献堂25周年記念想い出集
ライン


元経済評議員
 

「教会建設が出来る迄の想い出」

土井の首1班 林山宇佐男
 
  
 「そげーに言うたっちゃ司教様、そんなら神父様は信者をだますとですか。教会に帰って信者にどんなに説明すればよかとですか。」これは、教会建設を里脇大司教様にお願いに行った時の谷口金市さんと大司教様のやりとりです。
渋谷神父様が深堀の、あの広い土地を購入して、最初はミサをするから来られる者は来ても良いぞということになっていました。その話が広まって次第に人数が増え、深堀教会が始まったのです。でも長崎教区から認められた小教区ではなかったのです。

 教会と言っても昔の建物ですから柱や床はシロアリにやられており、御ミサの時は何時もひやひやしたものです。狭い所に大勢の人が入るのですから、床が折れたりして御ミサの後は早速修理です。修理と言っても釘が打たれない状況ですから大変でした。

 それに屋敷は広いし、今の運動場の草を刈ったり、また野菜やお花も作っておられたので神父様の手伝いをよくしたものです。また近くの民家の方々から木の枝を切ってくれと言われば切ってやったりして、当時の役員さん方はミサ後直ぐには家に帰れなかったと思います。

 それも渋谷神父様から私の言う事を聞いておればお城のような立派な教会を作ってやるからと何時も言われており、信者にとって教会を目の前にぶらさげられれば何がなんでも飛び付きます。ましてや世帯数の少ない当時の信徒だけでは教会を作ると言う事は無理な話です。ですから神父様からどこをどうして、ここをこうしてと言われたら、ハイと言って何時も神父様の言う通りにしたものです。

 渋谷神父様がお亡くなられた後、西田神父様から川口神父様へと代わりました。川口神父様はビックリされた事と思います。広い敷地に建物は古く、あっちこっちに修理した跡が残っていましたから。

 ところが何時でしたか廊下の板が破れて、神父様が足を怪我されたのです。これではもう教会建設より外に道はないと話合って里脇大司教様にお願いに行きました。その時、神父様が怪我された事を話して私達もこれ以上責任は持てませんのでと申し上げたら、大司教様も僕ももてないよと答えられたのです。そこで、谷口さんが大司教様にかみついたのですが、これが初めに書いた谷口金市さんと大司教様のやりとりです。

 でも、大司教様の口は重く、今は金が無いと言われ良い返事は頂けませんでした。でも何回も足を運ぶので私達の話を聞いて下さるようなりました。最初は現在の純心幼稚園講堂の上に建てる心算でしたが、講堂の土台が弱く上に建てる事が出来ない事が分かったので仕方なく現在の敷地に建設を決めたのです。司祭館と教会が建てられている所は小高い山で、また信徒会館の所は竹山でした。

 教会建設が決まってからが大変でした。教会を建てるには先ず資金が必要です。資金集めは信徒の負担となります。ところが、深堀教会は他の教会と違って出稼ぎの信者が多く、教会建設を説得するために各班ごとに集会を開いてもらいました。そこで、山口金一さんが聖書片手に聖書の一部分を読みながら、昔の使徒達も苦労して教会を作ったのですから皆さんもどうか協力して下さいとお願いして、やっと皆さんの協力を得る事が出来たのです。

 当時の川口神父様を始め役員の方は大変でした。ところが大変信仰熱心な信者さんがおられ、大口の寄付を出して下さったのです。また、その奥様はオルガンを寄贈して下さったので本当に助かりました。その御夫妻とは三和一班の大井正先生御夫妻です。大井先生に心より感謝!
 

「献堂25周年への雑感」

三和2班 田中万作

  時を与えられた永遠なるお方に賛美と感謝を捧げることが出来ますように。大いなる恩人司祭渋谷神父様の永遠安息を祈り、歴代の主任司祭と助任司祭に感謝を捧げ、深堀教会に援助協力下さっている純心聖母会とシスター方々に感謝致します。また、今日まで種々ご苦労なされた先輩の方々ご苦労様。

 聖母被昇天教会である深堀教会の献堂25周年にあたり雑感を記してみたいと思います。

 深堀教会とその源流教会で無原罪のおん宿り教会なる善長谷教会は共にマリア様へ奉献されていて、神の御計らいを感じます。1/4世紀の節目に主の御言葉を記してみたいと思います。

 マタイ22章37節より「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」また、ヨハネ13章34,35節より「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と主は示されています。

