第3代 クザン司教

 
 

1902年 長 崎

カトリック人口………………………… 39,095

成人洗礼…………………………………   578

異端からの回宗…………………………    1

異教徒の子供の洗礼……………………   626

 

フェリエ師と助け手たちの仕事について次のように報告している。「大島の北東にある手花部で中村師が32人の成人に洗礼を授けた。1月に、彼は大きな赤木名村の福音宣教を始めた。ここは多くを期待させてくれている。この村が回心するなら島のこの部分全域に良い影響を及ぼすだろう。ところが! 彼は病気のためにその熱意に足枷をはめられてしまったのだ。三か月の休養を命ぜられたので、救道者たちの洗礼準備をこの年度末までに終わらせることが出来なかった。それでも布教の仕事はずっとうまく進んでいるので来年は多くの受洗者があることだろう。いまだに、長崎の宣教地区には多くの「離れ」が残っている。宣教師たちはこの人々を古い習慣から抜け出させて、教会の今の規律を受け入れさせようと努力している。毎年、宣教師たちはこの気の毒な「離れ」たちの中から幾人かを神に立ち帰らせる幸いを得ている。クーザン司教の報告にはその数が五島地区で38人、浦上で36人、伊王島で32人、天草で25人と記されている。ブルトン師は続ける。「今年の黒島の祝祭は初聖体の日でも、堅信の日でもなかった。この一番の大きな日、待ちに待った日、思い出として残るであろう日は我々の新聖堂の祝別の日であった。『黒い島』を飾るこの教会は我々の信者たちの信仰のしるしである。5年この方ずっと、浜から種々の材料を運び込み、レンガを造り、建物の場所を平らにし一言で言えば、異教徒の感嘆の的、新信者たちの当然の誇りであるこの建物を建てるためにどれ程の汗と苦労が払われたことであろう。実際、マルマン師の功績をそのまま認めたとしても、この教会は信者たちのもの、彼らの信心と寛大さと、更に彼らが生活を切り詰めたことの実りである。であるから司教様、あなたを迎える彼らはどれ程喜んだことか。2年前あなたが礎石を祝別されたその聖所を見せ、終に荘厳な献堂式をもって今日はあなたからそれを頂くという喜び。彼らは全員、最後の一人までそこにいた。招きに応えないものは一人もなかった。そして、子供たちに囲まれた良き父親のように、司教は誰よりも幸せそうに見えた!」。クーザン司教はここに次の様に述べている。「黒島の宣教師はこの数年間、彼の教区民たちがその肩に責任を負わせた仕事を順調に運ぶために半分、建築技師、石工、大工の仕事をやっていた。しかし、彼の同僚で隣の教区にいるペルー師も又五島地区で同時に二つの建築現場を抱えていたので、この1年を仕方なく、土や石、レンガ、モルタルや材木等を運んで過ごしたのだった。彼は、新しい建物が祝別され教会となる日が近々やって来るので、それだけを待って、信者たちの司牧にかかろうと思っている」。当のペルー師はこう言っている。「にもかかわらず、私の助任たちの熱意と献身のお陰で、信者たちは秘跡にも、また聖年の免償にも与かれないという事はなかった」と。
 
 

1903年 長 崎

カトリック人口………………………… 40,028

成人洗礼…………………………………   552

異端者の回宗……………………………    1

異教徒の子供の洗礼……………………   633

 

レオ13世の御逝去にあたって、信徒たちが感じた悲しみについて、またピオ10世の選出のニュースに彼らが表した喜びについて語ったのち、クーザン司教はこう言い添えている。「この二つの機会に日本の新聞は毎朝、読者たちの目にローマのニュースを提供し、それに最も好意的な注釈も加えることを、自分たちの義務とした。これは異教徒たちにとって、真の新発見だった。彼らのうちの大部分は、カトリック教会とその頭が、世界の中で占める場所がいかに大きいかを見て驚嘆した」。司教は彼の宣教区におけるカトリックの数の漸進的増加を認めて、非常に喜んでおられる。今日では信徒数40,028で、15年前には25,000でしかなかった。クーザン司教は言っている。「1888年に現在の長崎司教区の地域に限られた南部日本は、はじめて、宣教会の仕事の一般報告の中に掲載された。当時、カトリック信徒は25,000人、宣教師が働いている宣教拠点は10ヶ所。そして、大分を除いて、他はすべて、昔の信者共同体のあったところに設けられていた。現在、これらの信者共同体は、彼らを管理する22人の司祭のため、かなり設備のよい40ばかりの住居を提供している。そして、司教区内のおもな異教徒の中心地で、28人の宣教師あるいは日本人司祭がいる住居は、二つ三つを除いて、宣教会の所有である」。15年前の我らの教会はほとんどすべては再建、あるいは修理され、その数は47から63に及んでいる。1888年に存在していた13の祈禱所には、40の祈祷所が加えられた。その他、この間にマリア会士たちは長崎に隆盛な施設を創立し、15人の修道士と5人の世俗の教師がいる。我らの5人のフランス人修道女は今、35人となり、5つの共同体にそれぞれ配属している。これらの貴重な協力者たちの奮発心のおかげで、宣教会は教育や福祉の施設をもつようになり、それらの奉仕は充分評価することはできないほどである。

