献堂25周年記念想い出集
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信徒会役員

「私と深堀教会」

 土井の首3班 宮崎幸治
 

 私がこの深堀教会に来て、もうすぐ満12年になります。
最初、移転届も間違えて香焼教会に持って行ったくらい、この教会は判りにくく、飽の浦出身の本原教会径由で来た者にとっては、小さな教会だなあと思いました。

 初めの2、3年は、教会にも行ったり行かなかったりで、ましては「信仰」などとは全く無縁のものだったように思えます。

 しかし、ある年の12月のごミサ後の事、私にとってはまさに「運命の瞬間」がやってきました。役員の方から「今から、クリスマスの飾り付けをするので、手伝ってもらえませんか?」と声をかけられ、妻と相談した結果、その時は何も用事が無く手伝う事にしました。

 しかし、引き受けたものの私達にとっては、一体何をしたらいいのか全く解らず、不安な気持ちでお御堂を出ると、すでに玄関横で大きなリースを作っている方が数名おられ、それを手伝う事にしました。名前も性格も声のトーンも知らない方々と行う共同作業には辛いものがありましたが、それもほんのつかの間でした。リース作りの責任者の方が、自分の子供に話すように親切・丁寧に作り方を教えてくれました。それからというもの、何人もの人が声をかけてくれて、すっかり場に馴染んで「教会の仕事をやった。」という喜びのようなものを感じ、一日を終える事ができました。

 以来7年間、役員として‘何かの役に立てば...’という思想のもと、この教会の行事等の手伝いをしています。そしてやっと‘自分の教会’と思えるようになりました。今思うと、あの時声をかけて下さった方に感謝しています。

 最近では、皆さんと行う“活動”がストレスの発散になっている事に気付きました。中でも、山に入って木を切り倒す作業等、汗を流す作業が大好きで...というよりも、その作業の後で仲間と飲む“ビール”が好きなのかもしれません。お互いに思った事を言い合い、慰め合い、時にはバカな事を言い合い、本当に深堀教会に来てよかったと思います。

 私を産んでくれたのが、あの時の役員さんなら、ここまで育ててくれた方もいらっしゃいます。それは、あの「中村 満神父様」です。
これもまた劇的な出会いでした。赴任されて早々、自宅に電話を頂き、「印刷機が欲しい」という内容でした。私はその関係の仕事をしていて、その時は、二言三言話しをして「じゃ、明日伺います。」という事で終わり、次の日訪ねて行きました。初対面でした。感想は、はっきり言って「この人が神父様かなあ?」と思ったくらい、私が描いていた今までの神父様像とは程遠い格好をしておられ、言い換えると「この人は漁師かな?」とも思いました。ですから、今でも強烈に印象に残っています。

 もう少し、中村師の続きに触れたいと思います。さて、それから一通り挨拶をすませ、商売に入りました。機械の説明をして機種が決まり、いよいよ肝心な値段交渉に場面が移りました。私はまず神父様の出方を見てみよう思い、黙っているといきなり凄い値段の提示があって、内心「血も涙もないなあ。」と思いました。しかし、その交渉にはいやみがなく、オーバーに言うと、澄み切った秋晴れのようなイメージさえあったので、二つ返事でその価格に応じました。

 以来、在籍された4年間、まさに公私共々お世話になり私にとっては充実した4年を中村師と過ごさせていただきました。しかし、時の経過は早いもので、中村師の「異動」の話しが舞い込んで来ました。私は役員と言うことで、結構早くその情報を仕入れ、また神父様本人からも聞かされました。「あと2年居て下さい。」というのがその時の率直な思いでした。私が子供だったら泣いていたかもしれません。そのくらい私にとっては、かけがえのない神父様でした。

 その神父様といよいよあと1週間でお別れの時を迎えた時の日曜日、幸いにもイエズス様について真剣に話をする機会があり、未だに鮮明に記憶に残っています。具体的に言うと、“イエズス様の復活”についての話でした。約45分の短い時間でしたが、価値ある時間で今でも感謝しています。逆に、「なぜもっと早くこういう時間がもてなかったのだろうか?」という事も思いました。
今では、時と場所を変え「カトリックセンター」で再びお世話になっています。人間的にも、又霊的にも“BIG”な神父様だったと思います。

