第3代 クザン司教

 

                                                                                                                                                           1893年 長 崎

カトリック人口………………………… 30,502

成人洗礼…………………………………  1,318

異教徒の子供の洗礼……………………   236

異端よりの回心…………………………    3

 

パリ神学院校長及び各指導者等に宛てたクーザン長崎司教の書簡

18931020日長崎にて

 尊敬すべき諸師

神の恵みに依って、今年の報告はかくも度々襲っては人々を悲嘆にくれさせ、宣教師たちの熱意を一時麻痺させるあの災害のあれこれを書き連らねることから始めなくても済む。昨年度、南緯日本代牧区は台風にも、洪水にも、地震にも見舞われずに済み、コレラの恐ろしい猛威も我々を避けて通った。腸チフスと赤痢は完全に姿を消したとは言えない迄も、これ迄の年に比べてその猛威の振るい方はずっと弱まっていた。他方、総選挙を機にあれ程激しく過度に興奮していた人心も今は落ち着きを取り戻したようである。政府は我々に対して完全に中立、かつ受け身の態度を持している。我々の宣教活動が今年出会ったのは、皆さんがすでにご存じの、いつも乍らの妨げだけであった。

 

一つは布教の為の人材と資金の不足であり、他は相変わらず深まる一方の宗教的事柄に対する人々の無関心である。この無関心がどこから生じるかと言うと、それは書物、新聞、公立学校の教育、それに商業の発展と、外国との交渉に依って新たに流れ込んで来た豊かな生活への渇きからである。これらの諸原因に、更に政治に熱中する余りの興奮状態すなわち、いつの時代にも一民族の精神生活に有害なものである興奮状態と、相互には邪魔し合い乍ら、我々に対しては団結し、声を一つにして我々を指差して「ほら、敵だ!」と叫ぶ多々ある諸宗派の各派を付け加えなければならない。何はともあれ、この報告を書き始めて第一に私が憶えるのは神に対する深い感謝の念である。

 

何故なら神の慈しみが、成人洗礼1,318人を含む2,582人という受洗者の束を神に捧げるという慰めを初めて与えることによって我々に特別の配慮を示されたことを認めない訳にはいかないからである。五島列島は数年前から三地区になっていたが、此の年度の間に一つにまとめられ、ペルー師一人の手に委ねられることになった。9,000人以上のカトリック信者を擁する沢山の共同体を司牧するためにベルトラン師と他に二人の邦人司祭が彼を助けている。み摂理が許されたので、この4人の同僚たちは次ぎ次ぎに健康を害し、そのため司牧はいつでもきつく、又出来なくなった時期もあった。この思いがけない支障にもかかわらず、五島地区では神なる収穫の主に成人と異教徒の子供の洗礼という美しい小束をささげる喜びがあった。統計表には洗礼数94とありその内成人が半数を占めている。

 

1894年 長 崎

カトリック人口………………………… 31,674

成人洗礼…………………………………   829

異教徒の子供の洗礼……………………   315

 

パリ神学校校長及び顧問諸師に宛てたクーザン(Cousin)長崎司教の手紙。

1894111日、長崎にて

 尊敬すべき諸師

昨年私は条約改正の件についてあえて予言し、多分まだ相当長い間待たされるだろうと申し上げた。ところが、英国がそのあとすぐに私の予想をきっぱりと否認したがそれを私は喜んで許したのである。条約改正によって英国が道を開いたので他の列強も否応なくそれに続く筈である。フランスがしんがりではないように、それがせめてもの私の望みである。この度締結された新条約は、すでに厳しい批判とごうごうたる非難を引き起こしている事を私も知っている。この国へ霊魂を救う為どころか、出来る丈安易に私腹を肥やしに来る人々がある。

 

