ヤヌワリオ 早坂司教

 
 
 

早坂司教ついに引退

 早坂司教は、3年前病魔の冒すところとなり一時は再起を気遣われたほどであったが極力静養につとめた結果、漸次ご健康を快復し重要聖務を執る上に妨げないまでになった。しかしながら今日もなおご快癒までに至らず、いよいよ多端なる教区の事務管掌に多大の困難を感じローマ聖聴に教区長解任を請願中のところ去る月8日付布教聖省令をもって長崎司教職を解かれあらためて小アジア・フイロメリオの名義司教に命じられた。後継司教の任命を見るまでは暫時神学校長浦川師が布教聖省より教区の管理を命じられ、220日滞りなく事務引継ぎを完了し、翌21日(日曜日)浦川教区長は大浦司教座聖堂において教区顧問及び司祭多数の参列の下に無事着任式を終了した。

 早坂司教は、昭和3年、わが国最大の信徒数を擁する長崎教区最初の邦人司教に任命され、わざわざローマに招かれて、教皇ピオ11世聖下ヨリサン・ペトロ大聖堂において司教に叙階されたことは、カトリック布教史を飾る未曾有の盛事として今に消えない印象をカトリック世界の外にまで残している。翌4年長崎に着任と共に、教区全民の絶大の仰慕一身に集めて教勢の伸長に営々として倦むことを知らず、補助伝道機関の養成、新聖堂の建設、邦人童貞会の創立等の純布教事業遺骸にも託児所の託児所の設置、各地の幼稚園、純心女学校の経営、飛行機献納金募集など社会事業、教育事業、愛国運動などあらゆる方面にわたって鋭意5万信徒司牧の当てられた。しかるに昭和8年不慮の病に襲われて以来、健康優れず毎日の繁務掌握に耐えずついに今日の如く引退のやむなきに至ったのである。

(カトリック教報、昭和1231日、第201号)

 

早坂司教送別会、教区司祭全員参加

 長崎司教館から通達された早坂司教ご引退の報を受けて全教区は事の以外に驚き各地の主任司祭は急きょ大浦の司教館に参じて、司教今回のことに心から愛惜と同情の意を披瀝した。223日は司祭全員参集、午後6時から司教館において家庭的送別会が催され、神の光栄の為に苦楽を共にすることここに9ヵ年、今や決別を前にして非愁の情深いものがあり、臨時教区長浦川師先ず教区を代表して挨拶を述べ、司祭団中の長老松川師、壮年代表脇田師かわるがわる立って送別の辞を述べれば、司教は司祭団の協力に対し深謝され、大いなる犠牲の地長崎に愛着の情を寄せ、最後の司祭団のささやかなる贈り物を納められた。

 明けて24日、司教は司教館を辞するにあたって今一度司祭一人一人と決別の抱擁を交わされ午後5時上海丸に便乗、名残を惜しむ数百の信者に見送られ。神戸経由仙台へ向け出発された。教区司祭団を代表して、松岡師が神戸まで随伴した。
 
 

早坂司教さまは、上背は低い方でしたが、上を向き、旨を張って靴音高く闊歩なさるお姿はとても印象的でありました。日本人は西洋人に比べて脚部が短いので下半身で勝負は出来ないが上半身の座高はさして変わらないのでそのほうで勝負するんだ。私は数学は全然だめな方であったが英語は得意で誰にも負けなかった。と威勢良く話してくださった。

(主の道を歩む人、中島政利)

 
 

早坂司教をお訪ねして(仙台遊記)

 司教さまのたくましい親心に抱かれ、心臓を強くもって司教邸に泊まらせて頂くことになった私は、おキト小母さんの手料理の夕食をほんとに美味しくいただいた。しかしそれより甘美に私の心を喜ばせたのは司教さまのお話の数々である。

 長崎司教ご在任中、押し売りやかたりに来る面会人に悩まされた話、洋服を着てめがねをかけ、黒鞄を抱えたというような風態の男の訪問客にそんなのが多かった話、浦岡さんがなくなられて惜しい人を失ったという話、使節秘書だった頃、岐宿ではじめて五右衛門風呂に入られて、入り方を知らないで困っているとき、ふと狭い板を1枚見つけそれを踏みつけて入るとうまくいったので、大発明をしたように主任の山川神父様に話すと神父さまから誰でもそうして入るのですといわれ呆気にとられたという話。去年の冬浦上のKオバさんが仙台にきて司教様を訪ねたので広瀬川で着た大きな氷柱を見せに連れて行かれたという話。K神父様から近いうちに仙台にくるという便りがあったので嬉しくて3度もおキト小母さんに読んで聞かせられたという話。お年寄りのH神父様とN神父様がはるばるここに来られて、見渡すかぎり蒼茫たる仙台平野の田畑の広がりに大いに驚かれたという話。などなどここには到底書き記すことが出来ないほどのお話を元気な口調で語ってくださるのであった。

