献堂25周年記念想い出集
ライン


信徒会役員

三和2班 下田和広

「ふれあい・・・!」
 
 

 深堀教会が献堂して25周年になるのですね。おめでとうございます。
と言うことは、私が深堀教会に来て約20年になると言うことだ!早いな〜本当に月日が経つのは!
そして、色々なふれあいの中で教会活動や信仰する事の大切さを、色々な方から学んだ事が頭に浮かんで来ます。特に印象に残っている事を書いてみたいと思います。

 その前に、私は五島列島の浜串で生まれ高校まで過ごし、卒業後長崎に就職し滑石の寮に4年間、その後深堀の寮に変わり生活していました。始めに、その間の思い出話しを書きたいと思います。

 最初の頃、時々、教会に行っては病気の母の為に祈っていました。しかし、信者さんに仲間がほとんどいなかったことでミサが終わると直ぐ車に乗り込むと言う状態の繰り返しで、いつしか孤独感を持ち、教会から離れて行きました。

 ある日、深堀教会の班長さんが私の寮に来たので、いつものように教会費を渡して、お金の確認を済ませると、班長さんが「実家から送って来たの。下田さん、良かったらどうぞ。」と言いながら漬物を渡してくれました。私は感謝しながら戴き、早速部屋で友達と酒のつまみにしたのですが、これがすごく美味しかったのです。

 これを機会に班長さんとは来る度に色々な話をするようになりました。例えば、教会にあまり行っていないこと等を私が話すと、笑顔で頷きながら教会の行事予定を教えてもらったりして、色々お世話になりました。

 また、こんな事もありました。何気なく郵便箱を見ると“カトリック祈祷書”が入っているのです。班長さんからの贈り物かな?と思い訊ねてみると、「違います。」との返事でした。色々考えていたある日、寮で働いている信者さんと立ち話をしていたら「ところで、下田君、祈祷書見たね?祈りが変わったでしょ。」と言われたのです。私は思わず御礼を言いながら、自分が今だ教会離れをしているのに、周りの信者さんからは温かくしてもらっている私がとても恥ずかしくて、忘れかけていた信仰に目覚めて来ました。

 その頃、妻と知り合いました。そして、結婚講座を受けようと、当時の主任司祭の阿野神父様にお願い行きました。すると、「下田君!元気だったか?心配していたのだよ。」と真っ先に言われました。私は、ただ謝るばかりで、それを見ていた神父様は笑顔で、結婚講座の予定日を話されました。それから結婚講座も数ヶ月が経ったある日、神父様は妻に「今日が最後になりますが、小川さんは結婚しても続けますか?」と訊ねられました。要は宗教が違う彼女がカトリック信者になるための教えを続けますかと言う意味です。彼女は即座に「続けます。」とハッキリ答えました。帰りの車の中で彼女は「家族は皆が納得してくれたのよ。」と笑いながら私の顔を見て頷きました。私は・・・・ありがとう!!

 さて、結婚式そして晴れて妻の洗礼式が終わって、真面目に教会に行っていたある日のこと、信徒会役員の改選が有り、体育文化部を担当するようにになったのです。何せ、今まで私は教会活動にあまり参加していなかったので心配でした。

 しかし、最初の行事「キックベースボール大会」では、実施要領を作成するための体文部の皆さんとの話し合いの場には、当時副会長だった三島さんからのアドバイスを受け、大会当日には役員全員でテント張りとかライン引き等の準備作業、そしてたくさんの参加者で大いに盛り上がりました。その中、私自身信者さんと色々な話が出来たのは本当に嬉しかったのを思い出します。

 更に、3期目の時は、“家族スポーツの日”をテーマに、室内競技を行い、ゲームとかスポーツを楽しみました。そして、参加者全員で中村神父様、シスター、経済評議員、信徒会役員の似顔絵を書いてもらって、それを教会の入口に展示したのです。するとなかなかの好評で、信者さんたちから口々に「良く特徴をつかんでいるね!」等、指差しながら頷いているのを見て、信者さんたち(家族)とのふれあいを感じました。
 このように、私は活動を通じて仲間が増え、更に教会へ行くのが楽しくなりました。

 その時でした。ある役員さんから、「下田!クルシリヨに行かんか?神様といっぱい話ば出来るぞ。」と誘いを受けたのです。正直、今まで教会活動は夢中でしたが、肝心の信仰の方は?で、特に御ミサにはただ参加しているだけの私でしたので、自然な形でクルシリヨに参加しました。

 実際、期間中、感激の連続でした。感激の中クルシリヨ最後の日に自分の気持ちを書きました。それは「神様、私は、今まで家族に対し、なりふりかまわず御ミサに参加させて来たような気がします。今回、クルシリヨに参加して分かったことは、神様はもっと愛情を持って行動するようにと教えてくれた事です。これからは、家族に思いやりを持って行動しますので、お守り下さい。」この気持ちは、今でも変わりません!

