洗礼者・ヨハネ 青木 兵助師

1889(明治32)年〜1901(明治34)年

 

 

 上五島地区の司牧は9月よりそれまで下五島地区でペルー師の助任司祭として若い力を発揮されていた洗礼者・ヨハネ青木兵助師と、すでに同じ地区で司牧されていたヨゼフ大崎八重師の両師にゆだねられることになった。

 二人とも青砂ヶ浦教会に常住しながら、大崎師は鯛ノ浦、大曾、丸尾の各小教区にまたがる区域を担当し、青木師は北部地区のあちらこちらに点々と所在する曽根、大水、小瀬良、江袋、赤波江、仲知、米山、野首、瀬戸脇の信徒集落を担当された。

 
洗礼台帳の発見
 
 
青木師が記した洗礼簿
2000年8月25日、私は江袋教会信徒(2名)の協力を願って仲知教会に保存されている仲知小教区の古い帳簿類を整理し、保存状態が悪くなっている帳簿類の製本作業をしていた。そのとき五島列島の司牧宣教の責任者であったアルベルト・ペルー師と、彼の助任司祭であった青木師の両師が使用していた洗礼台帳を見つけた。
 

 この洗礼台帳は1899年4月30日から1901年3月8日までの1年11ヶ月間使用されたものであるが、No1番からNo14番までの受洗者の出身と、受洗者が洗礼を授かった場所(楠原、水ノ浦)は、いずれも当時から下五島に所在していた教会となっていることから、この台帳はもともと下五島地区で使用されていた洗礼台帳であった。

 ところが、この台帳を使用し始めていた青木師が同年9月から上五島地区で司牧するようになったので、そのまま上五島地区の洗礼台帳として使用することにしたものであることは明らかである。

 この洗礼台帳の発見により、1999年9月に発行した「仲知小教区史」の「邦人司祭による司牧」のページは、下記のとおり訂正されることになった。

 「邦人司祭による司牧」のページで、フランス人宣教師デュラレー師の後を継いだのは「大崎八重師であった」と記しているのは誤りで、正しくはデュラレー師の後を継いだのは青木兵助師である。

 青木師が仲知地区を担当されて1年7ヶ月の間に洗礼を授けた数は全部で85人。そのほとんどが曽根、小瀬良、大水、江袋、赤波江、仲知、米山、野首、瀬戸脇で生まれた新生児で、洗礼は生後1〜7日の内に授けている。

 師が作成した洗礼簿を眺めていると、おぼろげながらも今から百年前の仲知地区の信徒の生活の様子や教会の状況が伺えて面白いので少しだけ紹介してみることにする。

   1、集団洗礼

 青木師の洗礼簿によると、1900年8月15日の聖母被昇天の祝日に赤波江教会で福音宣教の成果として大きな喜びがあった。
この日は隠れキリシタンの多い大瀬良の野口スイ(当時37歳)とその4人の子供たち(スヤ、タノ、マツ、福松、)と、西彼・外海村から仲知への移住者であった川上竹次郎(当時48歳)が集団で洗礼の恵みを受けた。彼らの洗礼名簿を記録したのは青木師の主任司祭であったアルベルト・ペルー師であるが、実際にこれらの隠れキリシタンを指導し、洗礼へと導いたのは青木師である。

 
 当時、五島列島の司牧宣教の優先課題の一つは「隠れキリシタン」と呼ばれていた潜伏キリシタンにキリスト教への復帰を促すことであったが、これら6人の集団改宗は青木師の宣教への熱意の表れであり、特筆に値する出来事であったと言えよう。
  
  2、救済活動

 師が上五島地区に赴任した頃の人々の生活は貧しく、末信徒の集落においては、まだまだ新生児の間引きや堕胎がひそかに行われていた。当時は間引きや堕胎が良心的に悪であると分かっていても貧困対策「くちべらし」のためやむを得ないこととして受け入れていた。

 このような悪習を打破するために行ったのが青木師たちの救済活動である。間引きをせざるをえない事情を抱えている妊婦には、出産させ孤児として引き取り、洗礼を授け、奇特な信徒に養子として引き取らせた。

