第3代 クザン司教

 

           1890年 南緯代牧区

カトリック人口………………………… 26,975

異教徒の洗礼……………………………   493

異教徒の子供の洗礼……………………   172

 

クーザン司教の手紙には次のように書かれている。ここに昨年度の報告書をお送りする、南緯代牧区は宣教師や信者たちに忘れ難い思い出を残した荘厳な宗教式典を挙行する幸いな場所となった。32日に始まった我々のグループの第一回地区代表者会議とキリスト信者発見25周年を機会に、一か月の間、日本のかつての教会も、今の教会も見たことがない式典が、殆ど間隔を置かずに次々と行なわれた。そして我々の立派な信者たちはいかなる犠牲をもいとわす、出来るだけ大勢で参加したのであった。

 

その数は1万から12千と推定されているがそれは誇張ではないと思う。最も遠い島々の人たちは早くから準備を始め、船という船を全部海に出し、風も波も大海原での沈没の危険も顧みずに、寿司詰めになって乗り込み、聖歌を歌い乍ら出かけた。神の御あわれみによって、グループごとに定められた日には、事故一つなく、時間よりずっと前に、全員が集合場所に集まることが出来た。鐘が最初の音を響かせるや、信者たちがこの日のために頼んだ宣教師たちがスルプリをつけて彼らの先頭に立って歩き始めた。宣教会までの道を埋め尽くした群衆は、まるで魔法にかかった様にしんとして、沈黙がみなぎり、旗をかかげ、大声でロザリオを唱え乍ら、行列は整然と教会まで進んだ。

 

男女聖歌隊員の場所はあちこちに設けられていてそこから日本語の聖歌や教会の讃美歌が聴こえて来た。前もって配慮しておいたにもかかわらず、教会内部の場所は到底足りず、最後に来た人たちは遠路はるばるあづかりに来た祝祭であるので外で参加するしかなかった。それでも不平のつぶやきは少しも聴かれず、たしかに好奇心がなかったとは言えないが、それよりも巡礼者たちをここ迄導いて来たのは信仰の精神であるということが容易に読みとれたのである。人数も多く、喜びと感動が高まった日は317日であった。

 

三人の見知らぬ貧しい婦人が、この聖堂で宣教師の前に進み出て御子を抱いた神の御母の御像を指し示しながら、「私共はあなた様と同じ心でございます」と言ったのは、25年前のこの日であった。宝物となったこの聖母像は目の前のそこに今もあり、プティジャン司教はこの忘れ難いで出来事の起ったその場所に眠っている。そして彼の墓の上には、あの最初の訪問者の一人、信仰告白の日にはまだ小さな子供で、母に手を引かれて来ていたその人が今同じ様に自分の娘を連れて、式の間中そこに跪いたままでいた。まだそれ程遠い過去ではないが、不思議な出来事で隔った過去の生き証人として。

 

実に、この二つの日付を較べるなら、何という違いだろう! 1865年当時、日本には、まだ一人の新信者も持たない5人の司祭がいるばかりであった。そして、一か月前に祝別されたばかりの長崎の教会で、あの不思議なみ使いたちが自分の方へ来るのを見た人は、豊かな収穫の初穂を目の前にしていること、自分でその穫り入れを始めようとしていることを初めは想像だにしなかったのである。

 

そして、今年の317日、日本の教会は3人の司教とそれを囲むヨーロッパからの20人の宣教師、15人の邦人司祭、それに劣らぬ数の大神学生、30人の神学生、2,000人の信者に代表されてそこにあった。我々の若い教会はその銀祝を祝った! 今迄、これ以上に美しくこれ以上に感動的な祝典を執り行った者は誰もいないのではないか。確かなことは全ての人の心が同じ気持で一つに結ばれて共に神の玉座の方へ高揚し、神に、これ程迄に与えられた恩恵を感謝し、生きとし生ける者にその霊が注がれ、国中を福音の真の知識へと招いて、み業を完成して下さるように祈った事である! 地区代表者会議と25周年記念祝典のために捧げられた多くの聖体拝領と祈りが我々の事業と我々の上に確かに引き寄せた恵みを別にすれば、この美しい祝典は異教徒に対する布教への直接の影響は全然なかった。そのわけはこの祝いがすっかりキリスト教の内輪で行なわれたからであり、キリスト教に関係のない人々はこういう事があるという事さえ気付かなかったと言える。

