ヤヌワリオ 早坂司教

 
 
 

下五島の堅信

 昭和3年、長崎教区長となられた早坂司教さまは、昭和4年、昭和7年、昭和10年と三度、下五島を訪問され、2週間ほど滞在されて各教会を巡廻され、堅信の秘蹟を授けられました。

(1)昭和4年5月5日、堂崎天主堂で145名、7日、浜脇天主堂で97名、9日、楠原天主堂で109名、12日、岳天主堂で173名、14日、井持浦天主堂で85名。

(2)昭和7417日、浜脇天主堂で83名、19日、堂崎天主堂で156名、21日、水の浦天主堂で146名、24日、岳天主堂で223名、25日、井持浦天主堂で129名。

(3)昭和10825日、堂崎天主堂で130名、27日、浜脇天主堂で74名、29日、楠原天主堂で100名、91日、岳天主堂で184名。

 当時、長崎・下五島間は、長福丸(526トン)が就航していた。大正15年建造の鋼船でまだ新しく、船内はきれいではあったが、10時間以上を要した。司教さまは、福江に着かれると、堂崎、久賀島、水の浦、三井楽、玉之浦の各教会を順次、船で廻られた。信者は、3年に1度の司教様の来訪を楽しみに心待ちしていて、港々では漁船に旗を立てパレードしたり、楽隊が出迎えたりの大歓迎で出迎えた。岳教会では主任の西田神父さまが馬を用意してあり、早坂司教さまは馬上の人となられたが、そのとき始めて馬に乗られたそうである。昭和10年の訪問の際は、同じく西田神父さまは、2年前(昭和8年)、脳溢血で倒れられた病後の司教さまを気遣い、駕籠を考案して用意させ、波止場から教会までお迎えした。司教さまは巡廻訪問の際、厳しい日程の中で堅信の司式は勿論のこと、教会や墓地等の祝別、修道院訪問、講演会での講演等もされました。司教さまは、教会建設にも熱心で、教区長在任中に佐世保三浦町、下神崎、紐差、馬込、浜脇などに鉄筋コンクリートの大教会を次々に建設されました。
 
 

下五島の各教会は、明治13年頃に建てられた木造建築で、築50年経っており老朽化がひどく、建築がいそがれましたが、昭和恐慌によって信徒の生活は困窮していた。

昭和4年、下五島を巡廻された司教さまは、カトリック教報で岳天主堂に触れて、「・・ここも同じく狭い、古いというので聖堂改築の機運にせまられているがやはり財政上の困難で青息吐息の惨状である。それでも宿老たちは大いに奮発して10年計画のもとに聖堂改築の決意を示されたのは心嬉しき次第である。自分の教会は自分で心配するのが当然だという思想が信者の頭の中に徹していることは感謝に堪えない。」 と、司祭や信徒の奮起を促されています。昭和7年の巡廻では、同じくカトリック教報で、水の浦天主堂と岳天主堂に触れ、水の浦天主堂については「・・実際天主堂と呼ぶさえ恥ずかしいほど惨めな廃墟同様となっているのであるが、新任少壮の浜田神父は昨年転任以来営々として、その改築運動に熱中せられ、司教さまのこのたびの御巡廻に際し記念として、1年でも早く神殿に相応しい天主堂の改築に協心一致着手するよう信者一同が決議せることを内心非常に歓び、深くこれを天主に感謝せられている。」と叱咤激励されています。

(カトリック教報、昭和4615日・第16号、昭和761日・第78号、昭和10915日・第166号)
 
 

カトリック教報、昭和4615日、第16

 

5月5日堂崎天主堂で早坂司教さまを迎えて午前9時〜11時まで死者のための祈祷、説教、堅信、ミサ聖祭などがあった。受堅者は145名、聖体拝領約550名で実に盛大であった。堂崎管轄の信者は福江、浜泊その他の地方から参集したので、勿論信者は聖堂内に入りきれなかった。午後から浜泊の新墓地祝別式もあり多数の信者はこれにも列席した。

 司教さまには続いて奥浦慈恵院をご訪問なされたが、29名の老若修道女たちは嬉々として司教さまをお迎へ申し、育児、農業、養蚕、機織りなどの各事業をご紹介申し上げた。

 