 

最も目立つのは、一つの学院、一つの寄宿学校と一つの癩病院である。「このように設備が整ったからといって、我らは異教徒たちの間で、回心の奇跡を行なうようになるというのだろうか? 残念ながらそうはゆかない。我らは毎年、我らの網である程度の量の魚を捕ることで満足しなければならない。なぜなら、奇跡的漁は、摂理の直接の介入がないかぎり、日本ではいつでも稀なことであるから。ところで、誰にもこの種の介入を期待する資格はない」。洗礼の数を見るだけで、1902年から1903年にかけての結果は、前年のそれと著しく似ている。我らは後退しなかった。私はそれを認めて嬉しく思っている。現在の状況において、我らの地位を保ったという事実は非常に意味深い。それは司祭たちやその協力者たちが、不屈の献身をもって働いたことを証拠立てている。24,368の告解、21,516の年の聖体拝領と56,300の信心の聖体拝領は、牧者たちの奮発心、羊たちを生かしている信仰の精神を如実に証拠立てている。次にクーザン司教は、宣教会の各地でかちえた結果をあげている。最も豊かな収穫は、熊本で刈り取られ。コール師は、5人の司祭と修道女の三つの共同体に助けられて、144の大人の洗礼、166の異教徒の子供の洗礼を記録した。大島諸島で、83の大人の洗礼があり、そのうち12だけが臨終洗礼で、フェリエ師とその協力者である3人の日本人司祭は、大いに喜んでいる。数多くの島々に散在する12,000の信徒の忙殺的司牧にもかかわらず、五島地区の長ペルー師は、クラインピーター師とユゼー師と4人の協力者との助けをかりて、63人の大人と83人の異教徒の子供を再生させることができた。クーザン司教は次のように言う。一日の苦労と暑さとを寛大に耐え忍んだあげく、自分たちに受ける資格があると思っていた報酬を受けることができず、あきらめの嘆きをあげている人々がいる一方、自分たちの希望がほぼ満たされた人々の喜びの声も私は記さなければならない。

 

こういう反響は、特に司牧的訪問を受け、数多くの堅信が授けられた地区から私のもとに来る。それに、この年は堅信の年と呼ばれることができるだろう。なぜなら私は、1,700近くの堅信を授ける慰めを得たから。そのため、私は非常に広範囲にわたるいくつかの地区を経めぐらねばならなかったが、私の司祭たちや、信徒たちに触れて、私は非常に感心させられた。赤尾木の堅信を行なった翌日、私は同じ式を手花部で中村師のところで行なった。その家は清潔ではあったが、純粋な日本家屋だった。普通の時には充分なこの仮祈禱所も、司牧訪問の時期に、司教を見るために、近隣の村々から信徒たちがかけつけて来るときには、あまりにも狭かった。ひどく混雑で、司式者が祭壇で動くのもやっとのことだった。もちろん、私は私の教区の信者共同体の中で、儀式がゆったりとくり広げられる司教座聖堂の内陣を見出せないことには大いに慣れている。とはいえ、神のおかげで、我らの宣教所の大部分は、参列者とは区別された至聖所のある正式の教会を所有している。私は率直に告白するが、私は足の下に貧しいござを感じ、私の後ろにしゃがんでいる信徒たちにぶつからずには跪拝することもできず、頭を動かすたびに、私のミトラ(司教冠)が天井にさわる有様では、我らの新信徒たちは、初めて目撃する司教の役職について、どんな印象を受けて帰ってゆくのだろうかとある種の不安をもって自問せずにはいられない。神には御計画がある。

日本国民の眼前に、輝かしい盛大な祭式を示そうとされる時には、神のみ稜威にもう少しふさわしい聖堂を到るところに建立するのに必要な手段を我らに与えてくださることだろう。「我らの宗教のほんとうの反対者は、これからはもう仏教でも神道でもなく、むしろ、プロテスタンティズムや合理主義である。プロテスタントは、日本中に毒麦を蒔いている。熊本では数多くの熱心な説教師たちがいて、全力をあげて働いている。しかし、彼らには学校に通っている青年男女の信奉者はほとんどいない。これらの若者たちは、遊びや歌や、音楽や騒ぎや、英語の勉強に引かれている。全員こぞって改心(回心)した家族はまれであり、非常にまれである。そして、異端の信奉者たちは、神の存在について堅固な信仰をもっていないようだ。それで彼らに付く人々は非常に多くても、どれだけのプロテスタントがほんとうの信徒であるのか疑わしい」。クーザン司教は次のように結論している。「ごらんの通り、我らの情況は、今終わった年度の間、ほとんど同じようであって目立ってよくならなかったとしても、悪くなったわけでもない。我らの活動手段の不足のため、事業や施設の数は停滞状帯である。しかしながら、熊本、琵琶崎、八代の共同体が経営している無料診療所や要理教室は豊かな実を収穫した。八代では、すでに存在していた無料診療所に、小さな病院がつけ加えられた」。

 
 

