パリー外国宣教会司教

 
 
 

1918年(大正7年)

 

カトリック人口・・・・・54,541

成人の洗礼・・・・・・・・・・313

異教徒の子供の洗礼・・・・・・661

異端からの回宗・・・・・・・・・・3

 

 コンバス司教が次のように書いている。現在の状況において補うことも不可能な程に、3人の勇敢だった同僚たちが帰天した。その他にサルモン師が寝たり起きたりの状態で、先の3月頃から聖務に携わることも、ミサを捧げることもできない状態である。マトラ師も不安定な状態である。このような苦しい、難しい状況が我々の宣教の妨げとなっている。

 生活費の法外な値上がり、先の収穫は良かったが、買い占めによっての米の高騰。生活を支える気苦労のために、人々は宗教的な話に耳を傾ける余裕もない。伝道師たちも同様にその待遇を保つことも出来ないので、やむを得ずよりよい待遇の方を捜している。

 信者を特別扱いの専制的圧力は外面的には和らいだが、これも長くは続かないだろう。宗教の国家主義は我々から遠いものだが、異教徒にとっても邪魔であることに変わりは無い。ルマリエ師が書いているように、それは愛の仕事の発展にも邪魔になっている。

 ペリュー師の死は五島の教会にとって大きな痛手で、私は直ちに師の働きの成果が失われる事がないように、後継者の大崎師にその司牧を任せた。

 後者は19年間、フーゼ師と共に、亡き師の右腕として働いた。亡き師は9人の同僚たちの働き手として素晴らしい働きを残したのである。

 
 

長崎

1919年(大正8年)

 

カトリック人口・・・・・55,457

成人の洗礼・・・・・・・・・・294

異教徒の子供の洗礼・・・・・・552

異端からの回宗・・・・・・・・・・2

 

 コンバス司教は次のように書いている。私がお送りする小さい報告は、前回のものとあまり変わらない。昨年、私が指摘した福音化に対する障害は少しもなくならない。反って、状況はいっそう重大なものとなった。至る所で人々は田舎を嫌い、工場でのもっと報酬のよい仕事を捜しに行く。目も心も商業や工業の方に向いている。各自がペレットのように、富を獲得し、現世を楽しむ希望を夢見て楽しんでいる。なぜなら、ある人々にとって、この戦争は巨大な利得の源泉だったから。全く異教的地域で働く宣教師たちは、非常に不毛な畠を開墾しなければならない。恩恵と人々の霊魂への愛に支えられていなかったら、彼らは勇気を失ってしまうことだろう。異教徒たちは、すべて宗教的な話を避け、超自然に関することの前には耳も目を閉じてしまう。日本政府は、カトリックに対する嫌がらせに外的に弱音器をつけたとはいえ、その役人たちによって、カトリック信者を反愛国者、外国の宗教の信奉者と名指すのをやめはしない。内務大臣の後援のもとに、僧侶たちは「危険」な思想、すなわち、キリスト教やヨーロッパから来た思想を攻撃するために、町や田舎を巡り歩いているということである。日本のファリサイ人たちは、キリスト教と他のヨーロッパ思想との間に区別をつけることを欲しない。我らは、優れたカトリック信者も幸いな結果をもたらすことと希望したいし、またそのために祈っている。 

 このような状況下で、異教徒の大人や子供の洗礼の数の少ないことは、私の親愛なる同僚たちの苦労と熱

心にはいっこうに関わりがない。
87,000以上の繰り返された告解や300,000の信心の聖体拝領は、牧者の奮

発心と信者たちの信心の明らかな証拠である。
 
 

長崎

1920年(大正9年)

 

カトリック人口・・・・・57,499

成人の洗礼・・・・・・・・・・403

異教徒の子供の洗礼・・・・・・402

異端からの回宗・・・・・・・・・・4

 

 コンバス司教は次のように書いている。

 我らは聖なる洗礼によって、信者の子供も含めて、3,003人の新しい子供を教会に与えるという慰めをえた。大人の洗礼の数は、ごく慎ましいが、昨年の数よりも著しく増加している。最も美しい束を集めとったのは、ボネ師とフレスノン師である。

