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ヨハネ・萩原 浩師

1905(明治38)〜1906(明治39)年
 
 
顔写真
 1905(明治38)年7月、司祭に叙階されて間もないヨハネ・萩原浩師が江袋教会で病死された道田師の後任として上五島地区に派遣され、北部の仲知地区の信徒の司牧をゆだねられた。

 師の在任期間も1年7ヵ月と短かったが、師は信仰心に満ちあふれた愛情をもって、自分にゆだねられた9つの信徒集落である小瀬良、大瀬良、江袋、赤波江、仲知、米山、瀬戸脇、野首を定期的にくまなく巡回し、その聖なる任務を誠実に果たされた。
 

 師の上五島への派遣は当時の長崎司教であったクザン司教の権限によって行われたものであるが、それぞれの司祭の司牧活動には神から与えられたカリスマがおのずとその司牧に反映されるものである。

 ところが、アルベルト・ペルー師が五島列島の主管者となった1893(明治26)年からは、上五島地区に派遣された司祭の任期がどの司祭の場合も非常に短かったために、それぞれの司祭のカリスマや司牧の特徴を把握することは困難で萩原師もその一人である。

 師は後年、現在でも礼拝堂として使用されている佐世保市浅子町に所在するカトリック浅子教会と平戸市紐差町に所在するカトリック紐差教会を建立され、司牧だけでなく、教会建築の分野においても見事にそのカリスマを花咲かせたことになる。
 
 

昭和4年頃の北松地区を司牧された司祭たち 
萩原師は前列左から二人目

 
 
昭和2年萩原師が建立した浅子教会 紐差教会

 ここでは1905(明治38)年12月5日、江袋教会において師の愛情あふれた指導により、晴れてキリストの証人となるべく聖霊の恵みを受けた仲知地区96人の受堅者の中から3人にスポットライトをあててみよう。

 3人に共通しているのは江袋教会の出身であることと、今でもカトリック修道会の中では最も厳しい修道会とみなされているトラピスト修道会入会者であるということです。
 

● ヨゼフィナ・上田スマ
上田益恵門・ヨネの3女として明治24年3月17日江袋で生まれる。中学卒業後の15歳の時(明治39年4月)、江袋まで志願生募集に来られたシスターの薦めに従い、北海道トラピスト入会。


       ● カタリナ・山口ソノ
     山口初三郎・トメの長女として明治25年2月19日江袋生まれる。中学卒業後の15歳の時            (明治39年4月)同級生の上田スマと一緒に北海道トラピスト入会。
 

       ● ペトロ・谷上梅吉師

 
本人の顔写真
 谷上仁吉・トシの次男として明治26年4月8日、江袋で生まれる。中学卒業後の15歳の時(明治39年4月)北海道の厳律シトー会トラピスト修道会に入会。
 日本人初のトラピスト司祭。
師は修道院の建設、農牧場の拡張工事とその管理、外部との交渉、志願者募集に活躍。

 特に福岡県行橋市の郊外にあった未開発地帯の原野・新田原にトラピスト分院を創設した時は、同じトラピスト司祭となった弟の谷上高吉師、赤波江教会出身の赤波江雪良師、それに弟の谷上末作修道士と一緒に大きな力を発揮され、カトリック新田原教会の生みの親となった。
 さらに、師をたよって新田原へと移住した江袋、赤波江、大水、仲知、小瀬良の信徒の心の支柱となった。
 

 ところが、50代の働き盛りに健康を害して病床にふし、修道院内で療養に努めたが思わしくなく永眠された。

 なお、長崎教区司祭・ペトロ阿野武仁師は師の甥に当たる。阿野師から聞いた話によると、師はいつ頃のことなのかは分からないが、平戸方面へ何かの用件があって来たついでに、少年時代の思い出が いっぱい詰まっている郷里の江袋に帰郷しようと非常に楽しみにしていた。

 ところが、宿泊先の紐差教会司祭館(牧師館)の2階から滑り落ちて負傷し、念願の帰郷は果たせなかったという。
 

 現代人の多くはトラピスト修道院というと、囲いの中に押し込めらて毎日、朝から晩まで沈黙を厳守しながら祈りと労働にあけくれる厳しい修業が続き、しかも一生その囲いから出られないというイメージを持っている。

 ところが、実際はまったく別で、世から隔離されているようで自由であり、その自由の中でキリストとの一致を深め、世の辛苦を共にし、日々の祈りと労働の生活を通して神の恵みに生かされ、喜び、人々の真の救いと幸せを求めている自由な人である。
 
 江袋の信徒もこのような夢を持ち、その実現のため当時の司祭・萩原師の呼び掛けと期待にこたえて入会したのではないだろうか。

 
 
谷上神父3兄弟の写真       1.谷上梅吉師 2.谷上高吉師 3.谷上末作修士

 
 
 
光世さんのコーヒーブレイク 
 
I、江袋教会 信徒の苗字について

  明治時代の仲知小教区家族台帳を見ながら不思議に思ったことがある。
 それは仲知小教区内に所在していたキリシタン集落の信徒の苗字のほとんどが地名、地物、地形から名づけたものであることは一目瞭然であるが、各集落の苗字はたいてい2つか3つの苗字に限られているのに対して、江袋集落の信徒の苗字だけは多種多様であるということである。

