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   ペトロ・古川 重吉師

1928(昭3)年〜1936(昭11)年 
 
 
 
第2次信徒集団移住
 
 
 昭和3年12月人事異動により、中村五作師は9年間の司牧を終えて、下五島久賀島の浜脇教会へ転任され、第4代仲知小教区主任司祭として、司祭に叙階されて間もないペトロ・古川重吉師が着任された。

 活力に満ち溢れていた古川師は着任早々仲知小教区内の教え方養成を地元の仲知でする方針をとられ、師のリーダーシップによって18年ぶりに仲知伝道学校が開校された。

 古川師が着任された頃の仲知小教区の教会籍を眺めてすぐに気づくことは、移動家族が多いことである。
 そこで、ここでは信徒移住について考えてみたい。
 住み慣れた家や土地を離れ、全く未知の世界に移り住むと言うことは誰にとっても非常に辛いことであり、いろいろと困難が伴うのが普通である。

 しかし、どうして仲知小教区の信徒はそのような困難が待っている見知らぬ土地へと移住したのだろうか。
 飽食の時代の私たちには信じられないことであるが、現実は生活のため、生きていくためのやむを得ない移住だったのである。

 仲知小教区の大水、大瀬良、小瀬良、江袋、仲知、赤波江、米山、野首、瀬戸脇の各信徒集落の教会籍によると、師が着任された昭和3年から昭和15年頃までの12年間の移住家族は47家族にも及ぶ。

 その内、長崎には尾上雄三(江袋)、大水時蔵(大水)、瀬戸由松(瀬戸脇)、大水藤吾郎(大水)、白濱徳三郎(米山)、山添益恵門(仲知)、山下一衛門(仲知)、赤波江誠志郎(赤波江)、江口初衛門(赤波江)の9家族が移住。

 佐世保には白濱沢次郎(仲知)、大水荘吉(大水)、山口喜助(江袋)、小瀬良留次郎(小瀬良)、小瀬良末太郎(小瀬良)の5家族が移住し、田平には仲知から真浦栄次郎、島本兼松、島向島吉、島本杉松、山添辰衛門の5家族が移住している。
その他、新魚目村野首、有川村鯛ノ浦、上五島村奈摩内など同じ上五島地区内に7家族、県外には5家族、ブラジルにも米山から1家族移住している。

 しかし、これらの32家族に加えて特筆しなければならないのは江袋、赤波江、大水、小瀬良から全部で15家族も福岡県行橋市の新田原に移住していることである。

 江袋からは谷上仁吉、谷上栄作、上田益恵門、上田熊吉、楠本喜一郎、谷口国五郎、海辺清五郎の7家族、赤波江からは川端金助、肥喜里豊作、肥喜里末吉、江口留吉、川端仙次郎、赤波江富五郎の6家族、大水から大水末次郎、大水喜衛門の2家族となっている。
 
仲知教会

 古川師が着任された昭和3年ごろの日本の経済は昭和恐慌と呼ばれて、企業の倒産が相次ぎ、全国中に失業者が増大した。
これに伴って、各種の農産物の価格も暴落し、都市の失業者が帰農したため農業の困窮は著しく、欠食児童や女子の身売りが続出した。

 仲知の信徒の生活も不景気のあおりを真っ向から受け、貧しい生活がさらに貧しくなった。

 それに、限りがある畑では自然増加した信徒数を賄う食料を調達することにはおのずと限界があった。当然、子供に先祖が汗水たらして開拓した貴重な耕作地を長男にも次男にも平等に分けようとすれば親子共倒れの恐れがあった。
また、信徒の生活は多くは半農半漁の自給自足の生活であった。
 
 明治後期には江袋と仲知に地場産業として鰯網船団が4 5船団あり、1時期においては活況を呈していた頃があったようであるが、間もなく、思わぬ不慮の事故に遭遇したり、漁獲高が減少したりしてこの産業も、古川師の頃には衰退していた。 

 このような諸事情によりやむなく移住を決意し、新天地を求め、既に他出している親戚縁者を頼りながら県内外へ移住する信徒が続出した。
 新田原への移住家族がその典型である。

 新田原小教区の草分けは、大正15年北海道トラピスト修道院が新田原に設立した修道院分院の修道士5人であった。この5人の修道士の内、副院長の谷上梅吉師と谷上高吉師は江袋教会出身、赤波江雪良師は赤波江教会出身である。

