ペトロ・古川 重吉師

1928(昭3)年〜1936(昭11)年 
 
3、思い出 大水ミエさん

 
大水教会
 
 大水教会信徒大水ミエ(77歳)さんの古川師についての思い出はあらまし以下の通りである。

 「古川師についての印象は愉快でのんきな人であった、ということに尽きる。仲知から大水への巡回は山道を歩かなければならず、司祭にとっては難儀なことであったと想像できるけれども、こと古川師に限ってそうではなかった。むしろ、師は大水巡回を楽しみにして来ていたようである。大水に来るとたいてい二泊くらいはして愛用の空気銃で雉を仕留めたり、大水の川でウナギ釣りを楽しんでいた。現在、大水の川は貯水池となっていて水量も少なく、水質もやや悪くなっているようだが、昔の川は文字通り水量の多い清流でウナギの格好の棲家となっていたので、大人も子供たちもウナギ釣りをして不足しがちなタンパク源を補っていた。

 旧大水教会の近くにあった信徒集会所の隣は花畑となっていたが、その花畑を簡単に整地してにわか土俵をつくりそこで小学生の子供たちに相撲をとらせて面白がっていた。

  堅信は生涯忘れることの出来ない思い出の一つであるが、この堅信も古川師の時に仲知教会で受けた。
 堅信の前には一週間の黙想会があり、そのときには仲知小教区の八つの集落からすべての受堅生が仲知に集合していたので仲知は非常に賑わっていた。15人ほどの大水の子供たちは教会下の水元三五郎宅に宿泊をとって黙想会にあずかっていた。        

 また、大水の子供たちは成績が良いということで古川師の特別な計らいで小学4、5、6年生で堅信を受ける許可をいただいた。

 その分教え方の指導は非常に厳しかった。
彼女たちに稽古を仕込んだのは大水ユキであったが、稽古に遅れると、罰としてユキの家にあったひきうすを膝の上に載せられることや、窓から外に放り出されることがあった。
ほら貝で稽古の時間を知らせるということもなかったので、子供たちはめいめい学校から帰ると、ランドセルを家に置くと直ぐ彼女の家に遅れないように急いでいた。
 稽古では公教要理の暗記が主であったが、よくテストがあって答えられないとおごられていた。宿題も出されていたので家で大声を出して読み暗記していたが、翌日のテストで答えられないとまたおごられていた。

 このように厳しくしつけられて堅信を受けた後、後日、大水で郷民からお祝いのご馳走をいただいたことはいまでも良い思い出となっている。
 

花
 平成13年4月5日、米山教会前で撮影
 

4、思い出 小瀬良留三氏
 
 小瀬良教会信徒小瀬良留三氏(73)の古川師についての思い出はあらまし以下の通りである。

 「古川師は少年時代の主任司祭で歴代の主任司祭の中では一番最初の思い出深い司祭である。神父様は父・小瀬良栄次郎と親しく付き合っていたが、年の黙想会などが小瀬良教会であったときなどはよく空気銃で近くの山に入山しヒヨドリなどの小鳥の狩猟を愉しんでおられた。私たち家族の者がワナをかけて捕った物も「いりませんか」と言うと「うん、ありがとう、持って行く、持って行く」と喜んでおられた。

 終戦直後のこと、その頃乗っていたアグリ船がドック(エンジンとか、船体の定期点検)のために長崎に入港したので久しぶりに神父様に会いに中町(長崎市)に行った。司祭館のベルを押すと、神父様がお出でて私を見るなり「おっ、栄次郎おんじの息子じゃなかとか」神父様は仲知小教区を離れてからもう10年くらい過ぎているのに良くぞ覚えてくださっていると思って「神父様、頭のよか、よく覚えておられる」と言うと「おう、お前の顔に名前が書いてあるもん」と冗談を言われた。
「もうちょっと早く来ればよかったのになあ」 
「何かよいことでもあったのですか」
「教会の修築工事をするのに台湾からバナナが送って来たばって、もうなかもんな・・・」
そのとき神父様は教会修築工事でお忙しい様子であった。

