第3代 クザン司教

 

1897年 長 崎

カトリック人口………………………… 34,749

成人の洗礼………………………………   396

異端者の回宗……………………………    1

異教徒の子供の洗礼……………………   285

 

我々は、この宣教区の報告をごく最近、長崎市内の中町小教区で行なわれた記念行事をすべて詳しく報じるために、クーザン司教が書かれたページをそのまま書き写すことから始めようと思う。さて、閣下は次のように書いておられる。「最近、一つの注目すべき出来事があった。その結果は、この小さい信者共同体の限界をはるかにこえるものだということを、万事において希望させる。それはすなわち、司教座聖堂の26人の保護者、殉教者の300年祭を挙行するため、摂理が、聖なる山の麓に建てることを許された美しい教会堂の荘厳な竣工式あるいは祝別式のことである。式は189798日に行なわれた。

 

この祝いが、私たちにとって消すことのできない思い出となるようにするため役立つものは何一つ欠けていなかった。まず第一に、東京と大阪の司教がそれぞれの総代理と数名の宣教師とともに、参列されたことをあげなければならない。このようにしてこの祭儀は、それがもつべき性格をもち、長崎の「殉教者の山」(モンマルトル)を永久に光輝あるものとした、数多くの殉教者たちの栄光のため、日本カトリックの示威行事となった。かつては全くキリスト教であったこの町が、その往時の最も美しい日にさえ、一つの儀式のため、これほど多数の聖職者が集まったのを見たかどうか私は知らない。

 

輝く太陽のもとに新聖堂のまわりをめぐり歩く行列には、神学生たちを合せて60人以上の法衣の聖職者がおり、最も遠隔の地から来た信者共同体の代表者たちが囲いの中を満たしていた。彼らはそこにひざまずき、潜心していたが、その顔には心に満ち溢れる喜びが輝いていた。彼らは3,000人以上であった。そして、多くの者は教会の中には入ることがゆるされないだろうとの恐れで、足止めされていた。事実、彼らは招待券持参でないと中に入れないことを知っていたのである。自由に使用できる券はすべてなんらかの名目で権利のある人々の間に前もって分配されていた。教会は、私たちがまだ所有することも、居住することも許さない日本町の真ん中に建てられているので、誰の感情をも傷つけないため、ヨーロッパ人はだれも招待しない方が賢明と思われた。フランス領事とスペイン領事が何人かの人と一緒に来たが、正装せず、ただ友人として出席した。

 

これに反して、小教区担当の日本人司祭は自分の名で種々の役所のすべての主だった官吏を招待した。神のお恵みで、大成功であった。県庁、控訴院、裁判所、市役所、県会、警察署、税関等のすべての当局者が、儀式に出席していた。我らの信徒たちにとって、それは真の勝利であった。彼らは、それを隠そうとはしなかったし、彼らと同じように思っていた私たちにとってもまた、そうであった。それで、我らの信徒たちは初めて新しい教会の中に入ったとき、天国に入る思いがしたが、至聖所のまわりのすべての特定席が、政府の官吏たちによって占められているのを見ては、尚更驚いた。カトリックが30年前には、迫害されていたこの町、そして、昨日までまだ公式には知られていなかったここで、市民権を獲得したのだろうか! 事実、次の日には新聞が儀式の詳細をすばらしいことばで報道し、工事中ずっといっこうに好意的でなかった町の住民たちも、祝別式の日以来、ほとんど我らの友人になった。どうか殉教者の聖母が彼らをもう一歩進ませて、すっかり回心させて下さるように!」。

 

佐世保は、報告書に初めて現れる小さい地区である。これは平戸から分けられた地区で、平戸は多数の信徒がそれぞれ異なった沿岸に散らばっているため、一貫した指導のために管理をあまりにも複雑にしてしまっていた。現在、750人の信徒を数え、3月に地区として形成されて以来、12の大人の洗礼があった。地区の担当者、ヨハネ片岡師の通常の居住地は軍港で、九州の鎮守府、佐世保である。そこで起工された尨大な工事と、必需品を仕入れる多数の乗組員のため、あらゆる方面から労働者や小売商がなだれ込んで来ている。我らの信徒の大分は、たやすく金儲けができることを希望して、そこに引かれて来たのだが、宗教的助けは皆無の状態で、各自は前の地区に属すると言いはるのだが、事実上、どの地区にも属していない。子供たちは出生後ずっと後になってからでないと、洗礼を受けず、そして大人は、時として秘跡を受ける時間もなく死んでゆくというありさまである。結婚について話さない方がましである。