 我らの仕事の単調さを破った目立った出来事、それは教皇使節による司教区の一部の訪問であった。我らのカトリック信者たちは皆、教皇の代理に会い、その祝福を受けることで大いに喜んでいた。彼らの貧しさにもかかわらず、出来る限り、よく施設を迎えようと何もおろそかにしなかった。使節は果たされた仕事、勝ち得た成果、我らにその手段があるならば、実現したいと思っている。まだ残された多くのなすべきことを自分で見て、納得することができた。使節は、ラテン語の勉学の程度を評価するため、我らの神学生を一度ならず訪問した。使節を歓迎するため、日本人司祭が8人集まっていた五島で、ラテン語はぜひ必要な言葉であった。地区ではラテン語を使う機会はほとんどなかったので、彼らは以前のような容易さを失ったとはいえ、なかなかりっぱにやりとげた。

 教皇使節は、その訪問の二つの貴重な記念品を一片を容れた遺物箱で、これは日本で唯一のもの、もうひとつはゴアの器物箱の中で、長い間、聖人の体を包んでいたアルバの小片である。これを長崎の信者発見の教会に寄贈された。

 浦上で教皇使節は教皇ミサを挙行され、種々の事業の訪問にまる一日をかけることを望まれた。教皇使節は新しい教会に非常に高価な聖体ランプを寄贈された。

 かつてクーザン司教が書いたように、長崎の宣教師たちと、日本人司祭たちは、精神も心もよく一致し、人々の救いによる神の栄光という同じ目的を追求してはいるが、彼らの仕事の性質上、二つの組に分けることができる。異教徒の町に住んでいる者たちは、ただ一つの目的しか持たない。すなわち信者共同体の核を形成し、あちこちからできるだけ数多くの大人の洗礼を拾い集めて、これを発掘させること。旧信者共同体をまかされている人々は、第一の心遣いとして、新しい信者をつくるというより、むしろ、すでにいる信者の霊的必要をみたすということである。信者が4,000人から5,000人いる地区において、病人たちの招きに応え、20から30の異なった信者共同体で、年の告解や復活祭の聖体拝領にあずかる年齢の者たちを皆準備し、信心の告解を聴くなどすると、未信者の改心に有効に携わっている時間がほとんど残らない。信者の大きな地区のこの聖役は、それに従事する者たちに与える多くの慰めにもかかわらず、一報告書に記すような目立つ出来事はあまりない。しかしながら、入ってくる報告によると、秘跡をおろそかにする若者の数が増加していくという悲しい現象が認められる。毎月、告解するのに最も忠実な若者は、マトラ師が彼らのために払った苦労のおかげで、平戸地区の者たちである。師は、その死の床で、彼らに宗教的実践を今まで通りに続けるように約束されたのだった。他の所では低下が見られる。

 数多くの原因が、若者のこういう生ぬるさの説明となる。一方では、全部政府から義務付けられた小学校の唯物主義的、かつ反カトリック的教育、卒業後の仕事、兵役、元軍人の義務的な会、すべてが若者の信仰を冷たくするのに貢献する。それに加えて、もっともうかる仕事を工場に求めに行くため、彼らは田舎を離れる。しかし、ああたびたびそろえは霊魂の善益を犠牲にしてのことだ。

 
 
 

長崎

1922年(大正11年)

 

カトリック人口・・・・・58,609

成人の洗礼・・・・・・・・・・410

異教徒の子供の洗礼・・・・・・434

異端からの回宗・・・・・・・・・・4

 

 コンバス司教はこの教区の使徒的働き手たちの活動に対して神から与えられた恵みに感謝している。司教は次のように報告している。

 我々の古い共同体において宣教師たち、邦人司祭たちは60歳前後になっているので、その仕事の重みに耐えられなくなってきている。しかし、出来るかぎり、どこの小教区においても司牧は規則正しく行われている。我々は布教聖省と信仰弘布会の事業の100年祭を祝った。農業や漁業の仕事に合わせて、それぞれ別な時期に教区の信者たちは三日間の準備の後、聖なる食卓(ミサ)に近づいたのである。この機会に何人かの離れていた者も信仰の実行と共同体に戻った。

