パリー外国宣教会司教

コンパス司教 

長崎

1912年(明治45年)

 

カトリック人口・・・・・48,891

成人洗礼・・・・・・・・   528

異教徒の子供の洗礼・・・   736

離教よりの回宗・・・・・     6

 

 191298日、長崎の殉教者の聖母教会において、ムテル司教は、クーザン司教の後継者を司教に叙階した。すべての宣教師と、教区の日本人司祭の大部分はこの機会に、コンバス司教のまわりに集まり、彼らの新しい牧者に敬愛と揺るぎない愛着の情を表明することを幸いとした。儀式は壮観だった。無数の信徒たちが、教会の内部にも周りにもひしめきあっていた。すべてのものがこの日について、快い思い出を心に納めた。

 次のように書いている。「この報告を書き始めるにあたって、私の思いはおのずとクーザン司教の方に赴く。19119月に我らは彼を失うという大きな悲しみを経験した。こんなにも早く、ボンヌ司教やクーザン司教を我らから取り去られることはあるまいと心ひそかに思っていた。神の摂理の道は究めがたい。我らから愛する長崎宣教区には、なんという死別の悲しみが重なったのだろう!」

 多くの所で、貧困に迫られた我らの信者たちは、朝鮮に定住するため彼らの村を去った。婦人も子供も含む80人の移民団がブラジルにゆくために、今村の信者共同体を去った。

福音化の仕事は、過去何年かのそれと大いに似ているし、同僚たちの大部分が私に書いてよこす至るところから、特に古い信者共同体から、同じ絶望的叫びが上がる。もっと教育のある伝道師を持つ手段を見つけなければならない。さもないと、次の世代は我らの手から逃れてしまう。クーザン司教はこう書いている。「若者たちが学校に通い、うぬぼれと何についても議論する習慣を身につけて卒業する国では、伝道師たちに昔、受けたよりずっと高い教育を与えることが必要である。それぞれの地区は、彼らが養成を受けることのできる学校を持つべきである。五島で、ペルー師のところではこの事業に手をつけ、結果は満足を与えている。平戸で、マトラ師も、恩人たちによって引き続きは助けられるかぎり、ずっと前から心にあたためていた夢の実現に着手したいと思っている。資金の問題は常に大きな障害である」。

 
 
 

長崎

1913年(大正元年)

 

カトリック人口・・・・・50,040

成人の洗礼・・・・・・・・・ 487

異教徒の子供の洗礼・・・・・ 758

離教徒の回宗・・・・・・・・・・・7

 

コンバス司教は深い感謝に満ちて、「私は聖主イエズス・キリストとその御母栄ある処女マリアに、我々の同僚の働きを祝してくださったことと、1912から1913年の活動の間、日本の各地を傷めた災害から我々の宣教区を守って下さったことを思う」と報告している。

長崎教区のカトリック人口は5万を超えた。しかし、洗礼の数は昨年より少しは多いと言うものの、使徒的働き手の苦労や、彼らが発揮した熱意に応える数ではない。我々は涙の内に蒔き、他の者が喜びの内に刈り取るであろう。我々は既に聖なる教えに対する次々と無くなるのを見、かつてキリスト教に対して敵対してきた長崎においてさえ徐々に友好的関係が信者と異教徒の間にうまれつつあるのを見る。 

 日本が宗教を必要としているかどうかが問題でもなく、また、どのような宗教が必要かではなく、私にとってイエズス・キリストのそれの他にないと考える。

 コンバス司教は「日本の宗教は神の手中にある。我々は全き信頼を聖旨に委ねよう。その恩寵に強められ、異教徒の改心に関わりある祈りによって、我々は我々の親しい日本人の心の中に良い種を蒔き実を実らせるように努めよう。」と付け加えられた。

 私は一年の大半をほとんど古いキリスト信者共同体を訪問のために費やした。堅信を授けたり、聖堂及び墓地を祝別した。堅信の総数は3,756人であった。私の義務を果たすべく行くところで、私の同僚たちの善意と疲れを知らない熱意、信者たちの生き生きとした信仰とその温かさを私は賞賛した。堅信式にあずかるために信者たちが雨風にもめげず、道なき道を何里も徒歩で来るのを知った。私はここで神父方や信者たちが私を文字通り満たしてくれた行為をこと細かに話すことは止めにしよう。それは、あまりにも長くなるだろうから。このようにして五島の諸島では1カ月近く南から北へと徒歩または船で訪問した。それぞれの村長方は私のところに挨拶に訪れ、贈り物として卵、鶏、新鮮な魚などを下さった。23の村では私の個人的な都合から、より中心的な場所に集まる必要があった。彼らの内には満艦飾をした船で歓迎を表してくれた人もいた。至る所、常に教会は単純ではあるが美しく飾られていた。日本人はどんな辺鄙な所でも天性の趣向をもっている。わずかなものでも、彼らはすばらしいものを作って目を楽しませ、心をうっとりとさせてくれる。