1904年 長 崎

カトリック人口………………………… 41,458

成人洗礼…………………………………  1, 003

異端者の回宗……………………………    1

異教徒の子供の洗礼……………………   814

 

人々の精神を宗教的問題に興味をもたせるようにさせることは、日増しに不可能になってゆく。異教徒の世界に直接働きかけている使徒的に働く人たちの地区の、ほとんどすべての報告の主要な特徴であると、クーザン司教は書いている。互いに励まし合うために余り集まりを持っていないある信徒たちのところでは、キリスト教的生活の外的実践に関して、一種の不安さえ感じられる。彼らは、自分たちが他の人々より、愛国心に乏しいと思われているのを恐れているかのようだ。それも、理由のないことではない。なぜなら、日本ではカトリックと言えばフランス人だと思う。ところで、フランス人はロシア人と同盟している。結論は、自然に引き出される。それに、人々に悪感情を抱かせるために、仏僧やプロテスタントがいつもそこにいる。我らの信徒の中心地では、神の恵みによって信仰は弱まらず、熱心さも減少しなかった。しかし、多くの家族が戦わなければならない物質的困難は、信仰に深く根差したこれらの民衆の間に、聖役の行使と、キリスト教的生活の完全な開花を妨げないではいない。それはまず、すでに非常に重いと思われており、今後、さらに際限ない増加が恐れられている税金の問題である。税金を支払うため、我らの気の毒な人々は、今年あまりよくない、また、あるところでは悪い収穫しかなかった。この試練に、軍隊への召集を加えなければならない。ある場合には、老いた両親のための稼ぎ手が消えてゆき、ある場合には、若い家庭の父親が消えてゆく。その悲しみは察するにあまりあるが、それはできるだけ隠さなければならないのだ。

 

我らのカトリック信徒の中で、この方面で試練を受けた家庭は600以上にのぼる……。そして、その不在が家族にとって、すぐに極度の窮を生み出すことになるような人が、そして戻って来るのが見られない人々がどれほど多いことだろう!こうした不利な状況にもかかわらず、憐み深い摂理は、私たちの聖役が、過去何年かに比べて、祝福され、実り豊かだという点で、少しも劣らなかったことを認める喜びを我らに与えてくださった。私たちはこれに対して、ふさわしい感謝をすることは決してできないだろう。教勢調査表は、いずこでも宗教上の義務は忠実に果たされたこと、秘跡は、我らの信徒たちがいつも我らに示しているあの熱心さをもって受けられていることを証明している。その他、異教徒の大人や子供の洗礼は、かつてなかったほど数多かった。一人の日本人司祭ドミニコ・中村師は、笠利のごく近くの赤木名という村に一つの信徒共同体を創設した。3年の間、笠利の住民は赤木名の新しい回宗者たちのところで教えられていることと、実行されていることを注意深く調べた。そして、12月に彼らは司祭のもとに行き教えを説き、洗礼を授けるために自分たちのところにも来るように願った。中村師は、彼らの招きに応じ、数日間教え、聴衆のよい心構えを確かめてのち、応援を願うために私に手紙を書いてよこした。私は健康状態が悪かったにもかかわらず、このようにすばらしい収穫を約束している新しい畑で働くよう、ヨハネ片岡師とペトロ片岡師を送るため、知名瀬と浦上と大熊の宣教拠点を一手に引き受けることをためらわなかった。1月になるや、直ちに私の3人の協力者たちは勇ましく仕事に取り掛かった。

 

彼らには自由に頼める伝道師がなかったので、すべてを自分たちでしなければならなかった。一つの新しい宣教拠点を創設するために、自らに課さなければならない苦労や欠乏の表をここにかかげるまでもない。閣下は、初期がどれほどきついかよく知っておられる。我らの司祭たちは、感嘆すべき献身と自己放棄とをもってすべてを耐え忍んだ。それに彼らは、我らの洗礼志願者たちの堅忍によって支えられていたのである。昼間は老人や子供を教えた。夜9時から12時までは、日中働かなければならなかった人々の番だった。司祭の一人は、ある日、私にこのような聖役の疲労に耐えてゆくために必要な力は、教えを受けに来る人々自身から与えられていたと書いてきた。彼は私にこう言った。「教えにこれほど飢え渇いている人々を前にしては、疲れを感じたり、休息したりすることは不可能だ」と。ついに5か月か6か月の教えののち、すなわち5月と6月の間に、我らの勇敢な協力者たちは、434の洗礼を授けるという慰めを得た。我らの日本人司祭の他の一人、最近叙階された一番若い者も、臨終者の枕辺で感染した病気のため、7月に主において、敬虔に永眠した。彼は、五島地区のいくつかの地区を管轄していた。すぐれた知性と、深い敬虔に恵まれ、自分の身分上の義務を細心に守り、信徒たちの尊敬と愛情とを引き寄せていた。信徒たちは、末永くヨゼフ・道田師を惜しむことだろう。去ってゆく司祭たちに代わるはずの神学生たちといえば、戦争が我らに彼らを残していってくれるかどうか、私は恐れて自問している。戦場に二人いる。一人は数週間前、兵営で感染した病気で死んだ。兵役から決定的に解放されたと思われていたご降誕祭の我らの親愛なる副助祭の一人は、2月に入るとすぐ軍隊に呼び戻され、直ちに前線に送られた。731日に負傷して日本に帰って来たが、間もなく再出発することになっている。最後に、我らのラテン語課生の二人にも、いつ、軍の召集令がくるかわからない。「主よ、平和を与えたまえ!」

