ヤヌワリオ 早坂司教

 
 
 

昭和4年から毎年6月の聖体の祝日には、浦上天主堂から神学校(現在の聖フランシスコ病院)まで、司教さまが聖体を捧持されて、聖体行列が行われ、市内の各小教区からも多数の信者が参列。浦上の音楽隊が聖歌を演奏するなど、盛大に行われるのが恒例となっていた。これは戦時色が強くなるまで続けられた。

 

浦上信徒総流配60周年記念祭

 明治2年に、浦上信徒3394名が全国に流配されて、60年、昭和5(1930)1214日、総流配60周年記念祭が早坂司教司式の下、生存者420名のうち、400名が参加して、盛大に行われた。

 浦上音楽隊の奏楽のもと司教さまが入堂され、荘厳ミサが行われた。

(神の家族400年より) 
 
 

昭和6年(1931)関東軍による満州事変を契機として、上海事変、515事件、満州国建国、国際連盟脱退と急速な侵略政策に、日本国内の思想、言論統制は強化され、ファシズム的国家主義が強くなっていった。こうした中、昭和7年(1932)5月5日、上智大生の靖国神社参拝拒否事件が起きた。新聞はこれを取り上げ、この事件をきっかけに陸軍大臣が「キリスト教は日本の国体に相容れない外国の宗教である。邪教である。売国奴である。外国人宣教師はスパイである。」などと発言したりして、反キリスト教の世論が高まっていった。(日本教会の光と影 森一弘)

奄美大島のカトリックの布教は、明治25年から始まったが、長崎教区の中村長八神父(奥浦出身)や浜端神父(水の浦出身)の活躍で信徒数が飛躍的に伸び中村神父が島を去る大正12年頃には、信者は約4000人にもなっていた。昭和2年に長崎教区から分離、鹿児島知牧区として設立され、フランシスコ会(カナダ管区)に委託された。奄美大島は沖縄と共に軍の要塞地であったこと、フランシスコ会の宣教師たちが、カナダ人であったことから、軍は愛国義勇軍を組織して教会の破壊や信徒への弾圧、脅迫を続けた。昭和9年は、大島高等女学校は自主廃校に追い込まれた。カナダ人宣教師は「スパイ」の嫌疑をかけられ全員島外へ脱出して、奄美大島は神父不在となってしまった。(奄美大島100周年記念誌)

長崎教区には軍事要塞があり、迫害の危険を回避するため、昭和10年2月23日、早坂司教は、教区の司祭に宛て、次のような要旨の訓令を出された。イ、国体の尊厳を徹底して教えること。ロ、神社の団体参拝には宗教的異議がないから許可するのであって、軍部の重圧に迎合する教義の変更では決してない。稲荷神社などへの参拝は拒否しなければならない。ハ、国に殉じた御霊に対して祈るならば、神仏式で行われる招魂祭や慰霊祭であっても参加して構わない。ニ、国防献金、慰問金品などは、社会的宣伝効果があるように積極的に行うこと。(カトリック中央協議会福音宣教研究室編、歴史から何を学ぶか)

早坂司教は、昭和10年5月18日、奄美大島に松下神父を派遣、おくれて萩原神父を派遣された。松下・萩原両神父は、迫害下の信徒を訪問し励まして伝導した。(奄美大島100周年記念誌)

昭和11119日、ローマ布教省から鹿児島知牧区を日本人に委託する指令が出され、12月3日付、山口愛次郎師が鹿児島教区長に任命され、1220日着座した。

2)「カトリック愛国飛行機」献納

223日、早坂司教によって、司祭に対する訓令が出されると、331日には、九州4教区長教書、425日には、全日本教区長共同教書が発表された。九州4教区長教書の要旨は、イ、天皇に忠誠を尽くし、国のため祈ること。ロ、日本は万世1系の天皇が統治している国である。ハ、祝祭日には必ず日章旗をかかげ愛国心と忠誠を表すこと。ニ、カトリック教会に対する中傷が増えてきているから非難されたり、誤解されないようにすること。ホ、外国人宣教師の国籍がどこであれ、生国も政治・軍事とは一切関係してないことを機会あるごとに明らかにすること。であった。

全日本教区長共同教書は、この内容に更に2点加えられた。イ、外国人宣教師は布教地の教会が独立自足できるようになったらいさぎよく立ち去る覚悟なので信者は充分協力すること。ロ、日本カトリック教徒が国を愛しているというまごころを表すために当局に飛行機を献納したいので司祭、修道者、信徒の賛助と努力をお願いする。飛行機献納の呼びかけの発起人は、早坂司教を代表者とする「長崎カトリック兵器献納会」だった。(福音宣教の過去と未来、佐久間勤・編p235

昭和11315日の長崎カトリック教報および同年7月5日の日本カトリック新聞には、「非常時日本のカトリックとして愛国機を献納してはどうかという意見が出され、全国の司教、教区長様方の意見の一致をみたので昨年来それぞれ醵金につとめていたが、52千円が集まり、陸軍と海軍に分け、陸軍には傷病兵輸送のための小型飛行機購入費として3万円献納された。」と記されている。

軍部のカトリック弾圧が日に日に強まっていく中、カトリック指導者たちは、天皇を中心とした国家主義を積極的にとなえ愛国心と信仰が矛盾しないことを教書として、信者に発表し誤解を避けようとした。こうした指導者たちの賢明な努力によって迫害は回避されたものの長い禁教政策で洗脳されてきた国民のカトリックに対する態度は冷たかった。

 
 

新年を祝う  昭和71月1日  早坂司教

 今や我が日本は内外の国難に際会して多事多端である。外に満州事変があり、国際連盟に対する折衝がある。内には財政経済国難があり思想国難がある。その一つとしていまだ徹底的に善処し画策して成功しておらないのである。上下共にあせって入る。しかし決勝点は前途遼遠である。

 思うに内にあり外に処するというもひっきょう眞人の純且つ賢なる力に待つより他に道はない。眞人はよく己を知り他を知る。眞人は自然界と人類社会とに上下の差別と階級とがあるのを知っており且つあるべきことを認める。眞人は命じ且つ服する。眞人はその分をわきまえ且つそのところに処して過ぎないようにつとめる。

 カトリック教は眞人教育である超自然的光明に照らされ導かれての眞人教育である。しかしてこのような眞人の純且つ賢なる力を幸に大過なく発揮し活躍させることによって、その人をますます純真、賢明、勇敢ならしめる教えである。家庭に対してますます相愛、互助、和平、円満ならせる道である。国民をしてますます忠良、穏健、勇武且つ献身犠牲の精神に燃えるものとする基である。

 でよ我々カトリックがここに勇躍すべきときが来た、新たに活動すべき年が恵まれた。純にして且つ賢なる人が真に新たに生まれなければ、国も家庭も己も救われないのである。カトリック教によらなければ純にして且つ賢なる人の生まれいづるは至難である。あるいは不可能であろう。

 われらは国を愛する家庭を愛するまた己をも愛する・・・真の意味で純なる心で!この愛の表現に一光彩を放つため新しき年、新たなる生命が恵まれた。待たれるものはただ活動のみである新年はこの意味において恵である。貴重なるみ恵である。
 



  
   
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