 同師の洗礼簿によると、師のこうした救済活動の恩恵を受けた新生児は4人となっている。4人とも北松浦郡小値賀村の野崎島と六島出身の未信徒の新生児(女の子)で、そのときの洗礼の代母は赤波江教会、江袋教会、仲知教会の教え方であった。
例えば、1900年5月13日には青木師により赤波江教会で北松浦郡小値賀村・六島出身の新生児に洗礼が授けられているが、そのときの代母大瀬良トメ(27歳)は当時赤波江教会の教え方であった。

 このように青木師が間引きや堕胎を防ぐために未信徒の新生児を引き取り、洗礼を授け、養子として信徒に引き取らせたことは、これまでの教会の救済活動の方針に従ったまでのことで何も彼の特別な救済活動ではない。

 この場合、命を守るために信徒に養子として引き取らせるだけではなく、必ず、洗礼を授けていることは何を意味するのだろうか。
 それは洗礼が人を救うためになくてはならない秘跡(ひせき)として大切にされていたからではないだろうか。洗礼は人の救いのための神からの恵みであり、すべての人を救うという教会の使命は今日においてもこの秘跡を通して実現されていくことに変わりはない。
 
 


 

3、最初の米山教会について
 
 青木師洗礼簿によると、1889(明治22)年フランス人宣教師・デュラン師によって建てられた最初の米山教会は、まだ建立されて10年しか経っていないのにもう教会堂として使用されていないように思える。というのは青木師は仲知在任期間の1年7ヶ月の間にあわせて5回(1900年4月、5月、8月、10月、1901年1月)米山教会を巡回し、そのつど新生児に洗礼を執行しているが、不思議なことにどの子の場合も個人の家(竹谷佐吉氏)で洗礼を執行しているからである。これはなぜだろうか。

 信徒数の増加により教会が早くも狭くなったのだろうか、それともこの教会の所在地が山の上の不便なところであったからだろうか、残念ながら今確かめる資料はない。 

4、竹谷姓は「たけや」か、「たけたに」か?
  
 現在、竹谷姓を名乗っている信徒は自分たちの姓を地名からとって「たけや」だと信じて疑わない。しかし、100年前の青木師の洗礼台帳ではローマ字ではあるが、例外なくいつもtaketani(タケタニ)と記されていてこれも不思議でならない。例えば、青木師の司式で竹谷佐吉氏宅で8人の新生児の洗礼式が執行されているが、いずれの場合もローマ字でPaulo・taketani sakiti(パウロ・たけたに さきち)と記されていて面白い。
その頃は洗礼台帳の通り「竹谷」は「たけや」ではなく、「たけたに」という苗字で呼んでいたのだろうか。
そう呼ばれていたするれば、いつ頃から「たけや」と変更されたのだろうか。

 同じように、現在江袋教会に在籍している尾上(おのうえ)さんの先祖の場合も青木師の記した洗礼台帳ではローマ字で「おうえ」と記されている。

 このことと関連しているので、ついでに取り上げてみると、竹谷をタケタニと記した青木師自身、御自分の名前を「兵助」から「義雄」に改名している。わたしは平成6年4月、前任地の褥崎(しとねざき)教会史を編纂した時に、このように改名することは昔の神父様方には決して珍しいことでなかったことを知っている。例えば、1910年頃佐世保地区で司牧宣教された有安師は名前を「波蔵」から「秀之進」に改名している。

 
  光世さんのコーヒーブレイク
 
 
 「はじめて」のページの個所で、私は自分の姓である「下口(しもぐち)」の由来についてふれ、この姓はキリシタン迫害時代に私たちの先祖がキリシタンの信仰を捨てないので、軽蔑を意味してキリシタンを取り締まった当時の役員から押し付けられた姓であったということを説明しました。

