善長谷
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善長谷教会献堂50周年記念

 
 

[50周年記念に寄せて」

元善長谷教会婦人会役員

善長谷 山口ユリ
 
 

 
 

 

未だ隠れキリシタンの頃

 私が聞いた所によりますと、黒い長い服を来た外国人が善長谷に来て一軒一軒回って神様のことを教えていたそうです。名前はズランさんと言って始めは怖がっていたそうですが、何回も何回も来るうちに慣れて遠くから来るのを見て「ズランさんが来るぞ!」と言って家の中に入って待っていたそうです。
そのうちに洗礼を受けることになるのですが、それまで八幡さんを拝んでいたので「洗礼を受けても八幡さんを拝んでも良いですか?」と聞いたら、「八幡さんは神様ではありません。人間ですから人間を拝むことは出来ません。」と言われました。

 洗礼を受けて先ず十字架のしるしを教えてもらった時、皆恥ずかしくて中々良く出来ません。下を向いて少しばかりしていたそうです。「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。」と人は言いますが、当時は「パーテル・ヒリヨリ・スペリトサント」と言って十字架のしるしをしたようです。その頃、祈りのことをオラッショと言っていたらしく、私が小さい時までそのなごりは残っていました。

子供の頃の思いで

 私が未だ子供の頃は、殆どの家の前とか近くにヤグラがありました。夏になると夕食をヤグラでして、薄暗くなるまで涼んでいたものでした。
早い所は暗くなる前に家の中に入って夕の祈りを始めます。それに続いて、どの家からも祈りの声が聞こえて来ます。「祈りの声って遠くからも聞こえるねー。」と私が言いました。すると父親が「祈りは天国まで届くようになっているから、良お聞こゆっとばい!」と言われたことを良く覚えています。

戦後間もない時のこと

 戦争中にアメリカの兵隊さんが香焼に捕虜として収容されていました。終戦になってからアメリカの飛行機がドンドン飛んで来て収容所にいるアメリカの人達に落下さんから色々の品物を落としていました。

 私たちは学校帰りに木に登って、その様子を何時も見ていました。そのうちにアメリカ人が善長谷にも来るようになって、怖くて山の中に隠れたりしました。
家では父が紋付の羽織や袴とシガレット(たばこ)を交換していたそうです。アメリカ人は国に帰る時のみやげに日本の着物が一番欲しかったそうです。

堅信式と準備の思いで

 終戦2年後に堅信式を授かりました。その時、公教要理の勉強を教え方さんから習っていましたが、「要理の本を一冊覚えんば。」と言われて皆一生懸命でした。本を持って木に登ったりして暗記の勉強をしました。何時も口ずさんでいました。

 当時は中町教会の巡回教会でしたので神父様のミサが月に一回ぐらいありました。いよいよ試験の日です。昔の古い教会の板の間に皆がずらりと並ばされて一人一人神父様から質問されます。その時膝がガクガク震えていました。要理の本の所々を質問されて、何とか合格しました。

 そして、堅信の日になりました。前日から長崎まで行って旅館泊まりでした。初めて旅館の二階に泊まって、それはそれは皆嬉しくてワイワイ騒いであまり眠れませんでした。

 いよいよ当日、私は新しい着物を作ってもらったのを着て堅信式に与り、堅信名をヨワンナと付けて戴きました。記念写真も撮りました。中町教会の人達と一緒で大勢いました。
 

「50周年記念に寄せて」

善長谷 山口ヨシエ
 
  
 善長谷教会献堂50周年おめでとうございます。2、3年前に知人より100年前の献堂式の様子を書いたものを見せてもらい、それを改めてご紹介したいと思います。

 善長谷は、すでに無原罪の聖母にささげられた聖堂を持っている。山の最も美しい一角に建てられた聖堂は信者異教徒を問わず誰の目にも大傑作として見られている。

 誰もが近くで見ようとやって来ることは私の大いに満足するところである。特に、聖堂の祝別式には参列者が非常に多かった。当地区の至る所から人々が押し寄せ、神学校の兄弟たち、朝鮮の宣教師たち、それに浦上の司祭も加わったこの素晴らしい協力によって助祭、副助祭付きの祭式はまさに一大行事であった。特に、大勢来ていた異教徒は全く驚嘆して帰って行ったようである。

 神学生は素晴らしい熱をこめて歌ミサに奉仕し、善長谷の信者は皆この日復活祭の聖体拝領をしたが、後に私が聞いたところによると、彼らは感激のあまり自分が何処にいるのかも分からなかったほどであった。

 彼らの心は、もうこの地上にはなかったのである。86才になる善良な老婆は、もしも天国が自分の見たあの光景のように美しいものであるなら直ちに自分を天国に引き取って下さるよう神に願う純粋で善良な人の様である。
次に、善長谷信徒を司牧された神父様の中で特に印象に残った二人の司祭の思い出話をしたいと思います。

 最初に私の初聖体と堅信をして戴いた鶴田神父様の話です。小学五年生の初聖体の時に神父様はお話の中で霊魂のやや細った人と肥えた人がいると言われ、思わず私は自分の腕と隣の人の腕を見比べて自分の肉体の腕が太いなあと勘違いをしてしまいました。

 堅信の時、準備の黙想のために中町教会から大神学生の田中さんが見えられて、この辺で一番高い山の八郎岳まで一緒に遠足した良い思い出があります。受堅後、男子の人達は立山の田中さんのお宅まで遊びに行きました。
古川神父様の印象の残った説教は、未だ原爆の生々しい時代を2、3年過ぎた時だったと思います。原爆は長崎の浦上の1ヶ所に落ちて大きな影響を受けましたが終末の星の落ちる時はどんなに恐ろしいかと言う事を話された記憶が残っています。

 神父様は釣りが好きで磯釣りに私も連れて行かれ、私には黒口貝を捕るように言われました。私は一生懸命その貝を捕り神父様の釣り魚が少量の時にその貝を持って行ったようです。

 その他、中町教会ビンセンシオ会の応援で運動会も2回しました。仮装行列で婦人会の人達が相撲取りの衣装で大いに盛り上がり小さい子供から大人まで満足した一日でした。また、中町教会の人達と合同で魚釣りをしたり、善長谷からまんじゅう等を作ったりして一日中楽しみました。
神父様はラン採りに夢中になり、一緒に春ラン探しに何回か山に登りましたがとうと春ランに出会う事が出来なくてランを持っている請負の社長さんにラン鉢を戴きました。
未だあると思いますが印象に残った事だけで終わりたいと思います。

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