたりする余裕が少しもない訳である。

 

悪魔はこの機会を巧みに利用して、私たちの地域の中にまだ数多く存在する旧信者の子孫を私たちからもっと離反させようとしたのである。僧侶たちは密使を政府に遣わしたので、議会が開かれるやいなや先ず封建制度の組織を再び取り戻させ、それで大名たちも自分たちの領地を取り戻し、宗教と外国人に反対する古い規則が再び効力を持って実施されている。だから旧信者たちが外国人と外国からのすべての事物に好意を示すならば、再び身の危険を冒すことになった。

 

それでこの不幸な人々を恐れさせて、自分たちは戻らないで待っているという口実の為には、これ程沢山の理由はいらなかったのだから彼らは待ち続けている………… 我々の信者たちはどのようであったかと言えば、政治の事について全く無関心であった。そればかりか市、町、村の選挙さえ自分たちの為に利用しようとせず、彼らの人数が十分いる所では正当に、しかも容易に投票の過半数を獲得出来たのである。だがそれでも信者の二人の市長と其処些処に何人かの市、町、村会議員がいる。昨年のように、まず知らせるべきことは、カトリック学校が建物の数と生徒の人数を著しく縮小せざるを得なかったという事である。

 

我々の学校は当局の決定した要求に応じられなかったから、市長、村長たちが公立の学校を建てるや、それらは全く消滅してしまうであろうが、その理由は住民たちは誰もが皆、国の学校の為に費用を出さなければならないからである。我々は前と同様に子供たちに宗教的教育を続けるが、今迄やって来たことも殆どこれだけなのであるから、実際は学校という肩書だけが無くなるのだ。

 

問題は公立学校が男女の為であるという事である。しかし村落では貧しい人々は女性の為に教育が必要であることを全然理解せずに、又幼い時から年少の娘たちは家事を手伝わせるのが習慣となっているので、幼い子女たちを学校に通わせるのは非常に少ないのである。信者たちも全く同じ考えを持っているが、今後娘たちを学校に行かせない口実は、男女共学では不適当だという事である。

 

その場合には宣教師は個人的見解でもって、解決するようなことは余りしない。この様な難題をどのように解決したら良いのであろうか。しかしながら私が期待しているのは、浦上の信者共同体が幼少の娘たちのために一つの学校を準備しつつあることで、その学校は指導方針の点から見ても申し分のない位の物である。それを担当するのは修道女たちであり、昨年3月に免状を獲得した一邦人修道女の名義のもとに置かれるだろう。これから試みようとしている事は全く新しい事業で、それが成功すれば、素晴らしい良い結果を齎し、まず第一に200人以上の生徒たちの上に、次には地域の住民たちの精神に、そしてまた政府にまでも結果を及ぼすことになるであろう。

 

 

今迄に5つか6つの信者共同体のみが信者の教師が共学学校で働くのを承諾させる事が出来た。政府の計画ではカトリック学校にするのを許可しないが、それがどのようであれ、すでにその結果は非常に高く評価されているので、我々は徐々に信者たちが子供を学校に通わせるための犠牲を払うように望んでいる。それはまず各共同体の幾人かの子供たちが初等教育の三段階を終ることが出来る為であり、その後、公立学校に通わせて終了させるのである。種々の困難な問題はあるが、しかし忍耐して方針を持ち続けさせれば我らの努力には実りがあると希望している。

 

2月の叙階式によって8人の新司祭が与えられたのは宣教会のため多大な恩恵であった。この援軍はすべての秘跡をより多くの人々に齎すことが出来るものであり、信者たちは今後より頻繁にミサ聖祭に与かる事が出来、又もっと屢々神のみことばを聞くことが可能であろう。告解や信心の聖体拝領も著しく増加し、又少しずつ、聖主キリストがより良く知るれるようになり、より愛され、以前に増して仕えられるであろう。

 

かくの如く、五島列島には約8,000人の信者が居て、2人の宣教師たちだけだったが、今は4名の司祭によって担当されている。平戸と外海のように、大きな共同体である浦上にも同じく2人の宣教師たちがいるので、私が希望しているには、それぞれ担当している地区が終ってから更に尚、互いに「離れ」の人々や異教徒たちをも、世話をするための僅かな時間が残るであろうという事である。それ以上に5つの新しい信者共同体が設立され、そして今までまだ福音を宣べ伝える事が出来なかった地方にまで神のみことばが次第に伝えられ始めている。



  
   
inserted by FC2 system