 11月、二人のカナダ管区のフランシスコ会の修道司祭が到着したことを私は喜びに思っている。彼らは既に新しい宣教の核となるために日本語が出来るのは喜びである。一人は鹿児島の町に、一人は大島の瀬留で亡くなったブイージュ師の一時的後任となる。

 またごく最近一人の司祭と修道士が到着しているが、彼らは布教聖省が彼らのための新しい宣教地域を決める迄、日本語を勉強する。

 教区内の諸島や他の地域からの報告の中で、出生や聖人洗礼があるにもかかわらず、信者の減少が認められる。土地がその住民を養うためには充分ではないからである。

 多くの人は長崎のドックや工場で働き、またある人は佐世保軍港に、または隣の教区に移って行く。しばしばそれらは霊魂(信仰)の損失となる。何故ならば大きい町においては青年たちは異教徒たちの中で、異郷に来たことを感じ、世間体もあって、誘惑に負けて直ぐにカトリック信者の義務を捨ててしまうからである。

 長崎の町では島内師が年と心臓病のために働きが出来なくなったので、ラゲ師が彼自身、杖に頼ってはいる身だが、日曜日や祝日、祭日には大事な協力をしている。

 フランシスコ会の司祭たちが大島の首都名瀬に入ると共に、フレスノン師は飽の浦の小さな教会に移ることになる。そこは信者も多く入り切れない程である。しかし、残念なことに主任司祭かいない。名瀬の教会の建築のために、全ての費用を使ってしまった程の努力をした勇敢な宣教師は、今は新しい宣教者に譲らなければならないであろう。

 宣教会として既に大きな負債があるが、それにまた新たな費用を加算しなければならないだろう。

 
 

長崎

1923年(大正12年)

 

カトリック人口・・・・・60,736

成人の洗礼・・・・・・・・・・422

異教徒の子供の洗礼・・・・・・428

異端からの回宗・・・・・・・・・・2

 

 東京の宣教区の災害に寄る計り知れない悲しみに圧倒されながら、長崎司教は、1923920日の日付でその報告書を記している。司教はこう書いている。「10日以上もあらゆるコミュニケーションが断たれてしまっていたので、我らは確実なニュースを一つも受けることができなかった。それで我らは教皇使節、東京大司教、宣教師たち、マリア会員たち、そして宣教会の教会や使節について、最大の憂慮のうちにあった。そしてついに、災害の広がりを知った時、我らは東京の同僚たちに対する悲痛な共感に胸も破れる思いがした。多数の焼死者や残骸のしたでつぶされた人々の他50年から60年にかけての使徒活動の結実がほとんど無に帰せられてしまった」。

 コンバス司教は続けて言う。「我らの信者共同体の管理においては特に変わったことは何も起こらなかった。宣教師や日本人司祭たちは、その年齢や体の障害にもかかわらず、彼らの義務に決然と立ち向かうために自信を酷使した。私は彼ら一同の献身の真価を認めている。そして、各自にその義務を果たす力を与えて下さった神の摂理に何と感謝してよいかわからない。告解の数字は114,365に達し、聖体拝領は387,228であった。信心を養い、キリスト教的生活をますます開花させるため、毎月初金曜は至る所で重んじられている。最もよい家庭は聖心に奉献され、祈祷の使徒職は大いに進歩している。

 ああ、いつも同じことを繰り返して言うのは辛いが、我らには人員と資金が不足している。戦前は一人の司祭を頭としてもっていた6か所の二次的宣教拠点は、一番近い所の牧舎の訪問を何回か受けるだけになってしまった。フランシスコ会の神父たちが我らの助けなしでやっていけるようになるためには、まだ数年かかる。この年度中、我らは63歳の日本人司祭を失った。もう一人は布教聖省の要請のもとに日本人移民がたくさんいるブラジルへ出発した。

