ペトロ・古川 重吉師

1928(昭3)年〜1936(昭11)年
 
古川師の略歴
 
昭和22年12月、中町教会に赴任した頃の古川師
 
 古川師は明治33年西彼杵郡外海町黒埼に生まれ、長崎神学校を卒業して昭和3年、鶴田源次郎、山口福太郎、片岡吉一諸師らと一緒に司祭に叙階された。

 叙階後は、中町教会助任を振り出しに、五島仲知、神の島、鹿児島市山下町、佐世保市三浦町などの主任司祭を歴任、昭和17年台北の華山教会主任として台湾教区長、里脇浅次郎師を補佐された。

 終戦後、昭和20年12月福江教会主任、22年には古巣の中町教会主任を命じられて今日に至っていた。
昭和23年以来長崎大司教区総代理として、山口大司教、里脇大司教の補佐役を果たされた。

 信仰篤く、深い知性を謙虚な温厚に隠して、人々の救霊のために働きつづけておられたが、深く秘められた知性と剛毅とが、事あるときに顕われ、教会と人々を守り助けるのであった。
 
 その一例として戦時中、佐世保三浦町教会に暴徒たちが押し寄せたとき、ただ一人従容として暴徒の前に出て、彼らの意気をくじき、説得して事無く立ち去らせたことなどは今日まで語り草となっている。

 咽喉ガン手術後も助任司祭に助けられながら現役で信徒の司牧に当たっておられたが、昭和45年11月14日中町教会司祭館で急逝された。享年70歳。

 11月16日、中町教会で行われた教区葬には、参列者が溢れて、今更のように故人の徳望が慕われた。遺体は同日、浦上赤城の聖職者墓地に葬られた。

弔辞

 古川師は長いこと教区総代理として長崎教区に貢献があった司祭で、昭和45年12月1日発行の長崎教区報「教報」には古川師の突然のご逝去を痛む追悼文が特集されている。
 ここでは追悼文の中から3人の追悼文を選び故人の遺徳を偲ぶことにしたい。

1、お別れの言葉
   中町教会信徒代表 深堀 保郎

  
囲碁を楽しむ在りし日の古川師(「中町教会献堂90年」より)
古川神父様、神父様は突然召されて天国に行かれました。
 神父様の死に立ち会った私さえ、まだ生きておられるのではないかと何べんか思いました。

 ちょうど23年間も長い間中町教会の主任司祭として、我々信徒のためにお働き下され数々のお世話になりました。
 本当にありがとうございました。

 終戦後間もない頃に着任されましたので仮聖堂と仮司祭館はありましたが、原爆に焼かれたこのお御堂は外郎ばかりで屋根もなく中は瓦礫の山でした。

 その中で信徒大会を開いたのは吹き嵐の寒い冬でした。出席者全員が戦前のような立派な聖堂にしようと否以前より立派なものを造ろうと決心したあの日の感激を今も忘れることが出来ません。
乏しい信徒の醵金なので教区の援助、外部からの募金、又材料の収拾などに苦労され、こんな立派な御堂にしてくださいました。

 その後10年くらい経って現代的な司祭館が出来ました。これはもちろん私たち信徒の醵金もありましたが、神父様の熱意が造り上げたと信じます。

 こんな物質的なものばかりでなく、私たちの精神面にも大きな影響を与えてくださいました。
例を掲げますといろいろありますが、カトリック・アクション団体の設立からその基礎を固め刺激を与えてくださいました。聖ヴィンセチオ・ア・パウロ会、あるいは青年会など暫時活発に活動するようになりました。

 神父様は派手なことはほとんどなさらない。
取り立てての注意とか訓示もなさらないが、色々の雑談のうちに、とにかく、神父様に接触するうちに神父様の意中が分かるようになるのです。
これは神父様の人徳のいたすところと思っています。

 ごいっしょに多数の人と魚釣りに行き、釣った魚を味噌汁にして味わった海岸の味、また善長谷のルルドに参詣してご馳走になった甘酒饅頭の味、と楽しい思い出がたくさんあります。
こんななんでもない事柄でも神父様の徳に接して、私たちの信仰生活もいくらか向上していったものと思っております。

 このようなことを思いながら神父様に篤い感謝を捧げます。また、神父様のためのお祈りを忘れないようにしようと思います。
 どうぞ安らかにお眠りください。

 このごミサの中に信徒代表が共同祈願で神様に祈ったように、神父さまの遺徳に倣ってこれからさらに努力したいと存じます。

 何とぞ天国において私たちの決心がくじけないように、さらにその努力が実を結びますようにお守り下さるとともに、主に私たちのためにお祈りください。

 率辞ながらこれをもってお別れの言葉といたします。

昭和45年11月16日
「カトリック教報」昭和45年12月号より引用
 
 
牛とたわむれる古川師(写真は「カトリック教報」より)