ちなみに奥浦慈恵院では年々育児事業が発展しつつあるにかかわらず、その維持経営に経済上の後援が不自由分なのを遺憾とし、最近主任司祭出口神父様の賛助と指導のもとに、福江教会内の敷地である信者の経営していた製麺、精米事業を譲り受け奥浦慈恵院後援会の名目もとに修道女約78名福江に出張して朝夕製麺事業に忙殺されて働いている。動力を運転して製麺、精米等の各部に粉に包まれ汗に滲んで働いている修道女の有様は誠にけなげな者である。社会事業に奉仕しようと努力いたらざるなき献身心的精神は、げにや祝せられかし。

 

 

 56日には司教さまは浜脇天主堂に渡られ、村助役、3小学校長、村会議員、警官等を引見ご挨拶を交わされ、午後からは赤仁田教会の祝別が行われ、続いて永里教会をご訪問、それから久賀島ご訪問、それから久賀島浜泊の山頂に新設された墓地をも祝別されて帰途細石流教会に立ち寄られた山また山の各教会を健脚にも毎度一番乗りなさる元気には清水神父さまも信者も皆喜んだ。細石流から浜泊教会に帰着した時は午後の8時で随行の片岡高俊老神父は疲労の重き足を引いて暗闇の山路を見えない目であえぎあえぎたどり着いたのがしんがりだった。

 

 

 翌57日午前には浜脇天主堂で97名の受験者あり、約350名の聖体拝領者で賑わった。浜脇天主堂は腐朽しかけているに狭隘で今は改築に迫られている。

主任司祭の清水神父様は信者一同を督励して資金を募集し来年度中には是非五島最初の鉄筋コンクリートの聖堂を新築して見せるとてただ今夢中になっておられる。信者もこれに力を得て必要な敷地を寄付したり、土木工事に奉仕的に働きに出たりしてその準備最中である。来年中には浜脇天主堂も新築出来上がって見上げた天主堂となることだろう。

 59日には主任司祭青木神父さまの所管なる楠原天主堂で同じく109名の受験者であった。1911年に只今の福岡司教なるチリーさまがまだ宣教師で楠原におられた時お建てなされたという煉瓦造りの立派な聖堂がある。貴重な遺産でこの地方には見受けられない堂々たるものである。この日の午後にはこの地出身の一信者の寄贈にかかる仏国製の釣鐘の祝別が行われた。近々中には鐘楼もできることであろう。

 

 

 510日午前には好晴を祝しつつ司教さまには山路を越えて水浦天主堂を訪問せられた。この天主堂は五島でも最古の一つで木造であるがため甚だしく腐朽しているので青木神父さまはじめ信者一同は改築に非常な心配をしておられるが如何せん資金欠乏のためいまだその緒に着くこともできず腐心最中である。こんなに廃頽している聖堂は御聖体に対してももったいない次第であるから一日も早く改築の運びにいたらんことを望む次第である。

 511日好晴に恵まれ司教さまは楠原より三井楽教会に渡られた。山頭神父さまによって組織せられた楽隊が岐宿までお出迎えにきており、そこより船で高崎に渡られた。

 

 

11時にご到着なさるや現主任司祭の西田神父さまは多数の信者を引きつれ3頭の馬を用意して海岸で司教さまを迎えられた。馬上の人となって高崎から岳の天主堂まで山路をたどって行かれたが得意の人は片岡高俊師のみで、ことに司教さまには生まれて初めて馬に乗られたそうで楽隊の音に驚く馬の背にあって「自転車に乗るより少し難しいし気味も悪そうだ」と仰せられたが幸に土産の小作りな馬で落ちても怪我をしそうでもなさそうなので安心されたと見え上出来に終わられた。西田神父さまにはこの天主堂に赴任されてから、まだ半年にしかならぬが病人訪問のときたびたび乗馬なされるので只今では大分得意のようであった。

 

 

512日午前8時半から11時までかかって岳天主堂で溢れきったほどの信者の集まりの中、堅信のミサその他の祭式があったが173名と言う多数の受験者があり約7百名の聖体拝領者があった。ここも同じく狭い、古いというので聖堂改築の機運にせまられているがやはり財政上の困難で青息吐息の惨状である。それでも宿老たちは大いに奮発して10年計画のもとに聖堂改築の決意を示されたのは心嬉しき次第である。自分の教会は自分で心配するのが当然だという思想が信者の頭に徹していることは感謝に耐えない。