 
 

1905年 長 崎

カトリック人口………………………… 42,055

成人の洗礼………………………………   458

異端からの回宗…………………………    1

異教徒の子供の洗礼……………………   815

 

長崎の宣教地区では、昨年度の最初の3か月は、無原罪の御やどりの信仰個条宣言50周年を祝うために当てられた。信者たちには丁度米の収穫と麦の種蒔きで忙しい時であった。それでも、殆ど全員が全贖宥を得るために、熱心に告白と聖体拝領のために心の準備をし、宣教師たちの方も91011月を告解場で過ごしたのである。以上はメダイの美しい面である。その裏もある。ペルー師の信者たちが特に試みを受けたのだった。彼らのうち50人程度が難船で命を落とした。続けざまに3つの台風が五島列島を襲い、家々は倒壊し、収穫も全滅させられてしまった。この物質的な試練は、宣教地区のある部分にしか広がらなかったが、これに追い撃ちをかけたのが戦争であった。これによって、人も金も国の全資源も食い尽されてしまった。日本の勝利をより確実、かつ早期のものとするために、国内では親露派の人々に対抗せずにいられなかったのだろうか? こういう人は大体どこにでもいたので、宣教師たちは密かでありながら、注意深く監視の対象になっていた。それで彼らの回りには誰も寄りつかなかった。異教徒たちは誰でも、身を守ろうとすれば、フランス人司祭との関わりを一切持つことが出来なかった。これについて小倉の宣教師はこう言っている。「一年前から、一人の異教徒も私の所にやって来ず、一度も返礼訪問を受けなかった。私の毎日の生活は孤独のうちにそして良き日の訪れを待ちつつ過ぎていった」。このように好ましからざる情況にあって、成人洗礼のための仕事はいつものような成果を挙げられる筈もなかったが、それでも長崎の同僚たちは458人の成人洗礼を記帳出来たことを非常に幸いに思っている。

 
 

1906年 長 崎

カトリック人口………………………… 42,846

成人洗礼…………………………………   492

異端からの回宗…………………………    5

異教徒の子供の洗礼……………………   750

 

クーザン司教は次のように記している。

最近の活動は前回と同じようであった。我々の霊的収穫は通常の中程度であった。我々は492の洗礼を得たが、その内、臨終洗礼が245、異端からの回宗が5、信者の子供の洗礼が1,362、異教徒の子供の洗礼が750であった。最後の数字は1905年のものより少ないが、他の二つの数字は少し多かったが自慢するほどのものではない。結局、2,604の霊魂を洗礼によって生まれ変わらせた慰めを持つことが出来たのである。結果的に、もし我々がもっと我らの前に立ちはだかった障害と戦えたら、より良かったであろう。又、我々の意向に役立つ物質的な不足を越えることが出来たなら。古い小教区においては宣教師は通常、未信者の回宗のために真剣に働くためには余りにも小教区の司牧が忙し過ぎる。数々の報告の中で私の大きな楽しみと驚きは次のようなことである。宣教師たちによって勇敢な兵士たちの信心が良い証しとなっている。ペルー師の報告を見よう。13千人の信者のいるこの大きな地区の中に兵士たちの帰還は村と宣教師にとっては祝い事であり、彼らの信仰と宗教的義務を果たすのに熱心であることを認めることは幸いなことであった。軍隊生活の日々は彼らを変えなかった。戦場において彼らは身近に死を見つつ、彼らは常に自らを良き信者として表すことを忘れなかった。至る所で彼らの名誉のための宗教的祝いが計画され、彼らは復活祭の義務を感激に浸っている彼らの両親たちと司祭の前で果たした。戦士者のことも忘れられてはいなかった。方々の町村の役所では、戦死したキリスト信者の名誉ある兵士たちの葬儀を行うための先鞭をつけた。定められた日、町長が議員や学生たちと共に来て式に与かったが、これらの異教徒の行いは私からみても大変適当なものであったことを告白せざるを得ない。ここで私は五島地区の教勢報告の中での数字について書こう。洗礼の総数603、内45人は成人、97人は臨終の幼児たち、461人は信者の子供たちである。年の告白数7,555、復活祭の聖体拝領6,798、年の聖体拝領13,9617人の司祭がこの12,760の信者を数える地区の司牧を担っている。他に邦人修道女会(十字会)28の教会、18の祈禱所がある。
 
 

1907年 長 崎

カトリック人口………………………… 43,709

成人洗礼…………………………………   381

異教徒の子供の洗礼……………………   721

 

