善長谷
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善長谷教会献堂50周年記念

善長谷教会婦人会役員
 

「善長谷教会と共に」

善長谷教会 川上喜美子
 

 風光明媚な教会前庭からの景色は格別なものがうかがえます。海の方に順に目をやると右に香焼、その後ろに伊王島、中央には高島、端島、左に野母半島が見えます。天気が良い日には五島も見え、また地平線に夕陽が沈む時は見事な美しさです。

 私たちの先祖は何と素晴らしい場所を安住の地として選ばれたのだろう。これは神様がキリシタン弾圧から逃れて来た先祖を導いて、この地を示されたのだと確信しています。それからの教会建設は信徒の犠牲と奉仕により行われ、その後教会は何度も修復と改修工事を繰り返して守られて来ました。

 善長谷で生まれ育った私の教会に対する思い出は、古川重吉神父様からだと思います。当時は中町小教区の巡回教会で、古川神父様が月に2回ほど御ミサを立てていらっしゃいました。その当時は交通の便が悪かったので、神父様は大変な苦労をして私たち信徒のために来て下さっていたのだと思うと感謝の気持ちでいっぱいです。

 私たち子供は交代で二人ずつ、神父様専用のつえを持って永江のバス終点までお迎えに行きました。神父様は大きなカバンを提げて来ていらっしゃいましたから、それを私たちが受け取り山道を歩いて登りました。私たちは慣れた道なので早く歩けるのですが、神父様は私たちより大分遅れて歩いて来られました。途中に休むのに相応しい大きな石が道の真中にあり、私たちは腰掛けて待っていました。神父様が到着されて、しばらく一緒に休んでから登りました。

 山道周りの雑木林の木の実、四季折々の草花、小鳥のさえずり、動物の鳴き声、これらの事をどんな思いで神父様は長い道のりを歩いていたのでしょうか?きっと神様を賛美し、ロザリオを唱えながら教会を目指して登っておられたのでしょう。

 御ミサを終えてからは、趣味の磯釣り、それに馬を飼っておられたので馬に乗って教会から広場までの道路を往復されておられました。時には、私たちに「乗らないか」と声を掛けて下さって楽しんでおられたようです。ちなみに飼馬は、私の祖父が世話係をしていました。

 その間、ルルド建設も始まり、神父様の指揮の下、立山の庭師の田中さんが指導して信徒全員、老若男女、子供たちまでが犠牲と奉仕で作業が始まりました。しかし、当時は殆どが手作業でしたから、何年もの月日が掛かりました。岩の山と谷をけずり、切り開いて植木を採集しました。石などはコケが養生している物だけを集めました。大人たちは、けずられた残土をバラで二人ずつ担うなど大変な苦労をしたと思います。そんな苦労をして出来上がったルルドの落成をお祝いして善長谷教会と大山教会の合同の堅信式が山口大司教様司式で執り行われ、喜びを分かち合いしました。ルルドの水は、フランスのルルド原水が少し入れられたと聞いています。

 それからの古川神父様は、御ミサが始まる前には何時もルルドでお祈りをしておられました。その後少しずつ手を加え、管理と修復を重ねて今日に至っています。

 これからも私たち信徒は教会とルルドをマリア様の御取り次ぎを願いながら守って行けるようにと願っています。
 

「私の中の思い出」

善長谷 山口アキエ
 

 私は昭和19年小学3年の頃、今の深堀五丁目から善長谷に引っ越して来ました。両親が善長谷の者だったから畑仕事をするためです。父は川南造船所に仕事に行く人を自分の船で運んでいました。

 でもそうこうするうちに昭和20年の夏休みのさなか何かピカッーと光ってドーンという音がしました。そこで、近所のおじさんが長崎の方に大きな1斗爆弾が落ちたと言って長崎が見える丘まで背負って走って行きました。すると長崎の方は黒煙で何も見えません。何が何だか分からない中で戦争は終ったと話が流れ平和になると聞いたので、「あー。もうこれで防空壕に入る事も無く夜も安心して寝る事が出来る。」と思い、平和になるのだと言って皆で喜びました。
その当時は未だラジオも買えなかったので人の話が頼りでした。話によると浦上の方がひどいと聞き母は直ぐ浦上に行きました。でも、既に祖父、祖母、叔父、叔母は原爆で亡くなっていました。