 

 

かくして513日午後1時岳教会を辞して例により多数の信者と岳教会の音楽隊とに見送られて、柏に出で、そこから迎えの船で玉の浦井持の教会に出帆した。船から船へ島から島へと渡り歩く五月の旅は実に楽しい。ことに波静かなる好日和の船路は緑なす五島の崎謳たる山岳を眺めつつ人知れぬ詩と歌との湧き出る感じがする。うぐいすはうららかに谷間をさえずる。清き心は司教を迎える信者の胸に溢れる。崖には名も知れぬ美しき花が薫る。ああ恵まれたる自然よ、慈母たる天地よ、神をたたえよと叫びたい。

 

 

井持教会についたのは午後4時半であった。早速聖堂とルルドとに参詣した。井持のルルドそれは我々長崎教区人には余りにもよく知れ渡っているが、しかして年中巡礼者はほとんど絶えないが、これを望むらくは日本全国の巡礼地にしたいのである。今の世に奇跡が入用である。不信心な日本人の立ち返りのためには超自然的な異現象が欲しい。ここのルルドで奇跡に類した現象のあった事は聞かないでもない。それをもっとたびたびもっと深刻に欲しいのである。信者の熱心さへ募り、サンタ・マリアへの念願が燃えてきたなら、井持のルルドは日本全国の巡礼地となるだろう。しかして多くの異教者の改心の導火線となるだろう。

 

 

5月14日午前8時半からこの地の天主堂で85名の堅信があり続いて玉の浦を訪問した。この玉の浦には過般大火があって目抜きの場所は焼けてしまったが只今は再築に着手しているところが多い。信者も9戸まで類焼しているので気の毒であるが、それでも長崎からは勿論東京の訪問童貞会、秋田の聖霊愛子会等からご同情を得たことを深く感謝しておられた。

 

 

午後3時からは聖体降伏式があり次いでルルドの洞窟の前で一同記念の撮影などをした。

主任司祭の島田神父さまは着任後永いことではないがこの地方一体に人民の貧困なるに同情せられて試験的に教務のかたわらぶどう園を小規模に経営せられ自ら研究耕作手入れなどなさっておられる。要はいかにせば五島の猫額大の土地を最も有利に使用して人民をしてその生活に安じさせえるかのご研究である。同感の至りである。ご成功を祈る。

515日午後1時半にはサンタマリアの巡礼地井持天主堂を発して再び船で送られて中須に行った。そこから自動車をかりて3時半福江に帰着、再び出口神父様に迎えられ、16日は富江を視察してその夜再び福江より長福丸にて長崎へ帰った。

 
 

カトリック教報   昭和76月1日   第78

 

下五島の堅信

 本年は4月に下五島一体の堅信の秘蹟が早坂司教さまによって授けられることとなっていた。その概要は左の通りである

(1)  4月17日久賀島浜脇天主堂において、清水神父所管の久賀島全島の受検者83名。

(2)  4月19日堂崎天主堂において田川神父所管の奥浦村及び福江教会の受検者数156名。

(3)  4月21日水の浦天主堂において、浜田神父所管の岐宿村一園の受検者数146

(4)  424日三井楽村岳天主堂において、にしだ神父所管の4教会の受検者数223名。

(5)  425日玉の浦井持天主堂において、玉の浦一園島田神父所管の信者中より受検者総数129名、以上5教会における受検者総数737名。

 

 なお、司教さま御来島の機を利用して

(A) 久賀島では島民一般のためカトリック講演会と音楽会とを開いた。久賀村長藤田氏と久賀尋高小学校長との厚意により、4月16日司教さまご到着早々午後3時より久賀小学校校舎において全島民の思想善導のため司教さまには約一時間半にわたり、日本における思想悪化の原因は無宗教教育にあること、倫理道徳も国民精神も確固たる宗教信仰にその基礎をおかなければ永久性を帯び得ないこと、日本における武士道の退廃も不幸にして明治以来その基礎を誤りなき宗教に置くことをあえてしなかった罪によること、しかるに確固たる誤りなき宗教は人為的宗教では求めて得られざること、限りある人智以上に無限智の啓示をかろずんば真の宗教−動揺せざる信仰は求められざること、無限智の啓示に基づいて出来上がった宗教はわずかにカトリック教あるのみなることなどなどを4教場、ぶっとうしの大広間約一千の聴講者の前で熱弁を振るわれた。久賀島の教育者久賀本校職員勿論、蕨及び田ノ浦小学校職員一同も参列し、村会議員、青年団、処女団などあらゆる有志に多大の感動を与え、かつカトリック音楽団の声楽も地方人清爽妙地の域に恍惚たるの心境を呈した。