5、思い出 前長崎市長 本島等

 
江袋教会
 
 私は、今年76歳になりました。まがりなりにも、カトリックを守り続けたことを誇りに思っています。仲知小学校を卒業して故郷を出て、一人で歩いた人生でした。

 戦後になって、私が驚いたのは、私は大正11年2月20日生まれになっているのに、洗礼は2月1日になっているのです。私は父母と早く別れ、祖父母と独身の叔母と4人で育ったのですが、生まれてすぐ洗礼を授かって、遠い役場への届け出は20日間もほうっておいたようです。洗礼が大事で、出生届はあとからいいじゃないかと思ったようでした。今日では子供が生まれてから20日間も届け出を怠ると罰を受けるのです。

 次に驚いたのは、私の霊名の聖人は「イグナチオ・ロヨラ」です。誰がつけてくれた保護の聖人でしょう。私の代父は隣の家の叔父ですが、明治のはじめに生まれた叔父の 霊名の聖人が「イグナチオ・ロヨラ」だったのでしょうか。

 皆様もご存知のように、「イグナチオ・ロヨラ」はイエズス会の創立者です。今日、全世界にたくさんの大学などを持ち、教育事業を中心にしている最も大きな修道会です。
私の仲知小学校の10年後輩に、島本大司教様がおられます。私も時々お目にかかりたいなあと思いますが、とてもお忙しそうでお目にかかれません。

 しかし、島本大司教様の霊名の聖人は、「フランシスコ・ザビエル」で東洋の聖者といわれていますが、イエズス会の創設の時は、 「イグナチオ・ロヨラ」が先輩格でした。
だから、島本大司教様は 「フランシスコ・ザビエル」、私は 「イグナチオ・ロヨラ」ですから、私が大司教様より先輩格になるのではないでしょうか。

 次に、私が60数年前のことを今でも思い出すのは「初金曜日のミサ」のことです。
江袋から仲知の御堂まで、朝暗いうちに起こされて、飯も食べんで、学校の教科書など持って、ぞうりをはいて、山道をトボトボ叔母に連れられて歩きました。小さい頃ですから、道を歩きながら眠りました。しかし、叔母はずうっと歩きながらロザリオを唱えるのですから、私は居眠りしながら、ロザリオをつぶやきながら歩き続けたわけでした。

 ときどき、叔母は歩きながら言いました。「これからはお前一人で、世の中を渡るのだから、病気もする。悲しみも苦しみもある。人生の失敗もある。だまされることもある。今、小さい時に神様に頼んで、祈っておけば、大きくなって、忙しくなっても、神様はいつもお前のことを気にかけてまちがわせないようにしてくれるのだ」

 江袋から仲知までの道は、今と違って、幅1メートルもない粘土の石ころだらけの道でした。
仲知の御堂に着くと、さあ、たいへんです。「告解」です。先日「告解」を字引で引いたら「カトリック教で、信者が、自分でおかした罪を悔い改め、司祭に向かって述べて、神による罪のゆるしを求めること」とありました。字引は旨く書いてありますね。

 早く仲知教会に着けば、神父様に頼んで「告解部屋 」で告解できるのですが、時々は遅れて、神父様が祭服を着て、待者を従えて、まさに祭壇に出て行こうとしています。
それを叔母が頼んで、神父様の前で、 侍者もおるところで 告解するのですから、恥ずかしくてどうしようもありません。
その時の神父様が「古川重吉」といいました。不思議に、その後、佐世保の三浦教会に行っても、長崎の中町教会に行っても古川神父様にお世話になりました。

 今、全国をまわって講演をしております。北海道から沖縄まで、誰でも私が五島の出身で、カトリックと知っているようです。 70年前の仲知小学校は、全校生徒120人、全部カトリックでした。

     「仲知小教区史」より
 

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