 しかし、その後が大変でした。終戦と同時に善長谷にも進駐軍が二人とか三人とか組んで登って来るのです。その前に集落に色々な話があって一軒一軒に槍を用意して置く様にとおふれが回って来たのです。でもその話はデマでした。しかし、進駐軍が登って来て道で出会うと恐いので、通り過ぎるのをじっと待っていました。当時は未だ山道でした。

 家に帰り御堂の方に行って見るとアメリカの兵隊さんが御堂に入ってお祈りをしているのを見て、「あー!この兵隊さん達も信者ばいね。」と言って嬉しくなり、じっと見ていました。御堂から兵隊さん達が出て来ると私たちを招いて「手を出せ。」と言ってきたので、恐る恐る手を出すとマッチやチョコレートやガムをくれました。私たちは直ぐに親の所へ持って行くと、親は喜んで「この兵隊さん達は悪い人ではなかったとばいね!」と言って安心しました。

 当時の御堂は30坪あったでしょうか敷板の巾が広く古い民家でしたが祭壇の中は風雅があって感じが良かったと思います。その頃、ミサは一月に一回ぐらいでした。3個ぐらいあった大きなほら貝をおじさん達が吹いてミサの合図をしたのですが、あまりその音は聞こえなかったそうです。

 クリスマスになると親を説得して中町教会に行くのが楽しみでした。私が神父様を知ったのは田川神父様です。昭和21年五年生で初聖体を受け六年生で堅信を受けました。

 昭和22、23年頃は食料衣類も無く、衣装はビンセンシオ会から届けられたものを喜んで思い思いに分け合って修復して着ていました。

 食料はたまに配給が来ました。一人一日分3個のコッペパンがいっぺんにたくさん来るので、その臭いがきつくて食べられない事もありました。それにキビの粉やドングリ粉とか缶詰も来ました。缶詰はイルカだったそうです。主食に芋、かんころ芋を良く作っても供出のため残るのはほんの僅かです。父母が悩むのを聞いていました。その頃何処の家でもツワを山奥まで採りに行って収入にしていました。毎日毎日夜はツワ剥きです。しかし収入は僅かでした。
昭和24年頃、私は新制中学の二年だったと思います。長女でしたので農繁期になると弟や妹を交代で学校に連れて行き、弟妹が泣くと外に出さなければなりません。だからあまり勉強も身につきませんでした。

 それから昭和25年頃に今の教会に造りかえるために、15才ぐらいでしたが大人も子供も皆出て土方を始めました。
今の教会の裏には大きな松の木があり、その松の木を集落の人が入札に掛けて落としたので、それで臼を作りました。その臼も大分長く使い親の代以上に使いました。

 その当時は戸数も50戸くらいあったと思います。毎日毎日土方と砂運びです。浜から背中に背負って運びました。新しい教会が出来ると言う希望があったのでがんばれたのです。教会の前にあるタブの木は埋め地です。そして皆様の苦労が実を結んで教会が献堂されました。

 その後でルルドが出来ましたが、その頃から善長谷にいた人達の大部分が仕事の都合で関東方面や深堀の方に移りました。川南造船所が盛んであったことと関係すると思いますが、今の四丁目が元川南造船所の社宅でした。
それから時代も変わり昭和30年に西彼杵郡深堀村字善長谷から長崎市大篭町になりました。今は戸数24軒の中で65才以上の老人が24人います。
でも小さな共同体が力を合せて平成7年5月7日に45周年を、また平成13年5月下口神父、中村両神父様のもとに50周年を記念する事が出来ましたのもひとえに神様のお恵みによるものと感謝致しています。
 
 

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