 
 

(A) 4月18日午後2時からは堂崎天主堂の裏手に新設せられたる墓地の祝別式が早坂司教によって行われた。同地は天主堂より約10分ほど隔たりたる高地で風光絶佳実に永眠するに最も適した土地である。

(B) 水の浦天主堂は腐朽荒廃ほとんどその用をなさざる状態で多年改築の儀が持ち上がっていたのであるが、幾代かの神父がそのために心労しても今なお実現の曙光さえも見ないで憐れな残骸を止めて今日に至っているのであるが−壁が落ち天井は破れてもその修繕さえも施さずに実際天主堂とよぶさえ恥ずかしいほど惨めな廃墟同様となっているのであるが、新任少壮の浜田神父は昨年転任以来営々としてその改築運動に熱中せられ、司教さまのこのたびの御巡回に際し記念として1年でも早く神殿に相応しい天主堂の改築に協心一致着手するよう信者一同が決議せることを内心非常に歓び深くこれを天主に感謝せられている。

(C) お隣の三井楽も、水の浦天主堂ほどではないまでも、改築期に迫っていることは、いずれも皆感じている。ことに同天主堂は2千5百有余の信者を収容するにはあまりに狭い。大祝日には半分の信者は外にたちんぼうして窓口玄関先などよりミサを拝聴している有様で改築の急務なることは一同痛感している。ただ今日の不景気はいかにせんの観なきあたわずだ。心ははやれども資金がない、どこも同じ秋の淋しさである。

 五島一園50余年に建てられたる木造の天主堂は、九州全島にはびこる白蟻の犠牲となって、さなきだに見る影もない残骸をとどめるに過ぎないことはともどもに遺憾の極みである。信者が貧窮のどん底にあり教区が何ら経済的にうしろだてを持たぬときては手の付けようもない。

(D) 三井楽天主堂は比較的善く保存されてる所だが、日本のルルドと称したいほどあの洞窟のマリア様が教区内は勿論教区外からも年々多数の参詣者を吸収しているにかかわらず、あの参詣者宿泊所のみすぼらしさよ、木賃宿もこうまでとは思われぬほどである。すべてが物質的にも改善すべき余地は充分ある。信者一同の奮起を用紙世間一般の力ある後援を期待する次第である。

(E) 4月26日、井持てん主導よりの帰途福江天主堂に立ち寄られたる司教さまには午後7時より福江座において公開演説会を開かれた。福江教会創立以来初めてのカトリック講演会である。先ずは処女団の音楽会を持って始まり、7時50分より9時10分頃まで、早坂司教さまには、先ず日本の国体の精華と武士道によって体現せられたる日本国民道徳の崇高さとを賞賛せられ、これに反し現代にあっては往々にして権利にはむかい社会の秩序を紊乱(びんらん)し上下貧富の差別さえも撤廃せんと、暗々里に策動謀計やむなきやからの族出を痛嘆せられなお国民道徳の影うすく武士道の今日骨董化せるを遺憾とせられこれが救済の任は忠良なる我々日本人自身にあることを力説し、正当なる権利の尊重と社会の安寧秩序の保存と上下の協力と国体の擁護の急務なることを痛論せられた。


これにはカトリック教の権利主義と博愛精神の適所なること、否唯一の救済、真正の王道なることを説破せられた。なお国民道徳及び武士道の衰滅は物質文明への心酔、唯物主義の産物なることを説かれ、これに対抗しえるのは、ひとり精神主義を高潮し霊によって活きることを教え且つ実行しつつあるこれまたカトリック今日によらざるべからざる所以を説得された。福江は五島の都会だけあって比較的知識階級の集中せるところだが、カトリック教の初めての公開演説会のこととてなおまた宣伝そのよろしきを得たこととて、官吏、教育者、有志等ほとんど全部謹聴せられたことは大いに慶すべきことであった。約一千の聴衆を得たことは何らかの収穫の先駆けであるだろうことを祈る次第である。