 

隠さなければならないことは何もなかったし、もちろん隠したのでもない。唯、外部の人々を引きつけるために何もしなかったのである。彼らを招くだけの場所がなかった上、その参加によって信者たちの潜心が妨げられるだけであった。その上信者たちはこの様な場で臆せず振る舞うことに全然なれていないからである。彼らは自分たちだけで祝いたかった。もっともな事であった。これ程の慰めにいくらかの試練がないはずがない。それは我々にとって一番痛い所から来た。病気が我々の同僚の幾人かを、年のある期間、完全に布教の仕事から引かざるを得ないようにしてしまったのだ。

 

彼らの中の何人かは快方に向かっているが私はまだまだ将来のために安心出来るところまで行っていない。布教の仕事も、相変わらず。平均価格を上回る食料品の物価高のために甚だしく妨げられた。どこもかしこも困窮していて、多くの家庭に完全な破綻を来たしてしまった。この場合、食べ物の心配は知恵の目を天に上げる助けには全然ならないのである。6月にコレラが異常な猛威をふるって代牧区を襲った。

 

信者たちの中でも幾人かがひどいコレラにかかった。それでも神が我等を明らかに守って下さったことについて大きな感謝を捧げなければならない。実際、至る所で、コレラの猛威よりも恐怖の方が早く広がっていったのである。多くの地域では村同士の交流が禁止され、全国的に公的生活が一時停止したかの様であった。それ以来布教の場が全くなくなってしまった。栄光ある過去と摂理的な状況によって日本の教会の復活の場となった長崎は宣教の中心地であり、それ故、施設の数も多く栄えているのに、今日迄この町は、25年前から目の前にしているキリスト教の運動に対して頑な迄に無関心な態度を取り続けている。この地に於て回心は依然としてまれで困難なことである。五島列島は3地区に分かれており、信者総数は8,000人以上に上っている。

 

信者への司牧はここでは非常に難しい。というのは、彼らは小さなグループに分かれて、あちこちに散らばっており、ほんの少し場所を変えるにも普通、海路の旅となるからである。天候がいつでも良い訳ではなく、その上舟の準備が整いその日、当番にあたっている舟頭たちが揃う迄に数時間待たなくてはならないからである。

 

それで多くの信者たちはたまにしか訪問を受けることが出来ない。こういう訳で、兄弟たちは、熱心がさめない様に、又信者たちを少しずつ真のキリスト教精神へと導くためにありったけの熱意を込めてしなければならないのである。彼らは全力を尽くしてこれにあたり成功を収めている。父祖の信仰実践に未だ戻っていない旧信者の末裔たちの数はまだ多いが、あちらこちらで、ずっと好意的になって来ているのが感じられ、近い将来、彼らの中のかなりの人の戻りを希望することが出来る。

 

それでも時には、想像も出来ない程の宣教師が出会うこともあり、次に掲げるペルー師の話でどんなことかが分かるのである。「ある日、私は72才の老人の所へ行った。私を案内してくれたのは「離れ」の村の責任者で、病人に、自分たち皆が、生後受けた洗礼は無効であったことがはっきり分かったので、宣教師に洗礼を願うようにと勧めた人であった。相談は朝の9時から夜の10時半まで続いた。最期の近いのを感じた老人はとうとう私たちの勧めに服し洗礼を願った。

 

ところが、ここで子供たちが反対したので危篤の病人は泣き悲しみ、こう言った。『一体わしは何処にいるか? こんな取り扱いを受けるとは、家の中で、一番下の者か?』それでも息子たちは平然としている。終に、彼らの中の一人が私の連れの者に言った。『ところで、宣教師を連れて来たあなたは、新興宗教の洗礼を受けるように勧めているが、それでも父の救いが駄目にならないという確信を持っているのですか? 事は重大です。宣教師の言う通りにして父は地獄に行かないのですか?』ずっと老人は嘆き続けていた。