 

要するに、特にこれらの不幸な人々のため、新しい組み合わせが定められたのであって、直ちに彼らは宗教的状態に戻って来た。佐世保に大島及び黒島と平戸に面する本土にある信者共同体を併わせた。五島諸島は、今日では10,406の信徒を数える一つの地区を形成している。この地区は、ペルー師の指導のもとに6人の司祭によって管理されている。一年を通じて65の大人の洗礼と73の異教徒の子供の洗礼があった。ペルー師は、次のように書いている。「離れ」は、至るところでとは言えないが、少なくとも数ケ所で、好意的心構えを示し続けている。特に北部の「離れ」は、甚だ有望である。クラインピーター師は、彼らの間で授けることができた12の洗礼の上に、一つに新しい家族の回宗(改宗)の知らせをもたらしてくれた。もしも、この事業に、それが要求するだけの入念さをもってあたるなら、おもに、この部分において、非常に大きな結果を期待することができると私は思っている。

1898年 長 崎

カトリック人口………………………… 35,645

成人の洗礼………………………………   426

異教徒の子供の洗礼……………………   317

 

クーザン司教は、ご自分の宣教師や日本人司祭が、それぞれの地区において、良心の声によって、神が要求された苦労を一人の例外もなく支払ったことを認め、これらの使徒的働き手を紹介するまえに、彼らの報告が与えた印象を感動すべきことばで、我らに語っている。私は、どこにも勝利の楽隊のひびきわたるのを聞かなかったし、また、重労働の一日を終えて、自分たちの働きが百倍に報いられるだろうとの確信をもって帰ってくる農夫たちの、よろこばしい歌声も聞かなかった。私が聞いたのは、ほとんどどこででも、自分の行った善を全く忘れ、自分ができたかもしれない善に気をとられている人の嘆きの声である。これこそ、真の宣教師魂の声である。それに、倦怠や失望を感じさせるものは何もない。収穫は期待していたもの、約束していたもの全部は与えなかった。穀物倉はいっぱいではない。休息し、たのしむ時はまだ来なかった。新たな熱意と、今までに倍する信頼をこめて、再び仕事にとりかかろう。というのも、我らに種を蒔き、水をそそぐことを命じ、あとはご自分でして下さるお方により多く祈るのだから。

 

このようにしてこそ、人は天の祝福を期待する権利がある。この祝福は、この最近の年間に、過去における異常に不足したわけではなく、これについて我らは、すべての完全な賜物の与え主に限りない感謝をささげなければならない。あなたも、もうずっと前からご承知の日本における使徒的役務が、戦わなければならない特別の困難にもかかわらず、また、多くの宣教師や日本人司祭の仕事を絶滅させてしまわないまでも、著しい障害となった病気にもかかわらず、教勢調査表の数字は、普通の年の数字を多く超えないとはいえ、ほとんど至るところで、少しばかりの進歩を示している。年のゆるしの秘跡と復活祭の、まだ信心の聖体拝領は、かつて見なかったほど数多く、弱さや無知、あるいは欲情がしばらくの間、秘跡から遠ざけている数名の不幸な人々を見る悲しみを、可能なかぎり和らげてくれる。司教区で授けられた洗礼の合計は、2,035、すなわち大人426そのうち135は臨終洗礼、異教徒の子供317、信徒の子供1,292である。ペルー師が、二人のヨーロッパ人同僚と二人の日本人司祭の協力をえて管理している五島の大地区は、現在10,500の信徒をかかえ、彼らのための宗教奉仕は、25の教会または小聖堂と20の祈祷所で行なわれている。

 