 五島諸島の信者共同体はペリュー師の司牧下にある。2人の宣教師と6人の日本人司祭が働いている。この諸島の全人口は、およそ7万人で、カトリックは1万5千人で、多くの村落に散在している。

 
 

日本宣教師団

長崎

1914年(大正2年)

 

カトリック人口・・・・・50,974

成人洗礼・・・・・・・・・・・527

異教徒の子供の洗礼・・・・・・920

異端者の回宗・・・・・・・・・・・2

 

 日本とヨーロッパに繰り広げられた恐ろしい出来事は、1914年を悲しくも有名な年とすることだろうとコンバス司教は書いている。この年は、日本人がその暦の中で与えられている名にまことにふさわしい。すなわち、「とら年」。日本の北部は、飢餓に大いに苦しみ、南部は膨大な損害を生じた、桜島の火山の相次いだ噴火で非常な試練を受けた。4月には皇太后が亡くなられた。彼女は、思いやり深い暖かい心によって、その高貴な夫君と、明治の時代の栄光に大いに貢献した。6月と8月には、数回の大風がひどく荒れ回り、宣教会のいくつかの宣教師館や教会にひどい損害を与えた。ついに杯をあふれさせるため、ドイツによるフランスへの宣戦布告と、全世界のすべてのフランス人の動員。長崎の5人の宣教師は、祖国を授けに行くため信者たちと事業を放棄しなければならなかった。

 19153月には、我らは美しい家族の祝典をもつことだろう。なぜなら、教皇聖下は、長崎の教会での旧信徒の子孫の発見50周年記念に当たって、この教会を訪れるすべての人に、通常の条件で全贖賄(注1)を与えて下さることになったから。その他、東京の大司教は、1915年に行われるはずの地方司教会議の場所として、長崎を指定するという心づくしを示された。しかし、時代が悪いことから見て、集まりはたぶん延期しなければならなくなるだろう。

 3,198の洗礼数にもかかわらず、死亡と、財を求めて朝鮮やブラジルや、はてはニュー・カレドニアにさえも移住する多数の信徒のため、カトリック人口は50,974にしかまだ昇らない。

 長崎では新しい司教館はまだ出来上がらない。それで、私は教会の近くの古い借家にド・ロ師と一緒に住んでいる。

 神学校校長グラシー師は、休暇の余暇を用いて、1865年の信徒発見と、彼らが受けなければならなかった迫害と、その当時からのカトリック教の発展を想起させる小冊子を書いた。

 我らは長崎に二つの日本人小教区を持っている。すなわち、島内師の指導のもと732人の新信者を数える中町の小教区と、浦川師の熱意に託された大浦の小教区である。浦川師は主の模範に倣い、小さい子供たちを大変愛している。毎晩要理の後で、彼らと一緒にロザリオや他の祈りを唱え、いつも非常に実践的ないくつかの勧めを与えているのを聞くのは実にほほえましい。師は、いくつかの信心書を著したが、今はマルナス師の著書と、古い信者の話に基づいて日本の教会の歴史を書いている。この本は、多くの人に読まれること疑いなしである。それに、時宣をえて出版される。なぜなら、その出版は旧信徒発見の50周年記念の祝典と同時になるだろうから。

 全五島諸島の尊敬すべき主席司祭ペルー師は、その指導のもとに10人の宣教師と日本人司祭をもっている。小委員会では彼のことを「聖省長官」と呼んでいる。五島諸島は三つのグループに分かれている。すなわち、北五島、中央五島と南五島。信者人口は14,962人。巡回伝道師は145人の小天使に天の門を開いた。彼らは皆、昔の大名の住居で、今日では群長の所在地である福江に、ペルー師が最近創設した新しい宣教所のため、天国での取り次ぎ者となることだろう。気前の良い恩人方のおかげで、宣教師はこの町に建物つきのかなり広い土地を入手した。家は祈祷書と宣教師の住居と講和室のため充分ある。さる6月、いくつかの講和が行われ、多数の聴衆が好意を持って耳を傾けた。群長も村長も、そこに列席することをのぞんだ。ほとんど同時にバプテスト派の人たちが町に居をかまえ、誤謬を蒔こうとした。しかし、近隣のカトリック信者たちのよい評判のため、ほとんど成功しないように見える。

 五島での今年の目立った出来事は、福江の宣教所の公的落成式であった。式は624日に行われた。伍藤
子爵が、副知事の補佐のもと、町の主だった名士たちに囲まれて司式した。
 
 
 

長崎

1916年(大正4年)

 

カトリック人口・・・・・52,914

成人洗礼・・・・・・・・・・・457

異教徒の子供の洗礼・・・・・・707

異端からの回宗・・・・・・・・・・1

 

 「神の慈しみと兄弟たちの献身に対する熱い感謝の念にあふれて、私は1915年から1916年にかけての年度報告を始めたいと思う」との書き出しに始めるコンバ司教の報告。