 くどくどと説明するよりも表にして説明したほうが分かりやすいのではないかと思うので以下のとおり簡単に表を作成してみた。

 
集落名 苗字
大水 大水
小瀬良 小瀬良、不津木、船倉
大瀬良 大瀬良
江袋 山口、上田、浜口、今野、川端、楠本、宮脇、本島、尾上、田端、谷口、江口、谷上、海辺、山中、浜上
島の首(仲知) 島本、島元
真浦(仲知) 真浦、植村、前田、島向、谷中
一本松 山添、紙村、真倉
久志 久志、井手淵、水元、浜本、五輪、
竹谷 竹谷
米山 白濱、道下、山田 、又居、赤倉
瀬戸脇 瀬戸、白濱
野首 白濱
赤波江 赤波江、肥喜里、江口
 江袋の信徒の苗字は16を数えバラエティーに富んでいる。この名簿には記載されていないけれども、古い書類、伝承、それに本人の供述によれば島田喜蔵師も江袋出身となっているし、江袋教会信徒宮脇優氏(70)の話しによると、仲知に現在居住して三宅姓を名乗っている信徒の先祖も江袋出身であったということですから、これら二つの苗字をたしますと江袋集落の姓は合計で18の苗字となる。
II、 苗字をつけることが遅れた理由
 平民が苗字をつけることが出来るようになったのは1870(明治3)年のことである。
 ところが、フランス人宣教師・ブレル師からその記録が始まった仲知地区の洗礼簿によると、この地区の信徒が実際に苗字をつけ始めるのは、下記の表によって分かるように、どのキリシタン集落ともだいたい明治17年前後となっている。
まず、表にして苗字をつけるのが各集落とも遅くなっていることの事実とその説明をした後、次に、これにはどのような時代的背景があったのだろうか、少しだけ考えてみたい。
 
集落名 洗礼簿作成年 苗字の記録開始年 苗字を記した宣教師名
仲知教会信徒 1881(明治14)年 1885(明治17)年 フレノー師
江袋教会信徒 1884(明治17)年 1885(明治17)年 ブレル師、トラ師
フレノー師
赤波江教会信徒 1881(明治14)年 1885(明治17)年 マトラ師、
フレノー師
米山教会信徒 1877(明治9)年 1886(明治18)年 フレノー師
小瀬良教会信徒 1881(明治14)年 1885(明治17)年 ブレル師、
フレノー師
大水教会信徒 1881(明治14)年 1886(明治18)年 フレノー師
野首教会信徒 1880(明治13)年 1885(明治17)年 フレノー師
瀬戸脇教会信徒 1880(明治13)年 1886(明治18)年 フレノー師
表の説明
 上の表によって分かるように、
この地区の信徒が苗字をつけだしのは明治17年に集中している。この頃からはすべての信徒に姓と名前のフルネームで洗礼簿が記録されるようになる。
明治17年といえば当時の上五島地区の司牧宣教の責任者で多大の功績を残しているブレル師が遭難死した年である。

 このブレル師の手によって洗礼簿の記録が始まるのが1880年であるが、それから師が遭難死する1885年の4月までの約5年間の受洗者は2名を除けばすべて名前のみで記録されていて、それまでの5年間は信徒に苗字はついていなかったのではないかと推察される。

 ところが、師が遭難死した年である1885年4月からはどの教会の洗礼簿にも姓名のついた記録が見え始め、その年の内には早くもブレル師の後継者となったフレノー師の手によってフルネームで記録されるようになる。
ここでは江袋教会の場合を例にとりあげて見ると、次ぎのようになっている。

 1882年5月から1885年3月までの93人の受洗者はすべてブレル師によって授けられ、同じ彼の手によって名前だけで洗礼簿に記録されている。ところが、彼が遭難死した1885年4月からは江袋教会で授けられたすべて受洗者はフルネーム(姓名)で記録が始められている。
その記録のサインは同年4月24日と5月8日の受洗者を除けば、すべてフレノー師の記録となっている。

 明治17年というと、庶民に苗字をつけることが許されてからすでに14年が経過している。
では、どのような事情があって仲知地区の信徒たちは苗字をつけることが遅くなったのだろうか。本当は太政官布告によって戸籍法が公布された明治4年の直後に姓はついていたのだが、ブレル師がただ洗礼簿に記録しなかっただけなのだろうか。
ここではそうではないと仮定してみることにして、少しだけ考えてみたい。

 
1)  一般の庶民に苗字をつける事が許された直後の明治5年頃は五島崩れの余波が残り、宗教の自由は法律によって保障され官憲による迫害はなくても、江袋や曽根の迫害にみられるように地元の郷民からの偏見、差別待遇が依然として残っていたから、仲知地区のキリシタンにとっては苗字を役場に届けたとしても、それは表面上のことに過ぎないと考えていたのでないかと思われる。

 あるいは、すべての百姓、小作人、その他どのような家でも、新しく苗字をつけなければならなくなっても、教育程度が低かった当時のこととて仲知地区のキリシタンの中には、何と苗字をつけたらよいのかわからず、村役人や、地主などからつけてもらっていたといわれているからそうしているうちに役場に届けることが遅くなったかもしれない。

2)  無関心

 信徒は宣教師から厳しく教育されたということもあるが、新生児の洗礼は誕生の直後に授けた。それは霊魂の救いに洗礼が不可欠であると考えられていたからである。ところが、役場に出生届を提出することに対しては意外と無関心であり2、3ヵ月程度は遅れて届けるということが一般的な慣習となっている。洗礼簿を見ると、この遅れて提出するという習慣は昭和30年代まで続いている。この出生届と同じように苗字を役場に届けることが遅れていることの理由は信徒の無関心によるものなのか、それとも早めに届けてはいても実際の日常生活において苗字を使用していなかったこともあり得る。

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