長崎の宣教区は、殉教者たちの子孫であるキリスト者の密度の濃いグループで形成されたすばらしい小教区について、正しい誇りをいだいている。これらの信徒たちが、我らの聖なる宗教のすべての規定を守る忠実さは、旧いキリスト教国の多くのカトリック信徒に、模範として与えることができる。神は、親たちが血で署名し、責苦の最中で宣言した信仰の報いを子供たちに与えておられる。これらの小教区を託された宣教師たちは、病者の見舞い、若者たちのキリスト教的養成、秘跡の授与などの日々の聖役に忙殺されている。ほとんどの時、過度の仕事のある一方、彼らは信徒たちが、自分たちの救霊のためにいだいている敬虔や奮発心を見て、甘美な慰めも見出している。彼らが悲しく思っているとすれば、それは異教徒たちの回宗のために、直接に働けないことだ。これらの大きな信徒共同体は、五島諸島とか長崎近郊にある。遠い地方は全く異教の世界で、ただ、方々に最近回宗した信徒のいくつかのグループが浮かび出ている。この福音宣教の聖役に献身している宣教師たちは、種蒔きをする人々である。彼らは涙のうちに種をまいて、喜びの歌を歌いながら、収穫の束をかかえて帰って来る日を待っている。しかしながら、神の摂理は大きな収穫の初穂を示して、すでに彼らに少しばかりの喜びを与えることも知っておられる。長崎のクーザン司教は、こう書いている。「カトリックの思いやりのある人たちが、これらの宣教師たちに向かって、気を落とすような、そしてほとんど信用できないといった調子で、彼らの使徒職の働きのもたらす結実はどんなものか、そして、こんな貧弱な結果のために、なぜこれほどの犠牲を払うのかと尋ねる時、彼らはグラシイ師とともに、我らの現状に当てはめるのに難しくないカナダの老宣教師の言葉を借りて、この当惑させる質問にこう答えるだろう。『フランスであろうとカナダであろうと、どこででも刈り入れる前に蒔かねばならない。摘み取る前には植えなければならない。貸すや否や、利子を要求する高利貸のように、そんなに短気であってはいけない。神への奉仕に支出と苦労しかないとしても、それ自体が我らの全能の神、万物の寛大な与え主に対する我らの義務と敬虔な意志の証しとして充分大きい報酬であり、給与である。……私としては、これらの民族がフランス人に対して抱いている信頼、尊敬、友情こそは大きな結実だと評価している。なぜなら、柱頭を掲げる前に、基礎を柱とをおかねばならない。そして、彼らを兄弟としてもつ前に、まず友とすることを知らねばならない』」。司教は続けて言う。「それで私は、聖フランシスコ・ザベリオが『私の心のたのしみ』と呼んでいた日本人の回宗をかちえるため、すべてこれらの寛大な人々に、物質的な慈善に加えて、祈りと犠牲によって、彼ら自身を与えてくださるようにあえてお願いする。それこそ、すべての善意のカトリック信徒が信仰弘布会の金庫に苦労せず入れることの出来る貴重なデナリオだ」。

 

7人の司祭――うち4人は日本人――が、ペルー師の指導のもとに13,000人以上のカトリック信徒の霊的必要に応じている五島の大地区の報告の中にも、大体同じ調子が現れている。至る所で大多数の者は、信仰に深くとどまっている。教勢調査表に記録された6,897の復活祭の聖体拝領、13,588の信心の聖体拝領がそれを証している。しかし、いくつかの地域では、厳格に宗教的義務を果たすため、過去におけるほど苦労しようとしない傾向があることも否めない。各々の村に、定期的秘跡授与のため宣教師が立ち寄る時、不在だった者たちは、この失われた機会のことをあまり気にしないように思える。この悪は、神のおかげで、まだそれほど広まっていず、深くもないが、それにしても心配な一面もある。というのも、この悪に感染していない人々から、かなりたやすく受け入れられているように見えるし、過去におけるほど、その周囲に非難を呼び起こさなくなっているから。ペルー師は、こういう事態をこれらの貧しい民衆の上にのしかかっている大きな重荷に帰している。民衆は年毎に増えてゆく税によって押しつぶされている。税務官庁を満足させるため、いかなる犠牲を払っても金を得なければならず、もう他の心配をもてなくなってしまう。ぜいたくは田舎の奥にまで入り込んで来る。新しい必要が求められる。それを満たすために、昔よりもっと金が要る。それを得るために、もっと働かなければならない。要するに、この世の事にもっと多くの時間を与えねばならず、それだけ、霊魂の善益のために与える時間は少なくなる。クーザン司教は、宣教区の事業一般をもっと発展させることができたらと望んでいる。必要な資金の不足は、彼のすべての望みを麻痺させてしまう。聖児童福祉会は、721人の臨終の子供に洗礼を授けた。この数字が、この貴重な花かごを作り成す花の一つ一つを摘み取るため苦労した人々のどれほどのたくみな奮発心、献身、犠牲を表しているかは、神だけがそのすべてを知っておられる。外国人修道女も日本人修道女も、宣教師たちとともに、神のみ心を大いに喜ばせるこの事業において、奮発心を競った。神学校は、資金が生徒数の増加を許すのを待ちながら、少数の生徒にとどめておかねばならない。
 
 

1908年 長 崎

カトリック人口………………………… 44,931

成人洗礼…………………………………   522

異教徒の子供の洗礼……………………   767

 