 招集された兄弟たちの不在が長引いていることで、残っている者たちは皆、恵みに支えられているとはいえ、過剰の仕事を余儀なくされている。しかし、熱心に働いている彼らは何事もおろそかにしなかったので、司牧の上ではこれまでの数を維持することができた。とはいえ、彼らの中の何人かは病気をしたり、又今も病床にあったりで、最もひどい者だけをあげてもデュラン、深堀、ペリュ、マトラの4師がいる。こういうわけで、私は宣教結果が著しく低下することを予想していた。ところがこの予想とは裏腹に、聖人洗礼の数は前年度のそれを上回った。信者の子供たちの誕生の数は、又信心の告解と同様、非常に慰め多いものである。死亡者と、転出して多分当宣教地区には帰ってこないと思われる人々があったにかかわらず、1,369人増えており、カトリック人口は52,914人になった。

 それにもかかわらず働く者の数は少ないことを思って、将来に不安を抱いている。1911年以来長崎は2人の宣教師しか迎えていない。

 最近、ドイツの神言会宣教師が出しているアメリカのあるカトリック雑誌に次のような記事があった。「未信者に信仰を公布するため創立された会で最も古いのはパリ外国宣教会である。長い間、この会は惜しみなく与え、大きな成果をあげて来た。信仰のために血を流した会員も大勢いる。しかし、フランス政府の迫害と、今次大対戦は当会に致命的打撃を加えたので再起は無理であろう。会の消滅が危ぶまれている」。どうか神の御助けによって、この不吉な予言が実現しないようにと願っている。

 次いでコンバ司教は、教皇使節のペトレリ大司教の来訪について語っている。

 1916年の我々の歴史を飾ったこの幸いなページの横に、残念なことに!どちらかと言えば悲しむべき1ページを書かざるを得ない。兄弟たちからの報告によると、信者たちは、下級官公吏からのいやがらせを忍ばねばならなかった。それは即位の礼の祝典にあたって、各地で行われた迷信的な式典に参加することを断ったためである。年々カトリックに対する当局からの妨害が強まりつつあるようで、彼らは理由もなく、「神々」の崇拝に基を置く憲法に反対していると非難している。

今週、ある新聞には次のような記事があった。一人の神主が排他的狂信の余り、仏教の主だった宗派である真宗、又は本願寺といわれる派を黙認しているとして文部大臣を法廷に訴え出たというのである。それは、この宗派の信徒たちが祖先崇拝を拒絶して、阿彌陀だけを拝んでいるからである。

どこの公立学校でも、又認可を受けた学校でも、いわゆる国祭日、或いは氏神を祭るある祝祭日に、生徒たちは教師たちに引率されて神社に詣で、神々を拝み、或いは祖国のために戦死した兵士たちに崇敬を捧げる目的で行われる儀式に参列しなければならない。今まで信者の子供たちは欠席届けを出していた。しかし、次の日学校へ行くとひどい目に会わされることが時々あったのである。最近私とラゲ師は、長崎県知事に呼び出された。彼は大変親切にしてくれ、一つの協定について語った。「非常に困っているのです」と話を始めた。「と申しますわけは、庁内のあらゆる部署から、日本が支那に勝った時から始められた、お国のために死んだ戦没者を祀る愛国的、国の儀式に参加することを拒絶しているカトリック信者に対しての不平を沢山言って来るものですから。日本政府は、数年前に、『神社』と呼ばれる国の寺と宗教的なそれとを分離致しました。それで、これらの神社は宗教的性格を失ったわけで、皇室の祖先や、国家の偉人、戦没者に対しての全く公的な祭祀を行う国の建物なのです。『神』という語がまだ使われていますが、これは、あなた方がこの語に与えてられる超自然的な存在者という意味は全然ありません。単に、国のためにつくした傑出した人物ということです。それですから、日本人たる者は、信奉する宗教が何であれ、誰であっても良心に痛みを感ずることなく、この人々を崇敬することができるのです」。こう言って次のように付け加えた。「12派ある宗教としての神道と皇国の創始者及び偉人を永遠に祀るために立てられ建物(神社)をはっきり区別していただかねばなりません。ここでいろいろな儀式を司る者たちは高位の公務員なのです」。

会談は双方ともになごやかに行われ、2時間以上も続いた。知事は会合を終わるにあたって言った。「この件についての政府からの通告書を全部お送りしましょう。お暇な時にもっとくわしくご研究下さい。そして、あなた方の信者の方々にご説明下さり、その愛国心と天皇陛下に対する誠実とを堅固にするためご尽力下さることと信じております」。 

ペリュ師は、79,654回の告解を聴き、79,654の聖体拝領を授けた。15,629人というカトリック人口のための仕事があるにもかかわらず五島列島で45人の成人に、又136人の異教徒の子供たちに洗礼を授けた。ところが、この親愛なる神父は関節液の溢液で長い間絶対安静を強いられた。

 
 
                     
                     
                     
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