ある地方では、まだかなり多くの「離れ」が見出されるが、大部分はすでに、カトリックの真理を信じている家族と縁組している。彼らを連れ戻す希望は、すっかり失われているわけではない。彼ら自身もいつかは、宣教師たちによって説かれている宗教に戻るべきだと認めているペルー師は、こう書いている。「数年前から巡回している地区うちの一人は、最近、私が彼の村にゆくと聞いて、私と同時にそこにゆくために、休暇をとった。彼は皆を集め、「離れ」はたしかに自分たちの先祖の宗教であるこの宗教に、もう時を移さず、入るはずだと宣言するのをはばからなかった」と。異教徒たちも、もう以前ほど逆らわなくなった。宣教師が出会う、あるいは宣教師に会いに来る者たちは、キリスト信者と彼らの奉じる宗教を必ず褒める。それは、この人々はカトリックの教義を少なくとも、あらまし知らないわけではないのだから。

 

今のところ、私が恐れるのは、プロテスタントが来ることだとペルー師は言う。「これまで、彼らは、我らの島を軽蔑するという良い趣味をもっていた。しかし、外国に国を開く時期に、彼らの一人が来島すると知らせて来た。誤った教えの毒麦をまきにくるのは、一人だけではなさそうだ。それは、異教徒たちのうちに、また、すでにあまりにも新しいことを好んでいる我らの若い信徒たちが、宗教的無関心を生じさせることだろう」。この興味深い地区を去る前に、教勢表から次の数字を抽き出してみよう。洗礼529そのうち大人47、異教徒の子供58、年のゆるしの秘跡5,489、信心の聖体拝領11,829、婚姻112、病者の塗油73。聖児童福祉会は、生徒のうち12人を信徒の家族に養子にしてもらった。52人は、洗礼を受けてすぐ、神の子羊に感謝するために、すでに天国に行った。

 

1899年 日本宣教師団

 

 日いずる国に新時代が始まったところである。新体制が布かれて我々の宣教がこれ迄服していたそれにとって替わったからである。この出来事を語らないわけにはゆかない様に思えたので、司教たちがこれについて書いた事をここに述べ、各教区個別の報告書の中で繰り返す必要が全くないようにしようと思う。1854年とそれ以後に、日本とキリスト教列強との間で結ばれた諸条約は外国人が日本の裁判権に服することをいささかも承諾しておらず、彼ら外国人は各国領事館の管轄下にあった。

 

この様な条項は日本帝国の誇りをいたく傷つけていた。であるから、1868年この方、日本はこの条項を廃止させるために条約改正に漕ぎ付けようと絶えず努力をして来たのである。主にこの目的のために、日本は西欧の方式を取り入れて軍隊、船舶、行政内閣、学校、裁判所、法律を次々と組織立てて来たのである。アメリカと西欧の列強はこうした展開を歓迎した。すでに1894年から1896年の間に締結された新条約によって、上記の国々は日本を文化国家の一員として受け入れるつもりであった。今日、この受け入れが名実共に現実のものとなったのである。新条約はある数か国とは1889717日、他のすべての国々とは84日から発効された。

 

もう、これから日本は完全に開かれた国である。通行証の時代は終わった。外国人、宣教師、商人、観光客は自由に歩き回り、どこでも好きな所に住むことが出来るのだ。しかし、その反面領事裁判所が廃止されたので、彼らは日本の法律と統治権に服することになる。布教の観点から言ってこれら一連の動きは最終的にどの様な結果に終わるのだろうかというのは――1885年の報告の中ですでに述べた様に――ヨーロッパのどの民族に於いても、文明は自然の開花として、キリスト教導入に至ったということを歴史が語っているからである。ところが同じ歴史的な裏付けがないので、根とも基礎ともなっている宗教を抜きにしたヨーロッパ文明を、ある国が取り入れた場合どういう事が生じるのか、我々は推測する事が出来ない。

 
 

1899年 長 崎

カトリック人口………………………… 36,117

成人洗礼…………………………………   478

異端からの回宗…………………………    1

異教徒の子供の洗礼……………………   276

 