 最後に、今後とも深堀教会の信者さん達とふれあいながら活動や信仰生活をして行きたいと思いますので、よろしくお願いします。
 

「思いで」

三和2班 嶽一義

 

 私が深堀に来たのは、昭和57年秋、結婚して3年目、長女が一歳半ぐらいの時で、出向先の静岡から長崎に戻って来た時でした。オイルショック後で、橘湾には大型タンカーが何隻も浮かんでいました。

 昭和60年1月、阿野神父様に祝別して頂いた晴海台の新居に引っ越しました。翌年の長女入園に始まり10年間に五人の子ども達が、深堀幼稚園にお世話になりました。入園手続きで夜明け前から並んだことは、懐かしい思い出です。また、毎年の父親参観日、運動会、遠足などが楽しみでした。それから卒園間近の頃の、初聖体の時のひとりひとりの姿が目に浮かびます。

 さて、教会の方も、昭和60年5月、新信徒会発足。顧問さんを中心に何度も会合を開いた結果、「全信徒が一人一役」を目標に、10の部何れかに参画することになりました。ユニークな部として、社会奉仕部、老病人奉仕部、祈りの奉仕部などがあり、私は広報部に入りました。このすばらしい出来事を知らせようと、単純に思ったからです。

 広報部の担当は、お知らせの新聞作りですが、部会で検討した結果、機関誌名は「ひろがり」に決定しました。しかし、現実は厳しいもので、なかなか思うようには行きませんでした。

 私は、昔ガリ版でチラシを作ったぐらいで、何分この経験がありません。原稿を集めて、ボールペン原紙の手書きからスタートです。初めての広報紙は手作りで進めましたが、各人のクセ字があり、読みにくい紙面になり、レイアウトの難しさを味わいました。原紙もビニール原紙の時代で、あれやこれや挑戦しながらの発行でした。

 しばらく経った後、阿野神父様から譲り受けた電動タイプで打つようになりました。発行前には徹夜することも度々で、その後阿野神父様の御支援で外注発行になった時の原稿集めに大変苦労したことなど、今では懐かしく楽しい思いでとなっています。

 竹谷神父様、山村助任神父様が深堀教会に着任された時は、電動タイプからワープロに変わる頃でした。しばらくは途切れていた広報紙「ひろがり」も復活することが出来ましたが、広報部員の減少に伴い、間もなく発行危うくなりました。しかし、わずか4名の部員でしたが、紙面を4分の1ずつ担当しながらがんばって発行続けることが出来ました。

 後任の中村神父様の時は継続出来ましたが、残念ながら今は休止状態です。ワープロからパソコンに変わるこの頃、苦手なパソコンと格闘していますが応用はまだまだです。これからの私の再生の課題と受け止めチャレンジ中です。

 献堂25周年、この機会に、何か1つだけ小さな決心、新しい出発をと考えています。本当におめでとうございます。献堂25周年。
 

「想いで」

深堀6班 辻原徳美
 

 私は深堀教会に籍を移して15年になります。日曜日のミサには与っていたのですが、教会の行事は役員さんがするものとばかり思っていました。
娘が小学6年生の時に井手さんから「奈美ちゃんに教会のミサのオルガン伴奏をさせんね。」と声を掛けられて、娘は現在に至っています。私自身は教会の草刈り等お手伝いをしていたのですが、中村神父様や亡くなられた山口幸雄さんから「あんたも教会の役員ばせんば!」と言われて現在3年になります。

 100回クルシリヨに、井手さんや小西さんたちから「行かんね。」と声を掛けられて、始めは断っていたのですが、シブシブ行くようになりました。しかし、あの時受けた感激は今でも忘れることはできません。また、その後にあったウルトレア劇場では、イエス様役をさせられて、とても恥ずかしかったのですが、一生の思い出となりました。

 今年はマリッジエンカウンターに行ったのですが、私は良かったのですが妻はイヤイヤながらで行くことになりました。しかし、終って帰って来ると、私たち夫婦仲は益々良くなっていました。
この深堀教会の役員さんたちは皆良い人たちばかりいるので、私も教会美化部長として一生懸命奉仕に尽して行こうと思っています。
 

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