 もう1つ忘れられない「出会い」があります。それは「クルシリヨ」です。これも、役員さんから声をかけられましたが、その時はお断りしました。そういうものには参加したくない。というのが理由でした。今考えると、“時が来てなかった。”のだと思います。それから、1年位経っていたのでしょうか?再び声をかけられので、まずは妻が参加を決心し、私は留守番という役にまわって帰りを待ちました。

 帰宅すると、「次はあなたの番」と言われ、内心気持ちを固めていた私は、了解の返事をして、第95回クルシリヨに参加しました。3泊4日の期間でしたが、一生忘れられないものとなりました。一つだけ申し上げれば、3日目のある時、何か得体の知れない、ものすごく大きな丸い玉みたいな物が、私の体の中に入って来たのを確かに感じました。それからというもの、次の最終日の帰る時まで、ずっと泣いていたように思います。別に悲しいことはないのですが、自然と涙が出てきたのでした。

 あの時の事は、クルシリヨに導いてくれた妻に“感謝”しています。
 まだまだ、たくさんの思い出があり、感謝があります。
 これまでこの深堀教会を築き上げてくれた神父様方々と信徒の皆様と共に、これからも立派な教会創りに励みたいと思います。
 

「私に真の信仰を導いて下さった阿野神父様」

 深堀3班 井手雄一
 

 私の信仰生活を振り返る時、二度の転機があったと思います。
一度目は、私が小学校5年生の8月に佐世保市三浦町教会で授かった堅信の秘跡です。
それまでは、毎日曜日、母や姉に連れられ特に意識もしないままミサに預かっていました。しかし、小学5年生になる少し前から堅信の秘跡を授かるための要理勉強が始まったのです。

 私より前の世代では、大司教様の口頭試問が有り、これに答えられないと堅信の秘跡を授かることが出来ないと教えられて来ました。しかし、私の時から大司教様の口頭試問に代えて主任神父様が実施される要理テストに変わったのです。

 このテストは一日を掛けて公教(カトリック)要理集から口頭試問と筆記試験が行われ、堅信式までに3回有りました。最初のテストの口頭試問で同級生がスラスラ答えて行くのに対し、私は碌な答えが出来なかった自分が情けなく思い泣きだしたことを覚えています。要理テストで優秀な成績を取ると、ご褒美としてミサ後に神父様からメダイを戴くことになっていたのです。当然1回目は戴けず同級生を羨ましく思っていました。

 その後、発奮し約三百問ある公教要理を何度も読み返し丸覚えした結果、2,3回目の要理テストでは見事メダイを戴くことが出来鼻高々になっていたことを思い出します。暗記力では人に負けないぞと言う傲慢な気持ちでメダイを戴くために要理を勉強して授かった堅信の秘跡でした。

 謙虚さとは程遠い堅信式でしたが、この堅信式を通して子供ながらに教会や主任神父様を意識するようになりました。この時、私自身に初めて信仰の息吹が生まれたのでは無いかと思います。

 受堅後まもなくすると主任神父様から侍者をしないかと声を掛けられ、中学生になるまで助任、主任神父様の順に行われる朝二度のミサの侍者を毎日続けました。神様から御恵みとして学業の成績が良くなることや亡くなったら天国に行けることを願いながら、また神父様に可愛がって戴くことを楽しみにしながら当時一生懸命ミサ使いをしていたものでした。
決して純粋とは言えない自己中心的な考えで行っていた侍者奉仕は中学生になってからも毎日曜日だけは続けました。

 しかし、高校生に上がる頃、私を可愛がり大好きだった主任神父様が転任され、新しい主任神父様が着任されました。それまでの神父様と性格・司牧方針が丸反対で、また本当に子供嫌いではないかと思えるような神父様の言動のために、神父様の顔を見ることも嫌になり、侍者奉仕はとうとう止めてしまいました。

 しかし、御ミサは親にガミガミ言われるので月1回ぐらいは渋々預かっていましたが、大学生になると親元離れた一人住まいのために年に数えるほどになり、遂に3、4年生頃では全く教会に行きませんでした。当然、私が三菱重工長崎に就職してからも教会離れは続きました。 

 入社して1年経たない昭和56年2月に教皇様が長崎に来られた時も多少気にはなりましたが、会社を休んでまで松山競技場へ行く気にはなれませんでした。しかし、パパ様を日本でお見掛け出来るのはもう二度とないだろうと今思うと、あの頃の不信心さを痛切に後悔しています。