 

話し合いは解決しそうになかった。夜もふけて来たが、私が席を立つ気配もみせず、病人に教え続けていたので、根負けした家の人達はとうとう逆らわなくなり私は自由になって、しようと思っていることが出来るようになった。私がスルプリと儀式書をすでに手に取って、さて、という時、朝から黙って側にいた一人のお婆さんが病人に近寄って叫んだ。『爺さん、あんたとは縁を切る!』こう言って出て行った。この言葉で一座がしんとなった事は言うまでもない。がっかりした連れの者は引き揚げようとしたが、病人は妹が時ならぬ時に出て行った事に動揺もせず洗礼を願い続けた。

 

それから又一時間話し合いが続けられ、終に私は老人に洗礼を授けることが出来た。老人は翌日その生まれ変った霊魂を神に返したのであった」。その極貧にもかかわらず五島の北地区の信者たちは多大の犠牲を払って江袋に宣教会の教会の中でも一番美しい教会を建て、他のキリスト信者共同体に以前からある教会の殆どを増築、又は修理、装飾することが出来た。

 

        1891年 南緯代牧区(長崎)

カトリック人口………………………… 27,909

異教徒の洗礼……………………………   408

異教徒の子供の洗礼……………………   247

 
 

クーザン司教は書かれている。1890年から1891年にかけての年度は、コレラが我々にもたらした試練のさ中に始まった。この試練は、10月の半ばごろにやっと終わった。災厄はその始まりにおいても、我らの信者たちの大部分にとっては、近隣の異教徒の村々ほどに恐ろしいものではなかったが、それでもかなりの犠牲者が出て、その間は宣教師たちは病人の世話の心配で精いっぱいというありさまだった。やっと少し息をつく間もなく、他の疫病が代牧区の中に現われ、急速に至る所に広まった。これはコレラほど恐ろしいものではないにしろ、ほとんどだれひとり免れえなかった。それは、インフルエンザであった。しばらくの間は、我らの施設に入ることをためらっているかに見えた。

 

修道女方のところでも神学校でも、だれもこの伝染病にはかからずすむかと一瞬思った。だがそれはむなしい希望! やはり、病気の訪問を受けねばならなかった。先生も生徒も同時にかかってしまった。休暇を与えることを余儀なくされたが、そのくらいの安価で支払いずみになることは幸せだった。伝染病についての話にきりをつけるため、我々の信徒のうちの数名が突然、赤痢におそわれたことを言い加えよう。これはコレラのように病人を即死させることはないとしても、ついにはほとんど全部の生命を奪ってしまう。それでドロ・師は、2,000人のカトリック信徒のうち、数週間で50人の死者を算えた。

 

また、平戸や五島の地区のあるいくつかの地域でも、同様のことが言えるだろう。程度はいろいろだが、代牧区の民衆をおそったこれらの試練の他にある地域に限られていたとはいえ、それにふれられた人々にとっては勝るとも劣らぬ恐ろしい他の試練があった。それは洪水である。九州の北部で数回にわたって、いくつかの県に災害を及ぼした。つまり、台風の襲来で、いちばんひどいのは、昨年の9月のもので、特に南部地方、薩摩、日向、肥後に至るまで荒らし回った。死者は数百人、倒壊家屋は数千を算えた。

 

樹齢何百年という古木が旋風によって曲げられ、根こそぎにされ、引き裂かれ、台無しにされた。すべての収穫は全滅で、これに続く日々は、至る所で住むところもなく、生活に必要なものを全く失ってしまった人々にしか出会わなかった。上述のような、またその他のいろいろの困難にもかかわらず、今年もまた、旧信徒や異教徒の民衆のもとでの我らの聖役の上に注がれた祝福のため、神に感謝しなければならない。我らの管理の一覧表を一瞥するだけで、我らは洗礼によって1,638人の新しい子供を教会に与えるという慰めをえたということが、あなたにおわかりいただけるだろう。昨年の数はいくらか上まわっており、また大人の数は少し減少しているという違いがある。