 そのことと関連がある面白い話です。
 
 私の出身地の若松町桐古里には「黒髪(くろかみ)」という姓を名乗っている方がおられますが、この姓の元の姓は「黒髭(くろひげ)」であったそうです。この姓をつけられたキリシタンは胸毛が蜘蛛の巣のように生い茂っていたことから役員からおもしろ半分につけられた姓であったそうです。

 その後、信仰を自由に守ることができるようになってから自分たちで「黒髪」に改姓したということを、明治25年生まれの私の父たちが面白い昔話として話していました。
 
 また、私の出身地には「鼻山(はなやま)」という姓を持つ方がおられましたが、この姓を持つ人も団子鼻で格好悪い顔つきをしていたのでしょう。この姓も役員から強引につけられた姓であったとか・・・

 他方、キリシタンを取り締まった役員たちも踏絵を踏み、一時的に信仰を否定したキリシタンたちには自分の姓を自由に名乗らせた。しかし、このキリシタンたちもすぐ改心戻しをして元の信仰に戻ったそうです。

 このような話はどのキリシタン史の本にも書かれていない。単なる口伝でしかないでしょうけど、私には本に書かれていることより真実味がある話ではないかとも思うのですが、読者の皆さんはどう思いますでしょうか。

5、幼児洗礼

 カトリック長崎教区では夫婦の間に子供が生まれたときに洗礼を授けるという「幼児洗礼」の習慣が今でも定着している。
幼児洗礼はいわば神の命の誕生であり、子供の心に永遠の命への道を開いてあげることになる。
青木師の時代においては幼児洗礼は救いにいたるために、なくてはならない秘跡であるとの信仰が深く、幼児洗礼の習慣は大切な親の務めとして根 づよく支配していた。
だから、両親は我が子の人生がどんな人生になろうとも、神様の力によって救われ、永遠の幸せを得られるように、1日も早く洗礼を授けていた。

 
 
青木師が授けた幼児洗礼
洗礼日 合計 授洗者名
当日に洗礼をうけた人数 15人
木兵助師
翌日に洗礼を受けた人数 33人 青木兵助師
翌々日に洗礼を受けた人数 10人 青木兵助師
 
簡単な解説

当日、洗礼を受けた幼児の場合                   

 当日洗礼を受けた受洗者15人のうち3人は臨終の洗礼となっている。そのうちの一人である米山教会の新生児・山田波五郎の両親は、米山で生まれたばかりの当日(1899年12月11日)、4キロの山道を徒歩で仲知教会まで連れて行って洗礼を受けさせているが、残念なことにその日のうちに死亡したことが同台帳に記されている。
同じように、1900年1月11日、仲知で生まれた新生児・水元カノも自宅で受洗の恵みを受けているが、その日のうちに死亡している。この洗礼も臨終の洗礼であり、この子の両親は生まれた子を司祭がおられる教会までつれて行く時間の猶予がなく、やむをえず仲知の伝道師であった水元作兵に頼んで洗礼を受けている。

    翌日に洗礼を受けた幼児の場合          
 青木師は1900年12月14日、赤波江教会で、野首で前日に出生したばかりの新生児・白濱スマに洗礼を授けている。当時、野首から赤波江までの交通の手段はもっぱら伝馬船に頼らざるをえなかった時代のことである。海上が少しでも時化ると本土に渡ることは出来なかった。白濱スマが洗礼をうけた1900年12月14日の海上は、幸いにも冬にもかかわらず穏かだったのかもしれない。あるいは、海上がけっこう時化ていても、瀬戸脇まで山道を歩き、それから津和崎港まで伝馬船でどうにか渡って、さらに6キロも山道を歩いて赤波江までたどり着いたのかもしれない。
 
 


 

青木義男師略歴
同師は、慶応2年10月3日福岡県太刀洗に生まれ、明治32年2月5日司祭に叙階された。平村貞一師、池田秀穂師、それに仲知小教区と上五島地区とで司牧された中村五作師と大崎八重師とは同期である。
昭和30年4月24日黒島教会で老衰のため逝去された。91歳。長崎教区司祭中最高齢であった。
葬式は4月26日黒島教会で執行、同教会墓地に葬られた。
 
 

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