 昨年、私が知らせた通り、大島の名瀬から戻ったフレスノン師は、長崎での三菱の工場町飽浦の労働者の新しい準小教区の頭となった。彼は最近小さな司祭館を建てた。我らの同僚はこう書いている。「15年足らず前からもう存在していない中町の準小教区から分れたこの信者共同体は今日では至る所から来た2,700人以上のカトリック信者を算える。これはその大部分は欧州大戦の日本への反響から成り立っている。そこで三菱の工場は突如として大発展し、会社からめられ、また金儲けの魅力に引かれて運搬人夫とか土木工事とかその他すぐにおぼえられるやさしい仕事のため、田舎の労働者たちは群をなして長崎に殺到した。彼らは散らばっていて、都会から遠いため、日曜の聖務にあずかることができなかったので、聖ヨゼフに献げられた慎ましい木造の聖堂が建てられた。しかしその時、この若い共同体がこんなに速やかに発展するとはだれも想像していなかった」。

 信者たちと宣教会の助けをかりて、フレスノン師は、土地が狭いにもかかわらず、聖堂を大きくし、小さい宣教師館を建て、一軒の古い家を要理の勉強質に変えた。こうして物的心配は一部解消されたが、霊的な大きな心配が残っている。なぜなら、昨日まで田舎に集団となって信仰の実践に助けとなる環境の中にいたこれらの信者たちは今日では工場の不断の仕事にしばられ、異教的環境の有毒な示唆にさらされているのだから。しかしながら、彼らは日曜日の聖務には非常に勤勉に参加し、毎日仕事に赴く前にミサにあずかる男女も多い。我らの同僚は将来のため信頼にみちている。

 昨年から、長崎の入口に位置する浦上の数多くの小教区は政府によって町に合併された。こうして4つの地区に分かれていた町は12,486人のカトリック人口となる。

 神学校は現在43人の生徒を算へ、そのうち4人は下級聖職者、8人は哲学生である。体の強健な一教授がいたらグラシー校長はどれほど助かることだろう!

 1922年の秋、荘厳な宗教的式典が日常の仕事の単調を破った。福音スピラノと同志殉教者の祝日の祈りに、我らは年の黙想会を終えて、多くのカトリック信者が、信仰のために血を流した丘の麓にある殉教者の聖母の教会で、125人の福音の殉教300年記念祭を挙行した。広い教会には信者が溢れていた。

 数日後、新教皇使節ジャルディニ大司教が我らにその訪問の著しい栄誉をたまわった。いくつかの小教区で司教ミサを献げ、カトリック施設を訪問され、喜びに満ち溢れる信者から崇敬の標示を受けてのち、大司教は私と共に五島諸島の南部を訪問され、教皇聖下の代理者の手で完全なキリスト者となることを幸せに思っている約100人の子供たちに堅信の秘跡を授けられた。群衆の数や熱狂ぶりを見て、大司教は数年前のフマゾーニ・ビアンディ大司教と同様、イタリアからフランスの最もすぐれた小教区の真ん中にいる思いをされた。五島諸島では9人の日本人司祭が、彼らの一人、苦労を惜しまぬ熱意にあふれた大崎師のすぐれた指導のもとに働いている。ここで我らの日本人聖職者はその働きぶりを見せている。彼は教養があり、雄弁で機転がきく。

 五島から帰られてジャルディニ大司教はフランシスコ会の長上と相談する何かの用事があったため、遠い大島諸島を訪問することを望まれた。彼の通過はどこででも、信者にとって、また異教徒にとってさえ、歓喜を湧き起こす原因となり、数回の説教よりも雄弁な宣教であった。教皇使節に日本の天皇陛下によって授けられた高位の勲章を見て、全ての人はカトリック教会の頭についていっそう大きい尊敬の念をいだくようになった。

 
 

長崎

1924年(大正13年)

 

カトリック人口・・・・・62,034

成人の洗礼・・・・・・・・・・299

異教徒の子供の洗礼・・・・・・366

異端からの回宗・・・・・・・・・・8

 

 布教の点では、過ぎし一年は最も平凡な年となったが、その理由は、一部には我々が大島地区をフランシスコ会の神父たちに譲り渡したことにある。しかし、我々の後継者の人数はずっと多いから、最初の困難を克服して、皆が日本語を習得した暁には、我々の宗教に対して大変行為を持っている大島の人々を改心へと導く仕事は、新たな飛躍をとげるであろう。