2、お別れの言葉
            鶴田 源次郎

 古川師の遺徳を記すように依頼を受けたが、突然の死に旧友の一人として非常なショックを受け、ただ呆然としているだけである。
 同級生が次つぎと欠けて行くのは、何か持っているものを奪い去られていくようで、深い悲しみを覚える。

 私の同級生の内司祭叙階を受けたのは8人で、このうち、田崎正雄師は病弱のため叙階後わずか1年半で他界され、次には大阪教区の都田師、今また古川師と4人はすでに幽明堺を異にすることになった。
 生き残っているのは、京都の古屋司教様、山口福太郎師、片岡吉一師、そして自分だけである。

 古川師は「のんきな父ちゃん」と愛称されていたが、神経はとても繊細で、思慮深く、石橋叩いて渡るような用心さと、一方物事に動じない魂胆の持ち主であった。

 戦時中、佐世保で起こった教会弾圧事件の時、彼が良くあの難関を切り抜けたのはこうした性格のしからしめるところと思っている。

 信者司牧の業務においてはつとめて表立った華々しさを避け、その優れた陰徳と、深い英知によって群羊に豊かな糧を与えていた。

 彼はまた優れた運動神経の持ち主で、テニスの神様と言われていた他、書道に、銃猟、釣りに他の追随を許さない技能を持っていた。

 私が鯛ノ浦在勤中、彼は上五島の仲知におり、よく行き来していたが、空気銃の一つ弾で、ひよやはとを射止めてご馳走してくれた。
 その頃から、釣りは彼の道楽の一つで仲知の沖合い上には「古川神父様瀬」というのが誕生したくらいである。

 中年後、囲碁は彼の一つの趣味であり、教区司祭のまとめ役として、彼の円満な人格と共に
囲碁はその一翼を買っていることは争われない。

 遇ぐう彼は逝去の寸前まで、ぞっこんの友人2人囲碁を楽しんでいたと言われるが、私はこの話を聞いた時、あの聖アロイジオ・ゴンザガの逸話にある「今世界が終わっても私は続いて遊びます」と言った言葉が頭に浮かんできた。
彼の死も真に奥ゆかしく、自分にも、このような死が与えられることを祈っている。

  

昭和45年12月1日
「カトリック教報」昭和45年12月号より引用
 
3、古川神父様と床屋
 
 台北(台湾)で働いてもらっていた時、長崎の信者で18年間教会を離れていた床屋さんがいたのを回心させるために、古川神父様は2年間、近く に床屋があったにもかかわらず、その信者夫婦の床屋に通い続けた。そして、その夫婦はついに教会に戻ったのです。

 また、台北の教会は、たまたま、総督府の近くにあった。空襲が激しくなって、総督府が狙われだしたし、信者たちも疎開し少なくなっていたので心配のない所へ移るように勧めたが、古川神父様は、自分の羊である信者が一人でもいる間は教会を離れることは出来ないと言ってガンとして動こうとしなかった。

 とうとう、教会の近くに五百キロ爆弾が落ちて、近所は火災になったが、教会は延焼をまぬがれた。
そこで、私は、辞令を出して安全な所へ移ってもらうことにしました。
 
     里脇大司教様を迎えて堅信式(「中町教会献堂90年」より)

里脇大司教さまの思い出話 から
「カトリック教報」昭和45年12月号より引用
 
4、古川師と私(下口)

 私も古川師を知っていますが、直接神父様と会って話したり、また、そのミサとか、説教を聴いた覚えがありません。大神学生の時代には3人の兄姉たちが中町教会所属であったため、神父様が主任司祭をなさっていた中町教会の平日のミサに、時には日曜日のミサにも与かっていました。でもそのときにはすでに古川師は咽喉ガンの手術をなさった後のことであったので、主任司祭ではあっても日曜日のミサも含めて教会の司牧はほとんど助任司祭に任せていた時だと思います。

 
 
40年余り伝道婦を務められた野浜アイさん(「中町教会献堂90年」より)

  教会前の古びた建物は信徒集会所だったでしょうか、そこには伝道婦をしていた久賀出身の野浜さんという親切な方がいましたので時々立ち寄ってはお茶をよばれていました。

 そんなときに司祭館あたりを歩いている後姿を何回かみたり、何かの用件で来ていた信者と話している様子をちょっと見かけることはありましたが、自分のほうから積極的に挨拶することは遠慮していました。

 その程度の印象でしかありませんが、私は私なりに神学生の立場で、囲碁が好きで、いつも訪問客が絶えず、物静かで、偉い神父様というよりも、ひとなつっこいおじいちゃん神父様だとの漠然とした印象を持っていました。

 助任神父様は短期間に次々と変わっていかれましたが、小島神父様と古川師の最後を看取られた平野神父様のことを覚えています。
(小島神父様は説教がお上手でいつも感心しながら聞いておりました。ミサの福音で朗読された放蕩息子の例えの説教は理路整然とした説明で今も覚えています。
 平野神父様は青年会活動に力を注いでおられました。そして、主任司祭を「親父」と呼んでの弔辞はとても感動的でありました。)

 
 
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