こうゆう人々は自分たちだけが条約の対象にされると信じているので、その利益が犠牲にされ、彼らの不利な様に日本人がうまい事をしたと思っている。商業、工業、経済の面でこの新条約に対して主張すべき言い分けのあることに私も異議をはさまない。しかし宣教師は物事を他の観点から見ることが出来るし、又そうすべきである。6か月毎のパスポート更新という現在の制度だが、我々は唯々日本政府の好意によってのみそれを受けているのであり、日本政府はこの証明書を変更することも、制限することも又望めば拒否することさえ出来るのである。しかもパスポートは我々に、ある限定された地域を旅行する権利しか与えず、しかもそこの何処にも家を持つ事を許さない。こうして我々は警察の意のままにさせられている。かえって、どこでも自由に歩き回ること、自分名義で家またその他布教事業に必要などんな建物でも所有すること、日本人と同じ資格、同じ保証付でどこにでも住むこと、普通税だけ払えば良いこと、かくして、信仰に於ける自分たちの兄弟、息子たちと全く同じ生活を分かち合うこと、以上が一宣教師の一番大きな望みを満たすことの出来る利点である、と私は思っている。

 

我々もこの国の法律と裁判権に服さなければならないという事も事実である。遠方からは、この状況は恐ろしいことにみえるかもしれない。しかしあえて申し上げるが、近くからは、事は少なくとも非常に結構なものに思えるのである。経験して見れば、私の言う事が間違っているか正しいかが分かるであろう。それ迄、神にしか属していない未来についての心配を脇に置いて、我々の現状を語ることにしよう。我々の洗礼数(18931894)は、昨年のそれを幾らか下回っていることは事実であるが、それ以前の年の平均を上回っている。洗礼数は、2,204で内、829が成人、その中の95だけが臨終洗礼であった。もしも、我々の希望が実現していたならば、家父である神に捧げる束はもっとたわわなものであったろう。

 

しかし、数々の障害が起こって福音の働き手たちの熱意を妨げた。これから一つ一つ順にお目に掛ける各地区の報告で、それがどんなものかお分かり頂けるであろう。実際これは大体の様子にすぎないが、我々が闘わなければならなかった困難を感じ取って頂く為には、充分である。宣教活動について表面的な見方しかしない人々は、特に成人の洗礼数に注意を向ける。しかし、尊敬すべき諸兄、皆さんは誰よりも良く、この数字だけでは一宣教地で成された善と遂げられた進歩を正確に知る為に、不充分であることを御存知である。洗礼は何の役に立つのか、もしも洗礼がキリスト教信仰生活の真面目な実践へと導かないなら、又もしも神の真のしもべと教会の真の子供を作らないならば。そこで年間20,000の告白、18,000の復活祭の聖体拝領、50,000近い信仰からの聖体拝領、これによって我々のカトリック信者が大多数、自分の洗礼の約束に忠実であり、自らの義務と実践をしっかり理解している事が充分に分かって頂けるであろう。

 

子供たちに宗教教育を施すことも又、合計9,439の信者を擁する五島の三地区の布教を担当しているペルー(Pelu)師の大きな心配の一つである。彼は次のように書いている。「一緒に働いている三人の日本人司祭の注意を喚起するよう、私が特に心かけている一つの点がある。それが子供の要理教育である。南部には、告白をする年齢に達している子供が650人、中部に470人、北部に530(少なくとも8才以上の子供だけを取り上げると)、というのは、この辺りの田舎ではこの年齢に達する前に告白の出来る子供に出会うことは稀だからである。それで、この子供たちの内、悔悛の秘跡を受けられるだけの充分な教育を今身に付けているのはせいぜい半数なのである。

 