 2年前クーザン司教は日本26聖殉教者の三百年祭を祝う為、長崎の町の中心にある中町に建立された教会の荘厳祝別式の際に行なわれた素晴らしい式典の模様を伝えて来た。それ迄この教会堂には何かが不足していて鐘楼は押し黙ったままであった。幸いにして今はそうではない。その事を司教からの報告の次の数行が我々に語ってくれる。中町はまだ目立たない小教区にすぎないが大聖堂のある小教区はもっと遠い。そこには信者のグループが二つある。日本人信者のそれと外人のそれとである。先のグループは深堀師の指導に委ねられていて成人11人のささやかな成果を挙げた。

 

外人の方を担当しているサルモン師には、宣教師の喜びであるこうした幾人ずつかの洗礼の働きに報われるということは普通にはない。それでも、今年彼の報告の中には23人の洗礼者が記されている。しかし、クーザン司教は注記している。この成果は一部マリア会士の学校に、他はショファイユの幼きイエズス会の修道女たちの奇宿舎のお陰で得たものであると。丁度ここに二つの学校の名があがったので長崎の司教がその年次報告の中で彼らについて述べている所をここに記すのが最も適当であろう。「18989月の始めに私はマリア会士の新校舎とショファイユの幼きイエズス会のそれとを祝別するという大いなる喜びを得た。神にあって又神の為に、この男女の教育者たちが神なる主に栄光を帰そうとの熱意から望んでいるあらゆる成功を収めることが出来るようにと希望した。この初年度の成果は期待をはるかに上回るものだった。マリア会士の学校は175人の生徒を受け入れた。その中20人程の志願者を含む40人が寄宿生であった。

 

日本人だけで110人に及び、他にあらゆる国語、民族、国の者がいると言える程である。修道女の所では、特に外国人子女にあてられた寄宿学校に76人の生徒がおり、その内18人が寄宿生である。208人の日本人生徒が小学校に通って来ているが、この学級はこの生徒たちの為に、修道院の建物の中に、国家の教科内容に添って作られたものである。教育にあたっているのは邦人修道女、修連女たちである。これらの全生徒中、寄宿生、通学生含めて、カトリック信者は40人だけであった。他の生徒たちについて私は惜しみなく与えられた母性的配慮と、日々の良き模範と当然もたらす良い影響を全く受けない者は一人もないようにと希望している。こういう思いでは彼女らの全生涯を照らし、多分、終には救いの道に迄導くものである。聖ベルナルド病院は、その病院経営をやはり修道女たちが担当しているが、43人の病人を受け入れた。長い間宗教の実践を忘れ去っていた幾人かのカトリック信者が、ここへ入院することによって再び実践するようになった。

 

誰もがここで感心するのは信仰の結実に他ならない献身である。次の文章をもって司教座の町に関する事柄を終わるとしよう。神学校と伝道師学校はいつものように人々から受けている尊敬に相応しいものであった。両校共、生徒数は昨年よりも少し下回った。それは、ひとえに我々の財政状態から止むなく取らざるを得なかった方針のためで、新入生を4年毎にしか受け入れないことにしたからである。18992月の5人の新司祭の叙階のお陰で、これ迄残念乍ら布教が充分出来なかったいくつかの拠点が援助された」。浦上のキリスト信者人口は5,800で、この一年に、315人の洗礼が有り、その内128人の子供が臨終の洗礼を受けた。最後に挙げたこの数字を説明する為にクーザン司教は死んだこの子供たちは浦上生まれではなく、他所から、しかも時にはかなり遠隔の地から孤児院に連れて来られた子供たちで、彼らはそこで肉体の生命を生き長らえることは出来なかったとしても、少なくとも霊魂の生命を見出したのだと特記している。

 