 
 

カトリック教報   昭和76月1日   第78

 

下五島の堅信

 本年は4月に下五島一体の堅信の秘蹟が早坂司教さまによって授けられることとなっていた。その概要は左の通りである

(1)  4月17日久賀島浜脇天主堂において、清水神父所管の久賀島全島の受検者83名。

(2)  4月19日堂崎天主堂において田川神父所管の奥浦村及び福江教会の受検者数156名。

(3)  4月21日水の浦天主堂において、浜田神父所管の岐宿村一園の受検者数146

(4)  424日三井楽村岳天主堂において、にしだ神父所管の4教会の受検者数223名。

(5)  425日玉の浦井持天主堂において、玉の浦一園島田神父所管の信者中より受検者総数129名、以上5教会における受検者総数737名。

 

 なお、司教さま御来島の機を利用して

(A) 久賀島では島民一般のためカトリック講演会と音楽会とを開いた。久賀村長藤田氏と久賀尋高小学校長との厚意により、4月16日司教さまご到着早々午後3時より久賀小学校校舎において全島民の思想善導のため司教さまには約一時間半にわたり、日本における思想悪化の原因は無宗教教育にあること、倫理道徳も国民精神も確固たる宗教信仰にその基礎をおかなければ永久性を帯び得ないこと、日本における武士道の退廃も不幸にして明治以来その基礎を誤りなき宗教に置くことをあえてしなかった罪によること、しかるに確固たる誤りなき宗教は人為的宗教では求めて得られざること、限りある人智以上に無限智の啓示をかろずんば真の宗教−動揺せざる信仰は求められざること、無限智の啓示に基づいて出来上がった宗教はわずかにカトリック教あるのみなることなどなどを4教場、ぶっとうしの大広間約一千の聴講者の前で熱弁を振るわれた。久賀島の教育者久賀本校職員勿論、蕨及び田ノ浦小学校職員一同も参列し、村会議員、青年団、処女団などあらゆる有志に多大の感動を与え、かつカトリック音楽団の声楽も地方人清爽妙地の域に恍惚たるの心境を呈した。

 
 

(1)  水の浦

    常に優秀な信者を造るのを唯一の目的として粉骨砕身していられる浜田神父さまは、この日あるを期して、公式の初聖体、並びに堅振を受ける児童に口答及び筆答の両試験を行いできの悪い児童は容赦なく、ふるい落とされた。市の数も実に少なくなかった。またそれだけ及第して3日間の静修をなし、罪を洗い清めて8月25日に初聖体を済ませた児童の心は、多大の喜びにあふれていたことは察するにがたくない。

   28日に久賀から水の浦直行のはずであった司教さまは、天候の不良のため、久賀より福江に渡り、その日の夕暮れ、自動車で岐宿においでになった。明けて29日に二百十日前の空模様を見せて、烈風が吹きすさんでいる。聖霊降臨の日が偲ばれて堅振には絶好の日和だ。ウエニ・クレアトルの歌に式は始まり、約百名の児童は祭壇の前の椅子に腰掛けられている司教様の前に二人づつ跪いて堅信の秘蹟を授けていただいた。試験には及第し、今日また堅振の秘蹟を授かり、霊的に一人前の兵士となった彼らの心にいかなる喜びと感謝とに躍っているのであろうか。午後の聖体降服式をもって記念すべきこの日はめでたく終わった。

(2)  三井楽

    三井楽天主堂では9月1日の日曜日に堅振の式が行われた。平素は岳、貝津、嵯峨の島、姫島の4つの分かれている当教会の児童も、岳の天主堂に集まって数日にわたる黙想に心を清め公式の初聖体をすませて、司教様のおいでを待つのであった。今年は特に西田神父さまの肝いりで8月29日に行われた初聖体には、男女児童が服装を一定し女児には花輪を載せるなど、それはそれは盛大を極めたもので、常に田舎びて見える子供たちもこの日ばかりは地上の天使かと思われるほどで、堅振の際にも、同様の天晴れな姿で聖霊のたまものをいただいた。

 信者一同は気遣われていた司教様のご健康が回復し、このたびその温顔に接することができるというので、首を長くして、その御光来を待ちわびた。なお司教様のおいでの際少しの不自由もなからしめるため、一つはまだすっかりご全快までにいたらざる司教様のためを思い、信者等は神父さまと協議し、昔の大名風の駕籠を考案して出迎えの際は新村部落の人が司教さまを交代でかつぎ上げることにする遺漏なく準備を整えた。