各地区の報告書によって提供された数字によると、長崎の宣教会は815日に、昨年より1,222人のカトリック信徒の増加を見る。この増加は、我らの平均数を著しく越えているので、それぞれの宣教所の管轄の詳細を述べる前にこれを指摘するのは、喜ばしいことだとクーザン司教は言う。「これについて我らは、すべての栄光を神に帰す。この慰めある結果は、信徒の子供の洗礼のいっそう著しい数になる。これらの洗礼は、宣教師たちが手の届くところ、通り道に見つける花のように、通りがかりに苦労もなく摘みとるものである。これらは、普通宣教師たちが第一に望み、最も喜ぶものではない。しかしながら、これこそその上に、一つは信徒共同体を、信頼をもって創設できる唯一の堅固な土台である……。ゆえに我らは、今年度中に、信徒の家族に属する1,656人の新生児を、洗礼の水のうちに再生させることができたという神が、我らに与えて下さった恩寵を、年の祝福の第一位におかないわけにはゆかない。生まれるや否や、キリスト信者である彼らは死の時にもそうだろう。その生涯中、彼らの霊魂の上に雲が横切ることがあっても、彼らは決して信仰を失うことなく、自分が神と教会の子であると言うのを決してやめることはないだろう」。「20年前に、五島諸島に送られた私は、協力者の人々とともに、次のような働きをする使命を受けた。

 

1、信徒たちの信仰を保ち、強めること。2、数多い『離れ』を、よい牧者の檻に連れ戻すこと。この『離れ』の盲目さは説明のしようもない。3、異教徒たちの回心」。私は、この務めの第一の部分は、まずまずよく果たされたと断言することができると思う。毎年、提出される教勢調査表の数字は、司祭たちの働きとその励ましに答える信徒たちの忠実さを証拠立てるに充分である。最近の年度中、我らは9,452の年の告解と8,392の信心の告解、7,534の復活祭の聖体拝領、13,300のくり返された聖体拝領を記録した。プログラムの第二の部分、すなわち「離れ」の復帰は、待望の、または時として前もって当て込んだすべての慰めを与えなかった。毎年、少しずつ戻る人があって、真の信仰をもつ人以外にもはや誰も残っていない所もある。しかし、他所では信徒発見の当初のように、孤立しそれに固執したグループに出会う。好都合な情況、あるいは個人的利害問題が何回かある個人を、このグループから引き離した。しかし、実際にはこの集団はそのまま残っている。この執拗な頑固さを砕くためには、非常に強い恵みの一撃が必要だろう。そして、それはただ、神の無限のあわれみにのみ希望することが許される。我らのプログラムの第三の部分は、それを決して見失っているわけではないにしろ、果たされているというにはほど遠い。我らの信徒たちの司教が、我らの時間を全部、いやそれ以上に使い果たされる。しかしながら、去る510日、堂崎の教会の祝別式の折に司教が我らに向けられた希望を、やがて実現することができればと思っている。「私は、教会の竣工のため皆さんに祝辞をのべ、また感謝します。私は皆さんがこのすばらしい教会の壁につけた煉瓦と同じほどの数の大人の洗礼をさずけることを、つまり、物質的教会のためにされたと同じことを、霊的教会のためにするようにと希望します」。この事業を果たすに当たって、宣教師たちが出会う最初の困難は、充分教育された伝道師の不足である。すべての若者たちが学校に通い、うぬぼれとすべてについて議論する習慣とを身につけて、そこから出て来るこの国では、伝道師たちに、昔彼らが受けたものよりずっと高等の教育が必要である。そのために、それぞれの地区は、彼らが養成を受ける学校をもつべきである。いくつかの所ではこれに着手し、その結果には満足をされている。どうかこれが、できるだけ早く一般化するように! 経済的問題がいつも大きな障害である。

 
 

1909年 長 崎

カトリック人口………………………… 45,925

異教徒の改宗……………………………   452

異教徒の子供の洗礼……………………   832

異端からの回宗…………………………    1

 

 クーザン司教の報告。「本年度の報告もこれまでの年と同じ様相を呈しているというのは、数年前から我々の人材が全然増えていない上、資力の方はむしろ減る傾向にあるため、既存の事業を維持するのに手一杯だからである。それゆえ、ここに示す数字は、ここ数年の報告に記した数とほぼ同じである。我々は今一度、教区の生活が順調に良く営まれているのを見て大いに慰められているとはいえ、全体に見て、人々がカトリックに対して好意的であることのしるしである多くの回宗者はなかった。カトリック人口は昨年より千人程増えている。この増加は部分的には、増え続けている信者の子供の数に由来するものである。神は彼らに洗礼を授けると言う恵みを我々に与えてくださったのだ。『誉と栄光は唯神にのみ!』信者がまだいない地区では、数知れぬ苦労と度重なる犠牲と言う代価を払って、宣教師たちは茨と棘の中でいくつかの穂を摘んだ」。同じ大島で、中村神父は彼の赤木名の小さい群れを増やすために熱心にあふれ、思いつく限りの手段を尽くして一生懸命やっている。彼は次のように書いている。

