善長谷
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 この地の歴史は文化年間(1804年)甚介の子佐八が六家族を旅芸人風を装い三重樫山から脇岬の木場ゆりさき(鯨浜付近)を経て、此処に住みついた。住みつく条件として、八幡神社の毎月の祭礼及びお水方として藩主用の水汲み役を果たす事であった。八幡神社の祭礼を行うことは、勿論隠れキリシタンで、表向きは菩提寺の檀徒であった。

 菩提寺、六代腎外普間和尚が座禅を行い悟りを開いた処でこの故に禅定谷と呼ばれるようになり、訛って善長谷となったとも言われる。「善長部落名起源考」には、異教徒のことを(ラテン語にはゲンチリス)スペイン語には「ゼンチョ」とあることから「善長或いは善丁」の語源と断定してほぼ誤りがないと考えられる。はじめ、彼らが仏教徒を指して言い、又その仏徒の住む谷をゼンチョの谷といった言葉が長い間の中に転化して、自分たちの住む地名になってしまったものと思われる。

 明治維新後信教の自由が認められ此処に於いても今迄、隠れキリシタンで迫害を避けていたので公然とキリスト教徒として立つ事の会議を開き、一部は改宗の要がないまま、蚊焼岳路に行き「離れ切支丹」として住みついたものと思われる。

 
 
     

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