たしかに、神父が伝道師たちの熱意を励ますようにするなら大いに助けて貰えるのである。それでも、宣教師が自分でこの仕事を引き受けずにいれば、それが長引くだけ、良家の子供だけが教育を受ける事になり、他の者は1415才、時には18才になるまで信者としての義務も知らず、非常に大ざっぱにしか義務をはたさないまま大きくなってしまう。児童期の教育こそ我々の大切な義務の一つであることを忘れない様にしよう。私はとくに心を込めてこの義務を果たしこの目的の為に助けて貰うつもりである。以上の事から、我々の古くからの諸共同体の今の状態はこれ迄の年のそれに劣ると結論すべきだあろうか?      私はそうは思わない。事実はその逆である。福音の働き手たちは年の告白を聴き、病人を訪問するだけがやっとであったので、宗教教育の方はこれまた彼らも少ししか教育を受けていない伝道師たちに委せ、秘跡を望む人々をざっと大急ぎで試験をして受け入れる事を余儀なくされて来たのだ。彼らの人数が増えるにつれ、それだけあちらこちら旅行することもずっと減ったので、各々の共同体にもっと長く滞在し、実情をもっと正確に把握し、以前他の人の手に譲らなければならなかった仕事を自分でする為にだんだん時間を見付けることが出来るようになっている」。
 

1895年 長 崎

カトリック人口………………………… 32,655

成人の洗礼………………………………   542

異教徒の子供の洗礼……………………   253

 

長崎の司教クーザンのパリ神学校校長及び顧問方への書簡

長崎 18951011

 尊敬する諸師

皆様の知る不安にもかかわらず、今年は前より増加し、宗教のことについて人々の関心は少ないが問題はない。教区の他の地区は多少とも試練(窮乏、コレラ、赤痢、台風)はあったが、私はこの試練の後で少ないけれど、前進をしたことを認める喜びをもっている。そして、信者たちも順調に増加している。およそ、その数は1,000人位である。これは聖なる牧者の恩恵によるものであることと認めざるを得ない。主は全く恵まれない状態の中において小さく見えても我々にこのような実りを許したもうた。宣教会の報告をする時には、まだ我らの家族の喪の為の悲しみを持っていなかった。唯、私は今、神が御許に招かれた惜しむべきティシエ師の閉ざされた墓の前に立っている。96日の事である。病根を抱えながら、驚くべき精力を持って病に勝ち、丸12年の間、次第に彼を奪いつつあった死と戦いながら宣教に従事した。彼は信心の業も、司祭の務めも、愛の業も決して絶やさず、最後にその武器を返す事が必要となった時に、彼が良き戦いを勇気を持って戦った事を皆が認めた。彼が裁きの主の前に恐れる事なく出ることが出来るだろう。

 

この試練の2カ月前に、同じく痛ましい事故が起こった。現地の司祭たちの引退に伴い、新たに山口、田川の両師が長崎から、鹿児島に行く小さな蒸気船で出発した。船が出港した時に台風に襲われた。激しい嵐と、荒れる海の中で必死に戦ったが、船は岩場にたたきつけられた。甑島から数尋しか離れていなかった。第一の打撃で船は壊れたが、6人の乗員時に乗客1人だけは無事だった。この事故は大島の若い小教区にとって実に打撃であった。2人は敬虔で熱心さの溢れた司祭で、この地区で15カ月の司牧をしていた。彼らは人々にも知られ、尊敬され、愛されていた。特にかなり良く住民の方言を話し、短い時間にもかかわらず、相当な数の回宗者を得た。(特に山口師は)。主は別な形でお計らいになる。聖なる御意志のままに。家族の御父の畑の畝を耕す宣教師たちを任命する時にあたって、私は尊敬する諸師に新しい使徒的奉仕者を派遣されたことに感謝している。

 

2人が日本の南の小さな共同体に来ることを私たちも期待している。この応援によって、仕事が発展し、より豊かな実りが結ばれることを期待している。この人たちの増援は老練な宣教師に力を与え、他の者にその仕事を譲ろうとしない力を与えるであろう。何故ならば、前から日本では他の所と同様、次のように言われといる。Messis quidem multa operarii pauci! (収穫は多いが、働き手はすくない)。何はともあれ、貴方方が厳しい我々のこの任務に、毎年、常に好意ある関心を持っていてくれる事は幸いであり、その励ましに感謝している。長崎の古い教会は常に多くの目的を持っている。それは、まず、司教座聖堂としての名称には何も付加出来ない慎ましさがある。ここは又、外国人居留民の小教区教会として、日本人の宗教的行事の一部分として、また神学校、伝道師学校にも使用されている。この教会の管理についてはお互いに迷惑をかけないように努めているが、いつもうまくいっているとは限らない。