 そのような不信心な私でしたが、パパ様が来られる前に職場で知り合った深堀に住む妻との結婚がきっかけで私は教会に戻ることが出来たのです。
未洗礼者の妻は私がクリスチャンであることを知りながら私と結婚を前提に交際をしました。二人の間で結婚を決めて間も無い頃、妻の方から「あなたはクリスチャンでしょう。それなら私もクリスチャンにならないと結婚出来ないよね?」と言いました。教会離れしていた私ですが職場や両親の手前、人並みの結婚式をしなければと思っていたので、結婚式前に入信の勉強を少しするだけで良いのだろうと安易な判断で「その方が良いね。」とだけ返事をしました。

 ところが、偶然にも同じ職場に私と妻の関係と全く同じような関係の二人がいたのです。しかも女性の方は妻と同様に深堀小教区内に住んでおり結婚式を上げる前に洗礼を受けたいとの強い意志から数ヶ月前より入信のための勉強を始めていたのです。

 これを知った妻は、自ら私も彼女と一緒に勉強したいと言うので深堀教会の神父様の処に行って一緒にお願いしてくれないかと言ったのです。そこで、二人で教会の門をくぐり司祭館を訪ねました。そこで迎えてくれた神父様が、阿野神父様でした。神父様は私たち二人を応接間に通して下さいました。

 そこで、「私たちは結婚したいので彼女に入信の勉強をさせて下さい。」と神父様にお願いしました。すると、神父様から「あなたは何処の教会に所属していますか?」と訊ねられましたので、正直に「実は長いこと教会に行っていません。」と答えました。当然のごとく阿野神父様から「それはダメだな!結婚式は何時頃するつもりね?」と言われたので、「来年の11月の予定です。」と言いました。

 そこで、神父様は「教会から離れていたあなたも結婚式のためにもう一度始めから要理の勉強をしなければなりません。しかし、それは来年にしましょう。先ず、彼女の入信のための勉強を始めますが、他の二人より半年送れているので週2回勉強しましょう。」と言って妻に入信のための勉強を始めさせました。

 他の二人とは、同じ職場の友人で今は教会から離れているHさんと同じ深堀三班の久保田薫さんのことです。
未洗礼者にとって難解な要理のためにトンチンカンな返答して阿野神父様から頭を小突かれながらも妻は一生懸命勉強しました。クリスチャンである私と結婚するために親・姉妹でもない阿野神父様から頭を小突かれながらも要理勉強している妻のために私もがんばらなければと思い、それからは毎日曜日に文教町の寮を朝早く出て妻と一緒に深堀教会の御ミサに与るようになりました。

 翌年4月の復活徹夜祭で洗礼式と堅信式を授かる妻に対し私が心から祝福出来る人となれるよう四旬節に入って間も無い頃、私は約10年振りに赦しと御聖体の秘跡を戴き再びキリスト者となることが出来ました。その間、妻の代母を務められた財津さんや山口スマさんを始め深堀町に住む妻を良く知っている信者さんらは私たち二人に暖かく接して戴きました。この頃、三浦町教会少年時代では理解出来なかった教会共同体の本当の良さを次第に感じ取るることが出来るようになったと思います。

 聖週間が始まる一週間前の御ミサ後、何時ものように阿野神父様がお御堂玄関前に立っておられ、私を呼び止められました。「来週の復活徹夜祭で、遂に彼女が洗礼と堅信の秘跡が受けられるようになりました。それで、あなたは一番祝福してあげる立場として、その徹夜祭の中で読まれる旧約聖書の一番である創世記を朗読しなさい。」と神父様は命令されました。当然ながら一度も聖書朗読をしたことが無かったので断ろうとしたら、「一生懸命、彼女は勉強したのだから、聖書朗読をしないとあなた方の結婚式はせんぞ!」と言われ半ば強制的に聖書朗読をする事になりました。私は、聖書朗読台で上がってトチッテはいけないと思い、何度も口に出して一生懸命練習しました。その甲斐あってか復活徹夜祭では無事トチルことなく読み上げる事が出来ました。

 また、妻の洗礼と堅信があった復活徹夜祭は終わるまでに2時間くらい掛かりましたが、妻はもちろん私も感激の余り時間の長さは全く感じませんでした。この年は先ほどの2人を含め3人の洗礼および堅信式が復活徹夜祭の中で行われましたが、阿野神父様が主任司祭を務めておられた頃は毎年復活徹夜祭で必ず受洗者がいて、多い時で5、6人行われた年も有りました。
無事に妻が洗礼と堅信の秘跡を授かる同時に、各両親への挨拶、結婚披露宴会場の手配、結納や社宅の申し込み等結婚準備は順調に進めることが出来ました。しかし、肝心の婚姻の秘跡に関しては準備が全く進まず神父様からOKどころか指示も有りませんでした。

