善長谷
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善長谷教会献堂50周年記念

「教会建設」

善長谷 山口志也子
 
 

 1951年9月、今から50年前に今の教会を建設した時は大変困難で苦労した事だったと思います。経済的にも物質的にも不足していた戦後の時代でした。

 教会の前の石垣を築く時は男達が上の山から大きな石を二人や四人で持って担いで運んで築き上げたそうです。基礎工事が始まり、スナバラスは下の海から袋に入れて背中に担ぎ、毎日毎日上げていたそうです。

 この教会は鉄骨で合掌造りだそうです。鉄骨を運ぶ時も道が狭く車が上まで登れないため途中から大勢掛かって運び上げ、教会の下からは大きな丸太を組んでかぐらさん(今のクレーン)で7人から10人ぐらい掛かって引き上げたそうです。

 その頃、父は財政顧問をしていたので毎日が忙しく苦労していたようです。教会が完成した時は余程感動して嬉しかったのでしょう私たち家族に俳句を作って読んでくれました。始めの所は忘れましたが、後の部分は今でもハッキリ覚えています。その句は「塔の十字架日に映える」と読んでくれました。今の塔は小さいですが前の塔は大きな高い塔の十字架でした。

 その当時の主任司祭である古川神父様始め皆様一人一人が経済的にも肉体的にも本当に苦労した事でしょう感謝致します。
夫婦で思い出しながら書きました。当時夫は22才、私は20才でした。
私たちが子供の頃の教会は今の教会と違って普通の家のようでした。教会の玄関は北の方にあって小さな教会でした。

 教会の下の所には杉の木が植えてあって、そこを通って行くとヤギをたくさん飼ってある所がありました。私たちはそこをヤギ町と言っていましたが、とてもにぎやかな所でした。教会の上の所は松の木があって、少し南側になっていたので日当たりが良く冬には日向ぼっこをして遊んでいました。大きな松の木でしたが枯れてしまいました。その松の木で臼を作り各家で使っていました。その臼でミソを作ったり餅をついたりして色々な事に役立てました。
 
 
 

「主の平和」

善長谷 森内カナエ
 

ワラゾーリ作り

 黄金色に波打つ稲穂も乾燥して出来た藁で母親より代々伝わって教えられて来たワラゾーリ作りも私ら3人、4人が天国へ召されたら善長谷のゾーリ作りもそれで得られる現金収入もこれで終末のようで何とも淋しい事です。 早々

小学生の頃の思い出

 昔の善長谷教会では御聖体拝領の時に拝領台へ横一列に並び神父様が左側より右側へ向かって御聖体を授けて行きます。
その時、当時宿老をしていました今は亡き私の父は拝領台の横に立ってパンと手を叩く1つ目の合図で信者を台へ跪かせ、二つ目の合図で拝領台より立たせて次の人達を拝領台へ跪かせるようにして次々と御聖体を授かっていた記憶がまざまざと思い浮かんできます。

楽しかった思い出

 私が当時小学校五年生の頃でした。当時の教会は古ぼけた教会で未だ電燈も無くローソクの灯りでしたが結構明るかった記憶があります。
当時の神父様は山頭神父様でした。とても山登りの好きな神父様でした。ミサ後に、「今日は上の山に登ります。」と申され、皆喜んで子供も老人も若者も一緒に行きました。

 教会の上の直ぐ近くは松林で、大きな松の木が2本と小さな松の林でした。そこを通り過ぎて近所の山へ登り、当時山頭神父様はポケットから飴玉やキャラメルを取り出して「ほーら」と言ってバラマキました。皆「わあー」と言って拾いました。嬉しかったです。

 それから山口愛次郎神父様で後の大司教様が着任され、優しくとても立派な神父様でした。この神父様からも御聖体を拝領致しました。
教会も新築され献堂50周年を本年5月に迎えました。中村神父様の転任後、現在下口神父様に代わりましたが無事平和な教会です。

 戦争があり終戦となり時代も変わり私も83才になり、後4、5年も生きられるかと思えば、一日一日が大切に思えます。主の恵みが未だ少々戴けますので、与えられますように神に感謝します。

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