 やっと食卓から離れたときもう9時半過ぎていた。司教さまは私に「風呂に入れ」とおっしゃった。私は「後でいただきましょう」といった。「ではあなたの寝室を作ってあげましょう」とおっしゃりながら2階に上がられるので私もついていった。2階六畳の間におキト小母さんが夜具をしつらえ、十二畳敷き用の大きな蚊帳をどう釣っていいかもてあましているところであった。

 司教さまは、「それはこうしたらいい」と、蚊帳を半釣りにして具合よくやってくださいました。

 
 

早坂司教は、長崎教区長として在任10年間に最初の邦人司教区のために努力し多くの業績を残した。

1.   司祭叙階13

1928年古川副司教ほか4名を最初に叙階した。

2.   教会建設

佐世保三浦町、下神崎、紐差、馬込、浜脇などに鉄筋コンクリートの大教会を次々に建設した。

3.   修道会

純心修道会の創立、聖脾姉妹会のバラ修道院を設立した。

  聖母の騎士やフランシスコ会を招いて布教にあたらせた。

4.   カトリック教報の発刊

日本最初の邦人司教となられ、昭和3(1928)425日、長崎教区長として着座なされた早坂久之助司教さまは、昭和1228日ご退任になられるまでの約9年間に、昭和4年・7年・10年と3度下五島をご巡回なされ、堅振の秘蹟を授けられた。

当時

 司教さまは、教区長に着座された半年後の昭和3年11月に「長崎カトリック教報」を発刊された。この教報は、昭和15年、軍事統制がますます厳しくなっていく中に政府の出版統制によって、第287号をもって廃刊となったが、昭和21年12月再刊され、平成12年から「よきおとずれ」と名前を変えられて、信仰のこと、教区や小教区の出来事など霊的に長崎教区のカトリック信者とってなくてはならないものとなっている。

聖母の騎士

早坂司教様の要請によって、昭和5年4月24日に来崎された聖母の騎士会の聖コルベ師は、教区神学生に哲学を教えるかたわら、来日わずか1ヶ月目に「無原罪の聖母の騎士」現在の「聖母の騎士」誌を日本語で発行された。

昭和6年5月、現在の本河内に修道院用地を購入し、聖母の騎士修道院の基礎を築くかたわら、出版物によるみ教えの伝達、邦人司祭の養成に力を入れた。

コルベ師は昭和11年故国ポーランドへ帰ったが、師のまいた聖母への信心と神の摂理への全き信頼は大きく成長し、種々の事業となって身を結んでいる。

 

長崎純心聖母会

 長崎教区が最初の邦人教区となり、ヤヌワリオ早坂久之助司教が教区長に任命された時、長崎教区司祭の要望を聞くと、長崎にカトリックの女学校を作って欲しいということであり、また当時の布教聖省ロッスム枢機卿は教育事業を目的とする日本人女子修道会の設立を強く要請された。使命を悟った早坂司教はその準備として19305月、最初の志願者江角ヤス、大泉かつみ両姉をフランスの聖心会修練院に送った。二人は4年間の修練を終えてヨーロッパの学校教育を視察し、帰国した。193469日、日本の保護者聖母マリアの汚れなきみ心の祝日に、早坂司教は大浦天主堂の信徒発見のサンタ・マリアの御像の前で、修道会を創立してこれを聖母のみ心に奉献し、「純心聖母会」と名付け、シスター江角が修道会会長に、シスター大泉が修練長に任命されたが、新たな志願者3名は福岡の訪問童貞会で修練した。

 1935年、中町教会敷地内において、「純心女子学院」が発足し、19364月「長崎純心高等女学校」設置の認可が下りると、早坂司教は家野町(現文教町)の校舎建築に着工、1937年会の本部と学校が家野町に移転した。

 
 想い出
 
 
 
 
 
 



  
   
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