 しかし、8月になると阿野神父様から「9月にカトリックセンターで結婚講座が始まるので二人で出席し修了書をもらって来なさい。そうしないと教会で結婚式は挙げられません。」と命じられました。出張の関係で全部は出席出来無かったものの私たちは無事に修了書を戴けたので、神父様に見せると「次はあなたの所属問題を処理しなければなりません。三浦町教会に残っているあなたの籍を先ず寮の所属教会である浦上教会籍に移さなければならない。その上で、浦上教会の神父様に指示に従いなさい。」と命じられました。

 そこで、直ちに三浦町教会主任神父様を訪ねて早急に浦上教会への転籍願いをお願いして来ました。数週間経過後、浦上教会主任神父様を訪ねて三浦町からの転入届が来ているかを調べて戴きましたが、未だ届いていないとの返事です。そこで、「私は、今、文教町の三菱独身寮に住んでいますが、11月には結婚して深堀の三菱アパートに住もうと計画して準備しています。そこで、出来れば婚約者の所属教会でもある深堀教会で式を挙げたいのですが、よろしいでしょうか?」とお話すると、神父様は「分かりました。三浦町教会から籍が着いたら深堀教会へ移しましょう。」と阿野神父様と違って心地よく私の希望する通りにして下さいました。

 そこで、この話を阿野神父様にしますと、神父様はやっと婚姻の秘跡を約束して下さいました。しかし、一言付け加えて、「今度の火曜日にあなたの要理テストをします。」と言われたのです。すなわち、私が1年前に結婚のお願いした時に神父様が言われたことを忘れずに実行されようとされたのです。
さて、指定された火曜日に神父様を訪ねると神父様は矢継ぎ早に祈祷書や要理から質問なさいました。私は少年時代の微かな記憶に頼って口篭もりながら答えました。すると、神父様は「何か信仰が怪しいな?これではやっぱり最初から要理の勉強が必要だな。」と言って結婚式直前まで週2回の勉強をさせられました。

 勉強が始まって数回目の時、突然に神父様は「今まで教会離れをしたのは何故ですか?」と訊ねられました。そこで、私は少年時代の侍者のことや、主任神父様が代わって教会そのものが嫌になって行ったことを話しました。
すると、すかさず神父様は「あなたは神父様のために教会に行くのですか?イエス様や神様に会ってお話するために教会に行くのではないのですか?神父様も人間です。確かに合わない神父様がおられることもあるでしょう。その度ごとに教会を変えたり離れたりするのは、本当の信仰では有りません。信仰は神様とあなた自身の問題で、神父様との相性の問題ではありません。あなたの信仰が確かなものなら如何なる神父様に当たろうとも、その信仰は決して揺れ動くことは無いでしょう!」と諭して下さいました。

 この言葉をお聞きして、真のキリスト者とは如何に在るべきかを教えられたようで、私の心に深く刻み込まれ、その後の信仰生活の基本指針となることが出来ました。恐らく、これら阿野神父様のお話は全ての信者さんにも当てはまることと思いますので、皆さんも今一度良く考えてもらえたいと思います。
1ヶ月経った11月末に無事に婚姻の秘跡を阿野神父様から授けて戴くことが出来ました。またその後も、阿野神父様は半ば強制的ですがクリシリヨに参加するように導き下さったりして私を真のキリスト者に少しでも近づくように導いて下さいました。

 阿野神父様の教えの甲斐あってか、その後赴任された竹谷神父様、山村神父様、中村神父様、下口神父様に対しても信徒会役員として自分に出来ることを心より喜んで奉仕させて戴くことが出来るようになりました。また信徒間では評判の悪い他の教会の神父様であろうとも何の抵抗も感じずに御ミサに与ることが出来るようになれたのは、全てあの時に阿野神父様が諭してくださった説教の賜物と心より感謝しています。

 パパ様、大司教様、また他の神父様方の教え・説教も心打たれるものがありますが、私にとって阿野神父様の教え・説教は何時までも心に残る貴重な教えとなりました。
迷える子羊であった私を救ってキリスト者へと導き下さった阿野神父様を始め、お世話になった深堀教会の歴代神父様が何時までも元気で司牧出来るように神様御守り下さい。


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