歴代司祭

ライン

ヨゼフ・渋谷 治師

深堀教会創設者


 

履歴

 
1893年(明治26)9月21日 大阪府岸和田市岸城町生まれ
1906年(明治39)4月 岸和田尋常高等小学校卒
1911年(明治44)4月 大阪明星商業卒
1912年(大正元)12月24日 受洗(岸和田教会)
1919年(大正8)3月 上智大学卒
1925年(大正14)8月 プロパガンダ大学卒
1928年(昭和3)3月25日 司祭叙階(オーストリア国インスブルック国立大学・カニシヤヌム聖堂にて)
1928年(昭和3)6月 インスブルック国立大学卒
1928年(昭和3)8月30日 〜1929年(昭和4)4月 岡山教会主任
1931年(昭和6)1月1日 〜1939年(昭和14)7月 岡山市カトリック思想科学研究所所長
1939年(昭和14)7月   〜1945年(昭和20)5月 カトリック旧約聖書原典翻訳主任
1944年(昭和19)4月  〜1944年(昭和19)12月 東京大神学校教授
1945年(昭和20)5月11日〜1953年(昭和28)7月4日 西彼黒崎教会主任
1953年(昭和28)7月5日 〜1960年(昭和35)9月26日 西彼伊王島教会主任
1960年(昭和35)9月26日〜1972年(昭和47)10月7日 深堀教会主管
1961年(昭和36)1月23日〜1972年(昭和47)10月7日 カトリック深堀幼稚園長(兼)
 
(その他、上智大学、英知大学、純心短期大学等にて教鞭をとる)
1972年(昭和47)10月7日 聖フランシスコ病院にて逝去 享年79歳

 
渋谷師直筆の書「聖寵」
「拝啓渋谷治神父様」
深堀2班 山口スマ

 昨年の10月に深堀小教区創立25周年を盛大に迎えることができました。記念式典では、中村主任神父様と奈留教会の山村神父様との共同野外ミサが捧げられ、神父様の思い出深いこの土地にたち、改めて神父様の業績をたたえ、感謝の思いでいっぱいでした。思い起こせば神父様が天に召されて早や、26年の歳月が過ぎました。

伊王島教会主任から深堀教会に着任の時は、信徒一同喜びでいっぱいでした。船着場にお迎えに行き、その時の荷物の中に50個ほどのジュラルミンケースに収められた本は、大切に運ぶようにと云われ、背に負ぶって運んだことが懐かしく思い出されます。教育に熱心な神父様は、多くの私財を投じて、武家屋敷お城の跡地に教会とカトリック幼稚園を設立されましたが、幾多の困難があったことと思います。

聖堂内の中央には、大きなロザリオを掛けたマリア様の御像が置いてありましたね。神父様の御ミサの説教の時、マリア様のお話をなさるときはいつもご自分の、お母様のことを思い出されるのか、涙声になって私達も一緒に涙を流して聴き入ったものです。
日曜日の御ミサの後は教会の回りの草取り、花や野菜作りに、信徒共々教会奉仕の楽しさに明け暮れました。ジャガイモを皮つきで蒸して、皮をむきバターを付けて食べると「美味しいよ」とも教えて下さいました。

その頃の木々も大きく育ち四季折々には、神父様のお姿を偲びつつ思い起こします。深堀純心幼稚園も「子供達に信仰教育を」をモットーに設立して下さったので、地域の人たちの人望も篤く、今では卒園者の中から聖職者となられた方や、今召命の道へと励んでおられる方もいらっしゃいます。中には幼稚園での教えを心に留め、進んで受洗された方もありますし、幼稚園を通してたくさんの神父様方、シスター方との出会いも深まりました。ひとえに神父様のおかげです。大聖年を迎えるにあたり、聖霊の導きによってお恵みのうちにキリストと共に歩むことができますように、天国から私たちを見守りお祈りして下さい。

注)この文章は、平成11年6月20日発行の要理教師の友106号に掲載されたものである。
 

深堀教会史資料  
岩永千代子

 終戦後、香焼が未だ「島」だった時深堀との間を船が往来していた。大、小の船が汽笛を鳴らし、旗をなびかせて連なって走る様は見事な風情だった。その頃鰯網漁が全盛期で深堀の主産業だった。

 山崎安勝さん(後の市会議員)が現在の深堀教会敷地(城跡)を購入されたのもこの頃のことである。現在の運動場に民家を建て、居住しておられた。しかし、次第に漁が不振になっていった為売却され、その民家を渋谷神父様が購入され初代の教会となった。

 渋谷神父様は伊王島の馬込教会在任中、碁仲間であった中学校の吉田校長(奥様が深堀出身のようだ)に「土地がどこかないか」と相談したことから、「殿様屋敷」のことが話題になって端を発したとのこと。神父様は私財を投じて神父様方の老人ホームの様な建物を計画しておられた様だと聞いた。

 神父様はたいてい黒いスータンを着ておられ、ある時、金杯か銀杯を見せて下さったことがある。何かの報奨の様だった。月に一度は上京し、上智大で講義をしておられたとのこと。

 神父様は若い頃、政府から留学生としてローマに派遣され勉学中司祭を希望し神学生に転向していった勇気のある青年あった。出身は岸和田市で寺院の住職の息子であった。

 深堀には昔から真宗と禅宗の大きな寺があり、とくに禅宗は十人義士のつながりから檀家が多く、大きな勢力をもっている。神父様は禅宗をしばしば訪れ、意思疎通を計ったとのこと。争いもなく、スムーズに当地に教会が建設されたのは神父様の人徳のお陰である。

 禅宗もまた、迫害が厳しい時代「善長谷」に信者をかくまったり、かばってくれたりする心の広い寺でもあった。

 「民家」の教会は約40坪内外だったと思われる。木造瓦葺だった。土間は狭く、内は薄暗い純日本式の畳の間に祭壇があって、灯ろうがいつも回っていた。黒い柱が印象的だった。ミサは背面式で、広い垂れ布が下がっていて信者は正座して20人位入れたのではなかったかと思われる。

 昭和41年頃香焼と深堀が陸続きになり、三菱造船所が移転してきた。県営の団地が出来たり、炭坑離職者(高島、端島の廃坑)や低所得者のための住居が確保されたりして、深堀地区の環境は大きく変わり、人口も増大していった。

 
 
クリスマス御ミサ
幼稚園ホールにて
  教会創設間もない頃の信徒たち(S.39.8.30)
     
 
小教区運動会
渋谷師のあいさつ
 

渋谷師(その2)

inserted by FC2 system