善長谷
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 善長谷教会祝別(昭和27年5月3日)

 中町教会巡回地区善長谷教会は、山口司教様によって「無原罪の聖母」に捧げられた。深堀町南側、山の中腹に再建された教会は、鉄筋コンクリート造り45坪(約149平方メートル)で、美しい塔にかざられている。

 総工費171万円、祝別式当日、古川主任神父様は、「50世帯足らずの信者たちがよくもこれだけの立派な教会を建てあげてくれました。」と信者の犠牲と奉仕をたたえられた。

 聖堂正門に立ち樹があって、その枝にアンゼラスの鐘が取りつけられている。前聖堂は、木造24坪(約79平方メートル)で、明治28年7月建立されたもので、老朽化が著しく、新聖堂再建となったものである。 


 中町カトリック教会発行
中町教会献堂90年より引用
 
  写真はカトリック長崎大司教区編

「旅する教会」より

     
アンゼラスの鐘

 

善長谷ルルド完成

 深堀町善長谷教会にルルドの建設が始められたのは昭和32年4月であった。ルルドご出現100年の喜びと祈りをこめて、古川神父様と信者たちは、冬は寒気に耐え、夏は炎暑にやかれて1年半余、延べ3700人の奉仕によってようやく完成をみた。

 昭和33年9月28日、山口大司教様を迎えて盛大な完成ミサがささげられた。 


中町カトリック教会発行
中町教会献堂90年より引用
 
 
     

大改修工事

 深堀小教区の巡回教会、善長谷教会は昭和27年に現在の聖堂に改築され、以来三十三年の長きにわたって信仰の家としての役割を果たしてきました。しかし、近年老朽化の度合いがひどく、このたび約600万円の費用をかけて全面的な改装を行ない、8月24日に竣工しました。

 新しく生まれかわった教会は、白亜の柱に赤茶色の横張りというモダンな色合い、窓は全面アルミ・サッシ張り、という立派な聖堂です。また、教会横の鐘楼も新しく建替えました。

 善長谷のいわれは古く、江戸時代に外海方面から七家族が迫害を逃れ移り住んだことに始まります。幕末の「浦上三番崩れ」という迫害が起こったときには、ここでも厳しい取調べや拷問が行なわれた、といいます。

 現在では、香焼から伊王島、端島、三和町蚊焼の港までを一望のもとに見おろす小高い山の上に静かなたたずまいを見せています。善長谷には、28戸の世帯数がありますが、少しずつ過疎化が進んできており、若い人達が出ていってしまうのがとても淋しい、と古老の長谷川さん(82才)が話してくれました。

 新しく越してこられた方やまだ行ったことのない皆さんは、ぜひ一度訪れてみてください。毎日用、朝七時から一番ミサが行なわれています。 


深堀教会・広報部発行「ひろがり」
85・9・25発行より引用
 
 
     

善長谷教会   川上喜美子

11月は死者の月です。11月16日(日)に善長谷婦人部では、祈りと犠牲をかねて、故古川重吉神父様の命日(11月14日)で赤城墓地にお墓まいりに行きました。

 神父様が帰天された早や16年になります。
古川神父様が中町教区の主任神父の頃、善長谷教会は中町教会の巡回教会で一週間おきに御ミサがたてられていました。

 私達が子供の頃は神父様をおむかえに女の子二人づつ交代で、昔の戸泊バス停まで神父様専用のつえを持って行ったものです。当時は今のように道路も舗装してなく、車一台やっと通れるようなガタガタ道でした。たまに江川でバスを降りてタクシーを利用していましたので、その時はバスからいらっしゃるのか?タクシーなのか!子供ごころにタクシーだったら歩いて山道を登らずにすぐ着くからきついことないな、と考えたりもして、ワクワクしながら待っていました。バスでいらっしゃったときは、神父様はつえをつき、私達は神父様の大きなカバンを持ち、今は誰も通らない生活道路であった川内からの山道を、一時間近くかかってお話ししながら登ったものです。

 また、神父様は魚つりと馬が好きだったのか、御ミサが終わったらよく魚つりに善長谷の下の海に出かけていました。竹であんだ大きなびくと、そこらへんに生えている竹ざおを肩にかけ、はきものはワラぞうりをはいている姿をよく見かけたものです。

 乗馬の方では、馬は私の祖父が神父様からあづかって馬の世話をし、飼っていました。神父様が馬に乗って善長谷を廻っているときは、遠くのほうでこわごわと見ていたものです。しかし、馬の方はあまり長く続かなかったようです。
そんな思い出の中、皆さんとお墓の前でロザリオを唱え、古川神父様の永遠の安息を願い、赤城の墓地を後にして、次は十字架山に登りました。

 十字架山はほとんどの方が初めてで、昔の浦上かくれキリシタンの信者の信仰の深さを思い、私達の信仰の薄さに改めて思い知らされた感じで、もっともっと神様のみむねにかなう、祈り・行動をとらねばと強く感じ、十字架の道行を唱え、こうした中にも、善長谷婦人部では何事にも消極的だったが、積極的に一歩でも近づき、他の教会の集会、及び催物に参加し、広く外に眼を向けるようになれば、と思い帰路につきました。 


「ひろがり」86・12・21発行


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