 私たちは洗礼によってキリストに結ばれた者として、主日ミサ後の信徒同志の連帯はどうでしょうか?御聖体に養われている者として、地域、職域、社会生活での隣人の使命について今一度新たに記してみたいと思います。

 「教会の使命は人々の救いを目ざす。それはキリストに対する信仰とキリストの恩恵によって得られる。」使徒職に関する教会(6)。人々をキリストに方向づけるよう示唆しています。
私たちはミサの閉祭の折り、一人一人、社会の中に派遣されています。責任を強く意識し、努力したいものです。

 公会議は個人的と団体的使徒職(現代社会では必要性を述べられています。)が強調されています。小教区における基盤としての、班集会(実施班もあるのでしょうが?)、必要に応じての地区集会(深堀、土井の首、三和)、また信徒総会等、信徒会における十の部会取り組み、実践が活性化に連なり、み旨の方向へと展開の希望が持てるのではないかと思いながら。主の十字架と復活を思い、今の時を生きることのお恵みを乞いながら。
“被昇天の聖母、われらのために祈り給え”

(詳)ちなみに、十部は、典礼部、祈りの奉仕部、教会美化部、広報部、瀬少年育成部、体文化部、老病人奉仕部、班活動推進部、社会奉仕部、宣教奉仕部
 
 

「思い出」

三和1班 大井正
 

 今年で深堀教会献堂25周年になるとのことですが、渋谷治神父様が亡くなられては29年になります。深堀教会の誕生と言う点では、神父様の御功績を信者として忘れてはならないことだと思います。

 神父様は先ず幼児教育の必要性を考慮され、すぐ幼稚園建設をなさいました。当時は幼稚園の数も少なかったし、カトリック系ということもあってか中々志願児童も多かったように思います。
神父様については未だたくさんの方が知っておられますので私が特に申し上げることもないのですが、私個人的に御世話になったことを一つ申し上げたいと思います。

 私が今住んでいる現在地で医業を開業するとき、40年前のことです。深堀の十八銀行から借金するとき、神父様が保証人になってやるとの有難いお言葉を頂戴したのでしたが、私は聖職の方がそのようなことをされてはいけないのではないかと考え御辞退申し上げたことがありました。

 今の教会は旧教会に隣接していた山林を切り開いて、現在神の島教会におられる川口清神父様のときに出来上がったと記憶しております。今の教会の上にある駐車場になっている場所が古い教会と司祭館になっていて、そこに通じる坂道は今殆ど使われていない幼稚園からのものであります。

 その古い教会で長女の結婚式を川口神父様からして戴きました。当時は、神父様も若くていらしたので、時々私のところに卓球をして来られこともありました。献堂後間もなく五島井持の浦教会に行かれましたが、評議員の山口金一さん方や婦人会の数人で大波止までお見送りしたのでしたが、数年前福江に行かれた竹谷音吉神父様のときと比べると時代の流れをつくづく感ぜさせられました。

 そのあと2度目でしたが西田忠神父様が来られましたが、神父様は私より5才年上だった姉と山里小学校のとき同級生だったと申され、とても懐かしく時々善長谷教会のミサにお伴したことがありました。たしか眼が御不自由だったように思いました。長いこと川棚教会におられ二、三回お尋ねしたことがありましたが、今は大司教館におられるとのことですがその後はお伺いしておりません。

 現在三ツ山教会に来ておられる佐藤哲夫神父様の頃は、よく山口金一さん宅で幼稚園のシスター様も一緒に山口スマさんの手料理で会食に預かりました。また蚊焼のくじら浜に磯遊びにも行ったことがありました。しかし、最も印象に残ったのはファティマのマリア様の前に敷くまさご石集めでした。籐田尾、伊王島、出津と方々奔走したものでした。その間いくつかの苦労話がありますが、ここでは割愛致します。

 何年前になりますか西田神父様の金祝それに川口神父様の銀祝を教会でお祝いしたことがありました。幼稚園におられたドロチア深堀富士子シスター様も金祝を受けられとのお知らせをお聞きしましたが、妻と小学校のとき同級だったとのことで拙宅にも何度か遊びに来られたこともありました。

 今年は教皇様御来崎なされて20年になるとのことですが、あの日は大雪でしたが浦上教会に山口金一さん達とお出迎えに行きました。そして雪に強いという前輪駆動の愛車シビックで夜道を帰って来たことがありました。

 その後2、3年後でしたか長崎大水害の時に止せばよいのに碁をするために市の医師会館に行き、そこでその車を海水に浸し、ついに廃車の憂き目にあってしまいました。
この辺で終わりにします。つたない文で失礼します。
 

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