フレノー師がこの大切な共同体を指導している。この共同体には信仰のために投獄されたり、流刑を受けたりしなければならなかった信者がかなり大勢いる。この信仰の証人の一人が今年帰天した。約11,000の信者と15の教会又は布教所で、この人々の司牧にあたる7人の司祭。これにカトリックの五島列島の五島地区のすべてが含まれている。司牧の表には今年の数として、洗礼総数503、内成人50、異教徒の子供55と記入されている。18994月のある日、この列島の人々は真珠の湾、玉の浦へ喜びにあふれて、どっと漕ぎ出した。4年前から「どうみてもマッサビエルの洞窟を思わせる」地形の所に、ルルドの聖母の教会が出来ているペルー師と彼の教区民たちはこれをもっと似せたいと思っていたがこの孝愛の溢れである夢を見事に実現させたのである。彼らは洞窟を作り、御像を置き、泉をつくった。この列島の共同体の奉納者の祝別の為に一番遠い村々からさえも信者たちが集まって来たのである。地区の司祭たちも司教を囲んでそこに来ていた。司教は素晴らしい教皇ミサが済んでから、静に跪いている群衆の真ん中で洞窟の荘厳な祝別を行った。そのあと、この忘れ難い祝いの日は一日中、まことに無原罪の聖母を賛えての賛美の大合唱となった。聖母は確かにこの敬虔な人々の上に特別の恵みを注いで下さったに違いなく、又これからもそうして下さるであろう。

 
 

1900年 長 崎

カトリック人口………………………… 37,101

成人洗礼…………………………………   432

異教徒の子供の洗礼……………………   320

 

 クーザン司教は次のように書いている。

我らのカトリック信者の数は、最近の調査によると37,101にのぼる。つまり、およそ、1,000の新信徒が旧信徒に加わったわけである。復活祭の20,000近い聖体拝領と40,000の信心の聖体拝領とは、我らの信徒たちの大部分において、信仰が生き生きしていることを証明している。一般に彼らは主要な義務を正確に果たし、特に旧信者共同体において、単なる信心の実践にも熱心さを示している。432にのぼる大人の洗礼は、旧地区においても、他の所と同様、あちこちで拾い集められた。これらの432の洗礼をもたらした状況を語ろうとすれば、そのたびに外見上はいつも同じでも、摂理が善意の人々を導くために用いる方法が、種々様々であるように変化に富む話がくり返すことになろう。

 

しかしながら、私が目の前にしている種々の報告書の中から、恩恵のあわれみ深い扶けが、いっそう感嘆に価する仕方で表れていると思われるいくつかの事実を拾い上げることを許していただきたい。彼らが毎年、いくつかの大人の洗礼を収穫する慰めをえられるもう一つの働きの場は「離れ」あるいは旧信徒の子孫のいろいろのグループから成り立っている。彼らは教えを守っている信徒たちに混じって、生活しているかまたは、その近隣に生活している。彼らの間には一般の親戚関係または共通の家柄という関わりがあって、異教徒たちは彼らを混同する。事実、宗教の主要な事にふれないすべてについて、彼らは一つに団結している。

 

外面的に時として、彼らの実践のうちには、ごくわずかの違いしかないので、人々は、なぜこの人は神のごくそば近く、教会の中におり、あの人は外にとどまっているのかと自問するようになる。多くの宣教師たちが嘆く不幸とは、我らのカトリック信者たちが、こういう状態に慣れてしまって、あまりにもたやすくそれと妥協してしまうことである。頑固さによるよりも無自覚のために、まわりをさまよい続けている羊たちが、よい牧者の檻にまで引き寄せられ導かれるために、少しばかり腰をあげることを承諾する人々は実に稀である。五島の大きな地区においてペルー師は、こういう困難に直面しており、そこに救済の手をうつ方法をさがしている。

 