「全村異教徒の村で、我々はこの一年の間に2回、スライドを使って要理を教えてみた。異教徒の中に信者が混じっている所でも、時々聴衆を引き付けるために同じ手段を用いた。夜間学校は盛んになって来ており、現在130人以上の生徒が通って来ている。場所が狭くこれ以上入れないので、大勢の人を断わらざるを得ない。この生徒たちの中には役人の息子も、仏教徒と神道信者もいて、教会に惹かれて教理の勉強をしたいと願う者も珍しくない。この生徒を対象に、週に5回、晩の時間を当てている。もう1日は信者のため、残る1日が休息である。一人の伝道師が毎晩回って23人の信者または異教徒を教えている。昼間は正午迄、我々は一緒に宗教書を学び、午後は病人を見舞ったり、時間も有り我々の話を喜んで聞く異教徒たちを訪問したりしている。不思議なことに、今年一人の僧侶がこの地方の村々を駆け巡り、特にこの我々が布教をしている場所で、まるで悪魔に憑かれたかのように説法をし始めた。その熱心さは人々にいくらか影響を与え、我々自身にとっても良い教訓となっている。しかし結果は説教者の努力に報いるものではないようである。最初から彼は聴衆に募金を頼んだ。明らかにこの事が彼の説教を聞きに押し寄せる聴衆の熱意を削いでしまった。彼らは今でも戸口まで来て外で聞いているが、中に入って畳に座って聞く人はまれである……」。中村師は24人の成人の洗礼を受けたことを報告している。他の信者地区も、それぞれ「離れ」と異教徒の回宗者を出した。五島列島の宣教師たちにとって今年度最大の気がかりは、司教視察に備えての準備であった。この視察の間に1,100人以上の堅信が授けられた。ペルー師は一般的に信者たちの熱心に満足しているが、特に担当地区北部の信者たちのことを述べている。

 

そこの信者たちは、これまで甘んじて来た貧相な建物を建て替えて、各共同体に適当な教会と司祭館があるようにしようと、数年前から非常な熱心さを示している。殆どの教会が、最初あまりにも簡単な建て方をしたため、壁は厚さ数寸の荒壁土で出来ているし、窓にはガラスがなく、ありあわせのものをはめこんであったりで、長い間台風や熱帯性の雨、また我々の島の大敵である白蟻にも耐えきれなかった。それで多くが荒廃寸前で、もう修理さえきかない。建て直して、もっと堅固なものを造らなければならない。すなわちレンガ造りにして、費用のかかる修理の心配から末永く解放されるようにするのである。とはいえ、職人や建材を手に入れることの、かくも困難なこの遠隔の島の奥地で、レンガ造りの教会を建てるには相当の金がかかる。我々の信者たちは、いくばくかの畑の作物と漁で獲れたもので生活しており、彼らにとって米は贅沢品であり彼らに金はない! それにもかかわらず、彼らは自分たちの教会のためになら是が非でも金を得る方法を見つけるだろう。ペルー師はこう書いている。「建てることが決まるや、村の有力者たちによって各家の戸主に分に応じた分担金が課せられた。彼らは度々醵出金の最初の一銭さえ持っていない。しかしそんなことは構わないのだ。進んで出す醵金だから、家族の中でなにがしかを稼ぐことの出来るものは、殆ど毎晩漁に出て獲ったものや、昼間の仕事である畑の作物など、どんな無理をしてでも出すだろう。主人の主な分担金に次いで、主婦の分担金もある。彼女らはその寛大さから工夫を凝らして、毎日あるいは毎週、ただでさえ節約している家計のやりくりの中から神の分を見つけだすだろう。青年たちは分担として、いろいろ工面して普通以上の作業をして、その売上を教会に持って来るだろう。若い娘たちの分担もある。彼女たちは何週間、何か月、また時には数年かかって、こつこつ貯めたわずかな金を、丁度教会にとって必要な時に持って来るだろう。教会建築が、この善良な人々に求めているのは唯犠牲だけではない。彼らの持ち船も出してもらって、遠くまで材料を全部取りに行き、岸へ揚げることになろう。そこからは、すでに数知れない辛い雑役を引き受けて、山を切り崩し土地を平にしてくれた若い者たちが一番重たいものを建築現場に運んでくれる。女たちにはレンガや砂、石灰、土運び、モルタルこね、それを職人の所へ持って行く仕事がある。皆が働き、皆が骨折っている。けれども完成の暁には、人々の心と顔にどれほどの喜びが溢れることだろう。その時には、当然のことながらどれほど誇らしい気持ちで近隣の小教区を全部招いて、祝別にあずかってもらうことだろう!」クーザン司教の筆は付け加える。「この光景を私は度々想い浮かべてみたものだ。そしてその度にいたく感動させられるのである」。

 