 教会籍によると、仲知小教区での一番最初の移住家族は昭和3年で江袋の谷上仁吉の家族であるが、この家族は新田原の開拓所の谷上梅吉・高吉兄弟が呼び寄せて移住させたものであろう。

 いずれにせよ、仲知小教区から新田原への移住者が多いのは、身内の聖職者が開拓移住を勧めたことによるものである。

 現在、新田原小教区は福岡教区のカトリック教会としては信徒数の多い大きな教会と発展しているが、今でもその信徒数の大半は仲知小教区出身信徒である、と言われている。
 

 

仲知修道院の新築工事
         1936年

 
1936年 新築された修道院玄関
 
 古川師が仲知に着任された頃には仲知の女部屋住居は老朽化していたことと、会員の増加により手狭になっていたために立て替える必要に迫られていた。

 古川師は仲知小教区の主任司祭として単に会員の霊的な指導だけでなく、生活面の指導監督の責任もあった。というのは仲知の女部屋の姉妹たちは主任司祭の司牧の奉仕を目的として創立されていたからである。それにまた仲知の姉妹たちが早坂司教の命により神学校の賄いの奉仕をするようになったので、古川師も主任司祭としての立場で司教と仲知女部屋の院長の真浦ソノに協力して入会者を募集するとともにその生活面の面倒をみてあげるため極力努力しなければならない立場にあった。

 ここでは「仲知修道院100年の歩み」に基づき古川師が姉妹たちの生活面の指導として行ったことを二つだけ取り上げよう。

1、洋裁業

 昭和3年、古川師のお勧めで仲知修道院は洋裁の仕事をすることになった。

 会員の真浦イトは大浦神学校に奉仕している姉妹たちを手伝いながら、長崎市浪の平で開業していた中ノ瀬仙重氏の洋裁店で半年間実習して帰った。
昭和4年、中ノ瀬さんの世話で工業用のミシンが導入された。

 早速、青年・中年層の人たちによる注文を受け、ズボン、ワイシャツ、カッターシャツなどを仕立てた。婦人物はその頃流行した事務服と呼ばれた普段着を縫った。

 昭和6年、仲知小教区の堅信式のとき、受堅者全員にお揃いの堅信服を仕立てた。この時は数ヶ月前から姉妹たちが昼・夜協力して仕立てを間に合わせた。男子は黒ズボンと白シャツ、女子はデザイン、生地共、非常にモダンなワンピースで主任司祭も信徒たちも大喜びであった。
 
平成13年3月、仲知で撮影した花(ガザニア)

2、修道院新築工事

 昭和7年、修道院の新築計画が進められた。
この新築工事は古川師のご配慮と指導により、仲知小教区の全面的な協力と援助によって進められ完成したものである。古川師は先ず、建設委員会を発足した。委員は瀬戸与三郎、真浦泰造、山添五郎作、久志庄吉、山添留五郎、山添幸吉の6人で構成され、敷地の場所、資金の捻出方法、信徒の労働奉仕等について話し合いが持たれた。

 敷地として津和崎郷字丸山1048と1046の松林を求めた。松林の伐採、石垣つぎ、整地のため、地元の信者は勿論大水、大瀬良、小瀬良、米山、赤波江の小教区全部の信徒たちに交代で労働奉仕を提供してもらった。
この住宅敷地の整地の仕事は機械のない時代で人力でのみ行われたので2年余の長い歳月を要した。

 昭和10年、上五島町三日ノ浦に新築したばかりの大きな平屋が売り物に出された。
古川師のお世話によって当時200円で購入した。
同年、7月、建設委員が先頭に立ってこの時にも仲知小教区の各集落から交代で船を出し、解体作業と運搬にあたった。
設計施工は津和崎郷の畑山吉兵衛大工。

 翌年2月上旬、畑山大工の指揮のもと農繁期を利用して基礎コンクリート工事が始まった。
購入した家は一階建てであったが、2階建てとし300円の工事となった。木造瓦葺建て、廻り縁、玄関、応接間、客用トイレ、洗面所、延べ135坪の修道院で当時としては仲知小教区内で唯一の大きな建物で昭和23年8月新築された仲知教会新築の祝賀会の会場はこの修道院で行われた。

 こうして昭和11年6月10日、古川師と仲知小教区のすべての信徒のご好意と献身的な労働奉仕によって立派な修道院が新築落成した。苦労が多く3年という長い年月をかけて完成した工事であっただけに会員とその家族だけでなく、古川師と小教区の信徒にとっても大きな喜びであった。当然のことながらその落成式は小教区あげての盛大なものとなり華やかな祝宴が催された。
 
 

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