 

その代わりに、聖児童福祉孤児院の事業での異教徒の子供の数が著しく増加した。我らの同僚の何人かは、我らの邦人共同体に属する何名かの婦人たちを巡回受洗者として用いることを試みた。彼らの呼び掛けはきかれ、あらゆる称賛に値する熱心さで、彼女たちはこれに応えた。多くの困難にもかかわらず、この最初の試みはよい結果をもたらした。経験がこれからはもっとよくすることを助けるだろう。そして毎年、家父の穀倉に、よりゆたかな収穫を納めることができると私は希望している。いずれにせよ、我らの進歩は、我らの望みに比して、あまりにも緩慢だとしても、我らの前進は一瞬たりとも緩まなかったことを認めなければならない。我らの代牧区が存在するようになって以来、年度毎に信徒の数の一千人近くの増加をみるのは、喜ばしいことである。

 

南部日本の使徒的働き手たちは、精神と心においてよく一致し、人々の救いによる神の栄光という同じ目的を追求しているとはいえ、仕事については、はっきり区別される二つの組に属している。異教徒たちの中にいる者たちは一つの対象しかない。あちらこちらでできるだけ多くの大人の洗礼を拾い集め、それが可能なところどこにでもキリスト者共同体の核を形成するということである。彼らは日本の他の宣教地のすべての同僚たちと同じ状況にいる。一般的に熱心な働き手たちは、ただ待っていてはやって来ない仕事を積極的にさがし求めにゆくため工夫しなければならない。これに反して、信徒の地区をまかされている者たちは、いわば命令された任務に服従している。

 

仕事は宣教師を待っていない。彼の上に課される。第一の心遣いは、新信徒を作ることではなく、現在の信徒の霊的必要をみたすということである。四、五千人の地区で、すべての病人の招きに応え、2030の異なった信者共同体で、年のゆるしの秘蹟や復活祭の聖体拝領の準備を、すべてそれにあずかることのできる年令の人々にさせ、信心の告解をきいた上では、未信者の改宗に有効にたずさわる余裕は残らない。

 

マトラ師によって提供された前記の詳細にペルー師の手紙の中で見つけた他のいくつかのことをつけ加えることを許していただきたい。「地区にある40の教会は、大体同じように司牧されている。秘跡は規則正しく授けられている。できるかぎり荘厳に挙行されている祝典は、そこに来ることのできる人々にとって、信心の聖体拝領や特別な恵みの機会となっている。病人たちは見舞われている。不具者や老人たちは、祈禱所に用いるのにほぼふさわしい家がある場合、彼らの部落で少なくとも年に一度、ミサにあずかる慰めを得ている。私の助任と私は、地区の中にまだ残っている「離れ」を柵の中に連れ戻そうとできるかぎりのことをした。結果は、ほとんどゼロである。

 

しかしながら、私が一年のこのかた引き寄せようと努めている宮原の村では、いくらか進歩のあることを認めなければならない。いくつかの家族は今、子供たちを伝道師のもとに送ることを承諾している。数ヶ月前、臨終の老いた夫に洗礼を授けることを私に許さなかった気の毒な一人の老婆がいた。彼女は我らの宗教ほど不幸をもたらすものはないとの口実で拒んでいたのだが、彼女自身、三週間ほど前、病気になった。そして、洗礼の水によって再生させられて、その魂を神に返した。

 

ついに被昇天の日、楠原のおもだった二人の「離れ」の訪問を受けたのは、私にとって嬉しい驚きだった。あらゆる勧告に対して反抗しつづけていた彼らは、自分から来て彼らの全集落が先祖の信仰に戻ることを告げた」。現在、福江島全体に流行している伝染病は、幾人かの洗礼の機会となった。もしも、私が巡回看護婦の数を増やすことができたら、もっと多くの洗礼をかちえたことだろう。彼女たちは限られた範囲に閉じ籠もらなければならず、彼女らの住居の近隣の村しか巡回できなかった。このような状況の中で、彼女らが示した惜しみない献身について、私はなんと神に感謝してよいかわからない! 彼女らのひとりは病人を看護しながら、自分を病気にかかった。