 

信者が最も多い五島の島々の地区はペルー師が責任者として司牧している。統計によれば9,789の信者がいる。教会奉仕を助けるために4人の司祭、内3人は邦人である。年の告解の秘跡や信心業の他に、病人訪問、400人の子供たちの初聖体の準備等があるペルー師には又、二つの建築中の教会を見、結構、気苦労が少なくなかった。このような仕事は信者や宣教師に犠牲を課するものとは知らないから。信者たちの他にこの地区の田舎には「離れ」も相当に多く、ペルー師の言葉によれば、司牧の残りの時間を彼らのために使い、再帰のために出来るだけの策を示している。しかし、成人の洗礼の数は五島全体としては芳しくない。臨終洗礼を含めて39人だけである。上五島の「離れ」たちはなにも聞こうとはしない。裕福な彼らは生活の貧しさの為に宗教のことなどに捧げる一時も見られない。奈留島(aru-jima)では私が派遣した伝道師の勧めを喜んで受け入れ、二人の娘たちが勉強して間もなく洗礼を受けることになった。下五島で私が2年前から始めた仕事を続けたいと思っている。ここに一人の神学生が与えられたからであるが、一人の伝道師も持たずには計画をたてることもできない。

 

「聖霊がどこにでも働く」つまり我々の努力が成功しなくとも、他の所で当てにしていなかった幾らかの霊魂を得ることが出来たのである。この7月に地区の中であまり重要なことではないが、時の問題であり、記すべき事が起きた。それは支那と日本の戦いで戦死した兵士の遺骨が日本に帰国したのである。この尊い遺骨は家族の手に戻った。これを機会に政府は戦死した全兵士のために荘重な葬儀を行うように命じた。学校の協力、官公庁、市町村議員らの参加の内に立派に葬儀を行うように。このことは、人々の勇敢なる子弟として多くの下級の普通の兵士にとっても夢にも見なかったことであろう。この問題の中で、我々にとって興味があることは、カトリックに関係することである。

 

異教徒の当局は宣教師たちにも葬儀をするように持ち掛け、依頼してきた。勿論、司祭たちはこの素晴らしい申し出を喜んで引き受け、出来る限り荘重な儀式を行うように準備をした。水ノ浦では3人の宣教師と3人の邦人司祭が「Requiem(追悼)」のミサを捧げるために集まり、町の殆どの有力者も列席し、教会の典礼の儀式に従い、又、遺骨の納骨式にも立ち会った。私は我々の信者がどれほど誇りに思ったか、又、彼らがキリスト信者として理解されず、侮辱された長かった年月を忘れて、参列者たちを親切にもてなしたかを考えて頂きたい。

 
 

1896年 長 崎

カトリック人口………………………… 33,701

成人洗礼…………………………………   400

異教徒の子供の洗礼……………………   260

 

クーザン司教の報告:

私が、長崎の宣教の報告を担当する栄誉を頂いて以来、今年のように、色々な種類の天災を免れた年はかつてなかったと思う。普通は私たちは、それらによって第一に、そして大きな負担を負わねばならないのだが、今年は大した伝染病もなく他の地方を荒らした台風や地震、洪水などの被害も受けず、いたるところ平均以上の作物の収穫があった。御摂理のこの特別な御保護に対して私たちは大いに感謝を捧げねばならない。私たちの霊的な収穫も同じように、今までよりもずっとよかったと付け加えることができれば幸せなのだが、その慰めは得られないようである。なぜなら、成人洗礼の数からだけ見れば今までの年よりも劣っているからである。