彼はこう書いている。「『離れ』の回宗のため、真に評価できるようなことをまだ何もすることができないので、私は道を準備することに従事した。そして、閣下がお許して下さったように、一つの祈禱所を開設した。霊的建物もこれに続くと私は希望している。費用が予想を上回ったとしても、望んだ結果がえられるなら、私はこれを後悔しないだろう。私は『離れ』のセンターの各々を同様にしたいと思う。それは将来のための希望の保証となるだろう。これらの主なセンターの一つは、ご承知のように奈留島で、ここでは今年、6人の洗礼があった。これは、この島でのもっと多くの回宗の前印だと私は信頼している。なぜなら、結果はごくわずかでも、それはルルドの聖母のおかげなのだから。30才ほどの婦人が病気で、医者から見放され、悲しみに沈んだ家族の者たちは、もう終わりが近いと予想していた。その時、一人の伝道婦が病人にルルドの水を飲ませることを勧めた。家族は承諾し、彼女がいやされたら回宗すると約束した。翌日、聖母は健康を返して下さったと同時に、喜びも人々の心に戻り、恵みが人々の霊魂のうちに入り、奇蹟的にいやされた者と全家族の者との霊的再生を準備した。私はちょうど今日、他の一族が、キリスト者だと宣言しに来たということを聞いた。聖母のあわれみは限りを知らない。私は人々の霊魂を再生させるために、聖母が玉の浦の洞窟を造る考えを起こさせて下さったのだと、ますます希望をかけている。そこへの道は、巡礼者たちがもう知り始めている」。

 

1901年 長 崎

カトリック人口………………………… 38,169

成人の洗礼………………………………   442

異教からの回宗…………………………    1

異教徒の子供の洗礼……………………   353

 

 長崎の司教閣下が我々にあてられた非常に興味深いこの報告の中で、特に目立った印象は次の二句に尽きる。職務は普通の条件のもとに行われたが、結果は宣教師たちが望んでいた程大きな慰めではなかった。我々の親愛なる同僚たちの熱心さが冷めたのか、又は我々の聖なる教えが長崎では領地を失ったのか? いいえそうではない。何故ならカトリック人口は増え、新しい事業は既にあるものに付け加えられている。その上、年の告白の数は50,000を数えている。成人の洗礼は442、異教徒の幼児の臨終洗礼は353。これらの数字は、長崎の宣教師たちが最近の活動で活発でなかったとは言えない証拠である。そして、もし彼らの希望が総て適えられなかったとしても、聖主イエス・キリストのみ国の発展のために力に応じて働いたという証拠になるであろう。五島の地区では102の成人の再生があった。そこでは殆ど例外なく、離れた旧キリスト信者の子孫に対する司祭、伝道師の熱意が効を奏した。受洗者たちは羊の小屋に戻った迷える羊であった。

 

家庭に戻った迷える子供たちではあるが、伝統に従うのに何の障害もない。この102の数の中で死亡は13のみである。1900年から1901年にかけて長崎及びその周辺に駐在している宣教師の思いでの中には特別な情景が残るだろう。支那に起きた事変の年だからである。教会の懐に戻った相当数の「離れ」に付け加えてペルー師はある島の土着の異教徒の真の回心について記している。それまで、この島ではキリスト信者は侮辱され悪口を言われるだけであった。ヨゼフ前田梅太郎は25才の大工で数回、信者の家で働く機会を持った。彼は幸いにも彼らの生活状態や彼らの模範的行いに感動し、聖寵の助けもあり、彼は教えを受け入れようと決心した。しかし、大問題が起こった。島の住民、両親、妻らが彼の敬虔な計画を実行させまいと反対し、彼も争いは大変なものだと理解した。彼の決心は堅く、その家族に信者になると告げた。

 

忠告、脅迫、妻から見捨てられ、一人子も取られたが、それでも何も彼の決心をゆるがすことは出来なかった。ある日、彼は仲間から殴られた。仲間は彼が宣教師に買収されたと信じ、その上で、彼が受けるだろう金を取ろうと要求した。彼らは彼の回心の賠償としてそれを考えた。しかし、彼は少しも反対者に恨みを抱かなかった。現在、彼は父の家から追われ、妻も子供も見ることが出来ず、彼らが帰ることを望むことも出来ない。これらの総てのことも彼の洗礼を望むことの妨げにならなかった。神に信頼して彼はこの島を去ることを決心した。その後、彼は貧しい生活をし、その模範となって勤勉さをもって救いの道へと導いた。種々の動揺があったにもかかわらず、彼は堅固に持し、六島、小値賀の異教徒の前でカトリックの教えを力強く守った。



  
   
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