 

そして彼女の例は、他の婦人たちの勇気を少しもそがなかった。一年間で彼女たちは63人の子供あるいは大人に洗礼を授けたが、特に彼女たちは異教徒たちに我らの聖なる宗教に対して高い評価の心を起こさせた。信徒たちの地区を離れて、未信者たちの中に住む宣教師たちの方に向かうと、一つの宣教地を出て他の宣教地に入る思いがする。

 

そこでは、もう問題はほとんど毎日、宗教上の助けを願う病人のもとにはせつけたり、年の務を果たすため、あるいは信心を充たすために来る人々の告白をきいて一日中を過ごすことではない。そういうことの代わりに、全くの孤立に甘んじるか、あるいは宗教上のことを調べるという口実のもとに、たびたび無遠慮な好奇心を満足させるため、またもっと悪いことに、苦い経験をさせておいて、そのあとで嘲笑したり、他の人々に嘲笑させたりして、教えと戦うための武器を求めに来たりする人々の終わりを知らぬ訪問をうけなければならない。

 

大いなる信仰の精神と粘り強い奮発心だけが、ほとんどどこでも同じようなこういう初期の試練に耐える勇気を与えてくれる。信徒の小集団を創ることに成功し、カトリックの祈禱所が存在し、宣教師が常住することが、既成事実として一般民衆から暗黙裡に受け入れられるようになれば、状況はさほど困難ではなくなる。しかしながら、一般にいきなりそこには達しえない。

 
 

       1892年 長崎

 

カトリック人口………………………… 28,886

成人の洗礼………………………………   662

異端者の回宗……………………………    8

異教徒の子供の洗礼……………………   281

パリの神学校の校長ならびに役員一同に宛てた長崎司教クーザン閣下の手紙

長崎18921117

 

  尊敬すべき役員御一同様

 代議士たちの議会の解散とそれに続いた選挙は、日本がかつて見たこともなかったほどの騒乱の原因であり、将来どんなことが起るかわからないという不安をいだかせる。長崎のいくつかの選挙区では死者や負傷者が出たが、彼らの血はたしかに平静や和合を芽生えさせることはないだろう。

 

最も激烈な欲情がこのように荒れ狂うのを目前にして、私たちの役割ははっきりと示された。嵐の間、巣箱の中にかくれていて、陽光がさし始めるや否や、出会うすべての花から蜜を集める仕事を再開する蜂蜜のように、静かに嵐が過ぎ去るのを待つことだ。しかし私たちは、普通選挙の国々で言われているように、選挙についての策略なしに望みをかけていた。この宣教区とは無関係な、非常に遠隔で一弱小の地方新聞が、両党の有権者たちの前で、長崎のカトリック司教が、自由党首、大隈伯爵に次の条件で50,000ピアストルをわたした、つまり、選挙が彼のため有利で、彼を権力に戻したなら、カトリックを国教とし、あらゆる特典を与えるという条件でこの金をわたしたということを暴露するというひどく悪い結果をもたらすことを思いついたのだった。

 

アヒルはかえるや否やたちまち首都の方へ飛んでゆき、都市の主要な新聞社の事務所の上に舞い降りた。間もなくそこから同じような雛鳥がたくさん出て、四方八方に飛び散る。見識のある階級や政府の人々は、欺かれなかったが、一般大衆の中にはこのニュースが信用され、やがてあらゆる新聞や公の会合において、結局は我々に向けられた呪い、罵りのなだれとなった。政府は、自由党が外人に国を売ろうとしているということを言わせておくのは有利だと思っているので、地方の役人たちは、我々が否認するにもかかわらす中傷が広まるのを妨げるようなことについては用心している。

 