今年もまた、私は聖児童福祉事業が、日に日に福音の働き手たちからより深い理解を得、彼ら一人一人が報われることの最も少ない牧職の上に、それを実り豊かなものとする天の露を呼び下すために、死にゆく一人の小さな子供の洗礼がなくてはならない手だてと見做しているのを見て、喜びに堪えない。この年度の終わりに、我々が幼きイエズスに捧げることの出来る花籠は、悲惨と悪徳の小径のあちこちで摘み取った832本の花で出来ている。一番の功績は常のように、我々の大切な外国人及び日本人の修道女会に帰される。彼女たちの熱心は絶え間なく目覚めていて、どんな機会も逃さず、どんな困難に会っても怯まない。こうして、熊本を県庁所在地とする地区にある四つの修道院は、そこだけで臨終の子供たち232人に洗礼を授けたのである。浦上の孤児院を担当している本原の邦人修道院も同様に特筆に価する。すでに大勢の名が書き込まれている当修道院の記念署名帳に、また洗礼を授けた27人の子供たちの名も加えたからである。五島列島では、洗礼を授けるために巡回する婦人たちのお陰で、受洗者数はすでにこれまでの年を上回り、今回は111人となっている。

 
 

1910年 長 崎

カトリック人口………………………… 47,104

異教徒の改心……………………………   592

異教徒の子供の洗礼……………………   811

異端からの回心…………………………    8

 

 疲労が長引いていることを理由に、クーザン司教は宣教会員の一人に本報告の執筆を委かせねばならなかった。1909年から10年にかけての長崎の宣教会にとって、特に喜ばしい出来事をもって閉じられた。それはクーザン司教の司教叙階銀祝であった。司祭も、信徒もこの祝いを多分もっと盛大に行いたかったことであろう。しかし、尊敬すべき銀祝者の謙虚さと健康状態がすぐれないことから、ごく内輪の家庭的な祝いを余儀なくされた。水入らずの親しい者だけの祝いではあっても、感動的なものであった。921日、司教ミサのために定められた時刻のずっと前から、質素な大聖堂は近隣の共同体の代表信者たちから成る多数のグループが詰めかけ、いっぱいであった。他方、宣教地区の全カトリック信者は、彼らの尊敬すべき大牧者の慶事に祈りをもってあずかった。宣教師司教として味わうことの出来る最大の喜びは、イエズス・キリストと、その聖なる教会への奉仕職のために、司祭たちを聖別するその喜びであるから、クーザン司教によって叙品された40人の日本人司祭たちは、司教の銀祝の冠を飾る一番美しい花であった。また、敬虔な感謝の念に溢れて、この素晴らしい日、司教は25年前自分の手に委ねられた群れを、良き牧者の観閲式に並ばせたのであった。あの時23人であったこの群れは、47,000人へと増えたのである。黒島の南側に五島列島があり、14,000人ほどのカトリック信者が住んでいる。ここの素晴らしい諸共同体は、クーザン司教に特別の感謝の念を表したいと思った。というのは、司教が迫害に時代に終わって後、最初にこの列島に上陸した宣教師だからである。それで司教の叙階銀祝には、祈りの一日を捧げてこの祝いに参加したのである。ペルー師の指導により、宣教師たちはどこでも信者たちが容易に頻繁な聖体拝領ができるように努めた。司祭の数が少なく、連絡をとる事が難しい事を考えると、これは追加の仕事であり、賞賛に価する。若者のための事業がかなりの町で軌道に乗った。ますます危険にさらされることの多くなった若者にとって、これらの活動は貴い保護手段となるであろう。どうかもっと数も増え、すべての地区に広がっていくように!
 
 

1911年 長 崎

カトリック人口………………………… 48,009

成人洗礼…………………………………   662

異教徒の子供の洗礼……………………   773

異教者の回宗……………………………    4

 

 長崎の宣教区は喪中である。その第一の牧者クーザン司教は労苦と功徳にみちた生涯を聖なる死によって閉じた。臨時の長上サルモン師は、グラシー師によって次の報告を私たちに送って来た。「前年度は、クーザン司教の司教叙階25年記念の喜びのうちに終わった。ああ、しかし神の摂理は、十字架の王道を通って天国へと進むため、地上でのこの最後の勝利を、彼のために保留しておかれたのだ。年の始めの月、師は彼の二人の老練な働き手、フレノー師とコール師を奪った。それから、ボンヌ師の選出は、彼に犠牲のうちでも最も辛い犠牲を課した。最後に、長期にわたる病気の試練が、彼の魂の浄化を完了した。921日、司教叙階26年目の記念に、我らは悲しくも、我らの尊敬すべき父を最終の住居へと見送った。どうか主が、使徒的生活45年によってかちえた冠を、できるだけ早く、彼に与えてくださるように!」。旧い信者共同体では、300人以上の伝道奉仕者たちが、信徒の子供や大人を教えて、宣教師を助けている。往時の殉教者たちの子孫であるこれらの使徒たちの寛大な協力のおかげで、ペルー師は、伝道師の二つの学校を建てることが出来た。どうか、これがすべての宣教師に、敬虔で教えに通じた援助者を供給することができるように! 長い間、貧しい島にひきこもっていた我らの旧い信徒たちは、そこでは窮屈だと感じ始め、本土の方にあふれ出るようになった。この移住は、宣教師に余分の心配をもたらした。遠ざかってゆくのは最も不幸な人々である。これらの分蜂が、異教の空気に汚染されてしまわないために、新しい教会の周囲に彼らを集めなければならない。



  
   
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