 荒れていた天候も司教様の御巡回の順序を狂わすことなく、司教さまは30日の朝、水の浦を出発して三井楽の高崎に着かれるのだという。いよいよ30日の10時頃になると一隻の発動船が高崎の近くに見えた。西田神父さまは馬にうち乗りて高崎の浜に馳せつける。新村の人等は容易のかごを担いで走り出す。その前後の群集が同じ方向に向かって流れる。高崎について見ると発動船は防波堤に横付けにになり司教さまはまさに御上陸になろうとしておられる所だった。早速用意の駕籠にうち乗り、砂浜を通り越し、丁度道普請に出ている信者に駕籠の上から祝福しつつ三井楽天主堂に御安着になった。それまではよかったが午後になると、今まで元気で初聖体をすまし、司教さま歓迎に忙殺されていた西田主任司祭が突然病床にふされた。信者等の驚きはひとかたならず、神父さまの胸中もまた察するに余りある。幸にも田川神父さまが司教さまに随行されていたので、西田神父さまに代り司教様を補佐して無事この式をすますことができた。

 9月1日、日曜日8時半司教様はミサを執行されて後、田川神父さまが受堅の児童及び他の信者に聖体を配られた。小憩後、ウエニ・クレアトルの歌もて堅振の式が始まり184名の受堅者は新たにキリストの兵士としての印象をその魂に刻まれた。続いて聖体降服式があり、後一同聖堂がわに集まって、司教様に向かい遠路をいとわずこの三井楽までお越しくださった労を謝し、また堅振によって頂いた聖霊の賜物を利用して、神の光栄の発揚に勤めんことを誓った。司教様は立って、自分が百八十四名と言う多勢に堅振の秘蹟を授けたにもかかわらず、少しの疲労をも覚えなかったのは、健康の回復した証拠として喜ばれ、堅振を受けたものの進むべき道を示しなお自分の健康の回復を祈るよう願われた。それから記念撮影をして散会した。この間に西田師の御顔が見られなかったのは返す返すも遺憾の至りで、一抹の寂しさを味合わされた。よく2日司教様は多数の信者に見送られて駕籠で浜の畔に行き長福丸に乗って長崎へと向かわれた。
 
 

公教要理

 堅信の式は小学校尋常科6年から高等科に在学中の児童、生徒で要理を修めた者が堅信の秘蹟を授かった。この秘蹟は3年目ごとに行われた。堅信の秘蹟を受けて、一人前のカトリック信徒としての位置づけとともに、社会人としての門出が祝福されたという。

 堅信の準備は、小学校に入学して初聖体を受けてから、堅信の志願者となり、公教要理を勉強した。

 堅信を受けるものはその前に公式初聖体があった。これも昭和30年代から重要視されなくなり、現在はほとんど行われていない。

 公教要理の勉強は、「けいこ」といって、公教要理1冊をどこから質問されても答えることができるまで徹底的に記憶させられた。だから子供たちは家に帰っても食事をする時間さえ惜しんで、ただただひたすらに暗記した。このような教育は戦時中も戦後も行われていた。週に2、3回、特に夏休み中は厳しかった。

 また堅信前はしばしば教え方が、模擬試験を行い最終的には司祭の試験もあった。さらに、堅信の前日か、都合によっては堅信の当日に、山口大司教自ら数名を選び公教要理の中から2,3の質問をされることもあった。しかし、これは司祭、カテキスタ研修会(昭和47年)で、この習慣をなくして欲しいと要望し、それ以来大司教は不本意ながら取りやめることになった。

 堅信を受ける試験にパスするか、しないかは子供にとっても大人にとっても大変な関心事であり、子供も両親も真剣だった。だから学校で公教要理を開く子供もいたのである。田舎では木に登り、セミのようにお互いが声を出して暗記していたまた相互に質問をしたり、答えたりして試験に備えていたのである。

 「覚えの良い子と悪い子がいて、覚えの悪い子は本人も親もそりゃ大変だったよ。覚えきらんで泣き出した子もいた。当時は神父さまも厳しくてこわかったもんね。」子供の頃、母に聞いたことがある。

 
                     
                     
                     
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