そして反対者たちは、自分たちにとって致命的な非難に対して身の証しを立てようとし、自分たちは我らの敵であり、またそうあり続けたいということを証拠立てるため、ありふれた攻撃をさらに大げさに言いたてたのである。仏僧たちは、私たちの小さな成功に対し、復讐するためのこんなすばらしい機会をのがさなかった。彼らはあちこちで活動を始め、政府を倒し、国を外人に売り渡すことを唯一の目的とする宗教が、日本に入るがままにしておくことの危険をわれがちに大声で叫び立てた。

 

「すべてのキリスト者は裏切り者だ。裏切り者として罰すべきだ」と彼らは言っていたのだった。我らの新改宗者のうちの何人かは恐れをいだき、ただちに宗教上の務めをやめてしまった。そういう人は少数である。そして、ひとたび平穏が回復すれば、彼らは戻ってくるであろうと希望している。しかしながら、恩恵の働きをすでに受け、それによって少しずつ洗礼にまで導かれるであろうと思われていた人々が、世論を押し切って進む勇気がなかったり、あるいは我々に反対してしゃべり続けられる中傷を耳にして、それに欺かれた人もあったことはたしかである。

 

どうか神が、さらに溢れるばかりの光によって、彼らの初めの善意に報い、ついに救いの道を見出させてくださるように! この突風は、どこででも同じ烈しさで感じられたわけでは決してなかったのだが、とにかくこれをぬきにすれば、我らの同僚たちの聖務は通常の障害に出会っただけであった。こういう障害は、今さらいうまでもなく、もうすでに周知のことである。私は、この聖務が実りゆたかだったとは敢えて云うまい。というのも、記帳できたわずかな結果は、私たちの望みやまた希望さえもいつもはるかに下まわるものだから。

 

しかしながら、収穫の主が私たちに寛大にお恵みくださり、前の何年かに比べればよい収穫だったことを認めないのは、私たちの側からの忘恩とも言えよう。洗礼の数は1,941に上り、この数の中に662人の成人を数え、これに加え、年の告白が19,000、御復活祭の聖体拝領16,000で、これは使徒的働き手の発奮心と我らの信徒たちの信徒としての義務の果たす忠実さを十分に語っている。

 

多くの地区において、信心の聖体拝領の(浦上では11,000から12,000)主日、祭日はいうまでもなく、週日でさえもミサ聖祭に規則正しい出席があるのをみることは、宣教師たちの大きな慰めである。また聖母月、聖なるロザリオの月、聖心の月、四旬節また常時十字架の道行の敬虔な勤行を真の信心をもって行なう信者共同体があることは、まだ異教のこの国の真ん中で、主が知られている特に恵まれた場所があり、主を愛し、霊と真とをもって主に仕える人々がいることを証している。信徒の地区から出るまえにペルー師にまことに感心すべきいくつかの詳細を語ってもらおう。

 

「……今年、初聖体は三つの異なった信者共同体で行なわれ、170人の子供がそれにあずかった。これらの美しい祝典は、親たちを深く感動させ、だれ一人教えの不足のため、自分の子供が遅らされるのを見るようなことを望んではおらず、それで、みんな子供たちに要理を教え、あるいは教えさせている」。下五島地区での聖なるロザリオ会の設立は、今年の最も著しい出来事であった。

 

この会は、すでに各村で最も熱心な人々の中から選ばれた多くの会員を教えていた。私が共同体の善のために有益ななんらかの実践を指示すべきだと思う時、たとえ全員が私の望みに応えなくとも、会が模範を示し、他の人々を引いてゆくことを前もって確信できる。このような堅信を受けた青年男女は近隣の子供たちに、また教育程度のより低い親たちにさえも要理の文字を教えている。ある共同体では仕事がそれほど忙しくない時、家族がいろりのまわりに集まり、たびたび10才から12才の子供が集まりの小さい博士になる。また、たびたび日曜は要理全体を声高で、いっしょに唱えることで一日を終わらせている。そして、この総ざらいの中での不完全な部分は、週の間の特別な勉強の対象となっていて、どうかこのすぐれた実行が一般化しますように!



  
   
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