しかし、すべてを考え合わせて見れば、カトリック信者の数は、正常な発展をし、去年よりも1,000人と少しばかり増えている。人間の自然性には付き物の弱さにもかかわらず、宣教師たちは一般に信者たち、特に旧信者たちを活気付けている信仰の精神を褒めている。司祭たちの数が増えていくにしたがって、活動の中心が増えて行き、それが熱心な要求になって現れて、それに応える福音の働き手たちを喜ばせている。宣教師たちの活動が専ら異教徒たちの回宗だけに限られている地区では、ほとんどないほど、この国は、外国人を出来る限り排除して自分たちだけでやって行こうとしているようである。他の国と競争できるような工業や商業を起こし、未来には、彼らと、戦場においてさえ同列になろうとしている。今のところ日本人の頭が占めているのはこれがすべてで、宗教的な問題のためには全然場所が残っていない。

しかし、そういうことは、私たちの宣教において、宣教師たちや信者たちがカトリック教の存在とバイタリティーの否み得ない証拠をすべての人々に示そうとする努力を阻むものではなかった。今までこれ程沢山の教会が方々に一度に建つのを見たことは決してない。教区の殆どすべての点に於ける最盛期の真の開花のようである。要するに、この過ぎた一年間に南日本における神の御働きは益々増して来て、私たちは、絶えず溢れるほどに注がれる祝福に対して御摂理に深い感謝を捧げねばならない。神の次には、祈りと寄付によって私たちを助け、私たちに少しでも善をする慰めを与えて下さった恩人方に感謝したい。私たちは決して彼らのことを忘れず、その御意向のために、一日でもミサを捧げない日はない。さて、これからこの地区の事業や仕事についてもっと細かくはっきりとお知らせするために私が受け取った宣教師たちの個別的な報告の抜粋を述べることを許していただきたい。

 

五島の司牧に任されているペルー師の報告:

「五島諸島が含まれている地区では、大体60,000の人口に対してカトリック信者は9,973である。昨年度には、洗礼数541のうち、異教徒の成人63、他のキリスト教派の回宗5、その他異教徒の子供たち60、信者を親に持つ子供たち413だった。年の赦しの秘跡:5,600、復活の聖体拝領:4,900、信心の聖体拝領:10,000以上に達し、その他に、415の成人と子供が堅信を受けた。3ケ所の聖堂と2ケ所の墓地の祝別も行なわれた。7ケ所の聖堂、又は小聖堂には十字架の道行きが設置され、6ケ所の別々の信者団では、信者たちが自分たちの村の聖堂建築のための基金を練り出す工夫をしている。また、他の人々は、十字架の陰の憩いの場(お墓?)を準備している。

 

至る所で、キリスト教的生活は霊魂たちを活気づけるだけでなく、白日の下にますます発展し、将来私たちの労働の実りを刈り取るであろう人々に、より豊な刈り入れを準備していることを希望出来るであろう。長い間、殉教者たちの子孫たちをのけ者扱いにする権利があると思っていた人たちに対して、私たちの聖なる宗教が外面的な形によって日本に市民権を確立する必要がある。ところで、私たちは毎年、何歩か前進しており、神の摂理は、信者たちの上に目に見えないかたちで注がれる地上的な祝福によっても、私たちへの援助を続けておられる。実際に異教徒たちや、特に離れてしまった信者があらゆる努力にもかかわらず貧困になって行くのに反して、我らの信者たちは至る所で、悲惨な状態から抜け出ている。

 

村々の相対的なゆとりが、まるで彼らが宗教的義務を果たす信仰と忠実さの尺度計のようだとも言えるほどである。私は確信しているのだが、そういう事実が、異教徒たちに昔からの偏見を捨てさせるために大いに役立つことであろう。多分もう彼らに近づくのに成功する見通しは遠くはないようである。まだ私たちが足を踏み入れていない県庁所在地に居を占める時が来ているのではないかと思われる。そこには確かに、すでに、私たちの宗教に好意を持って、受け入れ準備が出来ている人々がいるに違いないから。それに、すぐにでも多くの回心者が出る希望があるのではないだろうか? 私たちが正式に中心地に住むということは、迫害の時代が帰って来るのではないかということを、多少とも気づかっている離れた信者たちに最後の恐れを無くさせるのに役立つのではないかと思う」。



  
   
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