献堂25周年記念想い出集
ライン


元婦人会役員

「想い出」

山口スマ
 

深堀教会献堂25周年を心よりお祝い申し上げます。
私の生まれは深堀小教区の巡回教会になっている善長谷と言うところです。キリシタン弾圧が激しくなったころ三重の樫山から舟で逃れて来た八家族が先祖です。山の中で水も少ないところで不自由な生活に耐えて信仰を守り続けて生きてこられたと聞いています。

 見晴らしの良い教会の庭先からは、野母半島や高島など一面に見渡され、夕陽の沈む時の光景は神の創造のみ業に触れる思いがします。
迫害がますます厳しくなり耐え切れず意見の対立が生じて四家族の人がこの集落から離れ今の大篭、岳路方面へと去って行ったという悲話が語り継がれています。

 私の住んでいた家の横に垣の山と呼ばれていたこの場所は現在信徒会館があり、近くに甚介、在八両名の記念碑が建てられています。そこは先祖の遺品として、十字架やマリア像、外国製の猟師網の3つが埋められてあったという。

 ところが岳路方面へ離れて行った人達の子孫が大嵐の夜に掘り出しこっそり持ち去り今も大切に守り神社に祭っていることは確かな事実だが、先祖からご神体は決して人目にさらしてはいけないと命じられている上に自分たちが隠れキリシタンであるという事実さえ否認して頑として事実を話そうとはしないと聞いています。

 善長谷の北側には麓の深堀に通じる古い山道があります。谷から谷へと険しい急な坂道が続いています。昭和7年小学校に入り低学年の頃は未だ迫害のようなものがあり、授業が終る頃を見計らって2、3人の人が「このクロワシウ」と言って石を投げ逃げると追いかけて来ていじめにあった頃を時々思い出します。

 熱心な両親の下で育ち学問よりも信仰教育には身をもって示し、苦しみもキリストと共に生きる姿、家族で声を大にして祈りを唱え、人に物をあげる時はイエズス様にあげることになると良く諭されました。

 昭和21年5月結婚して深堀に移り住み、かつて深堀教会はなく造船所に勤める信徒が深堀地区周辺に増加しつつあった頃月に1、2回かに捧げられるごミサに与るために額に汗して往復し年の黙想会などは提灯を片手にとぼとぼと山道を歩いたことが今だ懐かしく終生忘れることが出来ないと思います。
山道の途中に「女の坂」と呼ばれている首なし地蔵が祭られている。善長谷に移り住んだ先祖がキリシタンであることを見破られないために城山神社の清掃と「女の坂」の首なし地蔵の足元に溜まる清水をこの深堀教会が建っている陣屋敷まで運び届けることを日課にしていたという言い伝えも聞いています。

 伊王島教会の主任を辞任なされた渋谷神父様が深堀教会に着任の時は信徒一同喜びでいっぱいでした。歴代の神父様方にご指導をして頂き、三菱造船所が香焼に移り海の埋め立てが始まり山を崩した平地に四千世帯と云われるアパート群が建ち並んで信徒数も多くなりました。

 古い教会の老朽化に伴い、里脇枢機卿様の慈愛のもとに、主任であられた川口神父様にて教会を新しく建設することが出来ました。
阿野神父様が着任なされた時、私は10年間賄いを務めさせて頂き、学ぶことの大切さを肌で感じるようになり神学講座、聖書講座に通っています。 

 阿野神父様は福音宣教が盛んになるようにと部活動を作り一人一役に、それぞれの部活に入るよう進められました。私は老病人奉仕の部活に入り、2、3人で病院など訪問して口も利けない病人と一緒にお祈りすることがよくありました。祈りが終った時に見せる病人の顔の微笑みは神様を心から愛し何もかも捧げ尽くして生きておられることを私たちに教えてくれます。病人とのかかわりの中で自分の健康のお恵みを神様に感謝する毎日でした。

 これからも弱い人々と共に生き、弱い自分をイエズス様に強めていただきながらご聖体を大切に深堀教会の発展のために祈りながら生きて行きたいと思います。
 

一般

「初代教会と渋谷神父様」

三和1班 岩永千代子
 
 

  終戦後、香焼が未だ“島”だった時、深堀との間を船で往来していた。大小の船が汽笛を鳴らし、旗をなびかせて連なって走る様は見事な風情だった。その頃、鰯(いわし)網漁が全盛期で深堀の主産業だった。

 山崎安勝さん(後の市会議員)が現在の深堀教会敷地である城跡を購入されたのもこの頃である。現在の運動場に民家を建てて、居住しておられた。
しかし、次第に漁が不振になって行ったため売却され、その民家を渋谷神父様が購入され初代教会となったのである。

 これは、渋谷神父様が伊王島の馬込教会在任中、碁仲間であった中学校の吉田校長(奥様が深堀出身だったらしい)に「土地がどこかないか?」と相談したことから殿様屋敷のことが話題になり端を発したのである。
神父様は大抵黒いスーダンを着ておられ、ある時、金杯か銀杯を見せて下さったことがある。何かの報奨の様であったと思われる。神父様は月に一度上京され上智大学で講義をしておられた。

 神父様は若い頃、政府から留学生としてローマに派遣されたが、勉学中に司祭を希望するようになり神学生に転向された勇気ある青年であった。出身は岸和田市で寺院の住職の息子であった。

 深堀には昔から真宗と禅宗の大きな寺があった。特に、禅宗は十人義士とのつながりから檀家が多く、大きな勢力であった。
神父様はしばしば禅宗を訪れ、意思疎通を計っておられた。争いも無く、スムーズに当地に教会が建設されたのは、神父様の人徳のお陰である。禅宗もまた、迫害が激しい時代に信者を善長谷にかくまったり、かばってくれたりした心の広い寺でもあった。

 民家の教会は約40坪内外だったと思われる。作りは木造瓦葺きで、土間は狭く、中は薄暗い純和風の畳の間に祭壇があって、灯ろうが何時も回っていた。黒い柱が印象的であった。ミサは背面式で広い垂れ幕が下がっており、20人ぐらいの信者が正座していたように思われる。

 昭和41年頃に香焼と深堀が陸続きになり、三菱造船所香焼工場が作られるようになった。その後、県営の団地が出来たり、伊王島や端島の廃坑に伴う炭坑離職者や低所得者のための住居が確保されたりして、深堀地区の環境は大きく変わり人口も増大して行った。


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