 19231122日、我々は本原(浦上に近い村)に創立された邦人修道女会の創立50周年を祝った。1873年、過酷な追放から解放された生き残りの信者たちは、故郷に戻るとわら葺きの小屋を建て始めた。しかし、間もなく台風で倒され、伝染病が村に発生した。当時、若さにあふれていたド・ロ師は、医師にもなり、看護士にもなった。彼の献身的な働きを助けたのは3人の若い女性であったが、彼女たちは伝染病がおさまった後も、婦人や子供たちの教育の面で宣教師を助けるために、一緒に生活し、神に身を献げる決心をしたのである。これが、この教区における最初の修道女会の始まりで、今日では本原に、40人の会員がいる。十字会(Amantes de la Cloix)という名称で、一人の院長のもとに共同生活をし、貞潔誓願をたて、毎年黙想会の時に誓願更新をし、自らの働きで慎ましく生活し、自発的に伝道婦をしている。彼女たちは聖児童福祉の施設を経営して、毎年大勢の幼い子供たちに天国の幸福を与えている。彼女たちの中から数人が、宣教会の長上の願いにより、他の地区にも同会の小共同体を作ったが、適当な時が来て、これらすべての家を一人の総会長の権威のもとに集まるまでは、それぞれが孤立したままでいる。どこでも、この会の修道女たちは我々に最大の奉仕をしてくれている。それゆえ、彼女たちに、我々の感謝を示すために、その創立記念をできるだけ盛大に祝ったのである。1879年まで、女子修道会は日本には一つもなかったのである。

 五島列島で、もうひとつの記念式典が行われた。25年前、玉浦のすてきな、そして敬虔な共同体に熱心なパルュ師が、クーザン司教の勧めに従い、五島の全共同体の助けを得て美しいルルドの洞窟を築いた。以来、全国各地からの巡礼が引きも切らない。去る5月には洞窟前の野外で司教ミサが行われた。教会は小さすぎて3,000人以上にのぼった信者たちを入れることができなかった。聖体行列が行われ、何時間にもわたって聖母の前で聖歌とロザリオの祈りが捧げられた。どうかこの良き御母が、この巡礼者たち皆を力強いご保護のもとに守り、多くの信者青年男女をそれぞれの家庭に留まらせて下さるように。都会の見せかけの幻影が彼らを余りにも強く引き付けているからである。

 
 

長崎

1925年(大正14年)

 

カトリック人口・・・・・62,584

成人の洗礼・・・・・・・・・・374

異教徒の子供の洗礼・・・・・・361

異端からの回宗・・・・・・・・・・5

 

 すべての日本人を無意識の内に「宮」に詣でること、或いは天皇と英雄への信仰、公立小学校は愛国心と市民的儀礼とし、それをもって純粋な子供たちの霊魂を奪っている。対策として授業の後ではカトリック要理が教えられ、カトリック青年会が教区の責任司祭の許で結成された。しかし、戦争中、多くの信者たちは大きな町へと働きに行き、戻っては来たが、新しい思想と信仰の衰退を視る。このために我々の最も良い信者集団の中でさえ、青年会の会長や他の共同体の善のために設立されたものも、この風潮に引きずられ、ほとんど司祭から小教区を独立させ、支配する権利を冒し、或いは彼らの条件をのみ込ませ負担をかけている。これらは悪い酵母で、将来に懸念を残すものである。

 我々は過去と同じように、良い種を蒔くことを続けている。しかし、育つに遅く、収穫を長く待たねばならないだろう。信者の子供の出生は多いにもかかわらず、カトリック人口はその割には増加しない。次第に町は田舎の人々を引きつけている。もし建築作業場や他の工業で注文が無くなると、その労働者たちは彼の家族を養うために移動し、移動した宣教地区に新しい集落を作るのである。

 広島、大阪、東京の宣教地区の製糸工場には長崎教区出身の娘たちが100人もいる。男性は炭鉱に働きに行く。隣の同僚の宣教師たちはこの青年たちの信仰が曇らないようにと献身的に働いている。しかし、この異教徒の真っ只中で、休日が23日だけに限られているために、日曜日を守ることは非常に難しい。

 今年、130人のカトリック信者がブラジルへ移民した。献身的で勇気のあるドミニコ中村師がこれらの彷徨う子羊たちの良き牧者となった。これはブラジルのサン・パウロの教皇使節の好意ある許可によるものであった。
 
                     
                     
                     
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