ペトロ 浜崎 渡師

1971(昭和46)年〜1975(昭和50)年



 
 
 


 
 
 昭和46年10月、入口勝師は10年間の司牧を終え、神ノ島教会へ転任され、ペトロ浜崎渡師が第12代主任神父として着任された。まさしく、社交家として知られる師の最初の仕事は、同年7月から新築工事中だった赤波江教会の完成に向けて信徒の支えとなることだった。その工事は順調に進み、同年11月に竣工。

 11月14日午後2時、里脇大司教司式により、上五島地区司祭団、新魚目町町長、信徒有志が出席して、祝別式、引き続いて感謝のミサが行われた。建坪40坪、建物の構造は、鉄筋コンクリート造、屋根はセメント瓦葺で、総工費は約700万円だった。
 
旧赤波江教会
新築された赤波江教会

 赤波江教会の献堂式という大任を果たして、ほっとしていると、仲知教会顧問長の久志伝氏から「車の免許を持たないでは、仕事はできないでしょう」と励まされ、自動車学校に通うことになった。その間の司牧は、甥にあたる浜崎靖彦師が小値賀にいたので、安心して任せることができた。昭和47年の2月、免許を取得して帰ると、信者は師の経済的負担を少しでも軽くしてあげようとの思いやりで、最初は中古車を、運転に慣れると新車を提供し、師を喜ばせた。

 しかし、愛車の運転で巡回司牧に励んでいると、今度は新魚目町教育委員会より、入口師の後を継いで教育委員に要請された。師は、青少年の健全育成には家庭、学校、地域の代表者がお互いに横の連絡を取り合うことが必要だと考え、この要請を引き受けることにした。

 教育委員としての仕事は、師に適任であった。他の教育委員との交流が深まる中で、社交家としての才能が発揮され、教育委員会はますます活気に満ち、実り豊かなものとなった。信徒もうわさで、教育委員としての師の活動が評価されていることを知り喜んだ。

 教育委員の仕事は、地域の教育面で奉仕するという大切な任務である。しかし、なによりもまず、信者を神へと導く霊的な利益を考えなければならない。
師は、信徒の教育と信徒的な活動を効果的に行うため、まず、自らが第2バチカン公会議後の神学への教養が必要であると考え、里脇大司教の意向に従い、「聖書に親しめ」をスローガンに信者に聖書を読み、理解させるための説教、講話を熱心に行った。

 また、師は、仲知小教区内で児童の教育に当たっている教え方の養成にも尽力された。その頃、長崎地区においてかつての伝統的な問答式で暗記中心の要理教育に対して疑問が投げかけられ、現代に即応した要理教育の新しい方法に目が向けられていた。里脇大司教は、新しい要理教育活動を効果的に推進するために、昭和44年(1969年)に神学講座を開講された。

 また、昭和47年には、一般信徒のためのやさしい神学入門講座を開始された。しかし、これらの神学講座は、その会場(カトリックセンター)が長崎であったために、その聴講生は長崎市内に居住する信徒とカテキスタに限られていた。
そこで師は、ご自分で16にも及ぶ内容豊かな第2バチカン公会議の公文書を熱心に勉強され、信者にも、カテキスタにも、新しい要理教育のあり方や刷新された教会の教え等を講話し、信徒にもカテキスタにも喜ばれた。

 師の在任期間は3年4ケ月と短かったが、その間に、昭和47年3月30日、小値賀教会は仲知の巡回教会となり、翌日、小値賀幼稚園は長崎教区から町に譲渡され、それまで3年間、その経営と教育を引き受けていたマリアの宣教者フランシスコ修道会は上五島大曽小教区へ移った。
昭和49年6月21日、師の案と熱意によって江袋聖心教会に聖鐘を新設し、祝別式を行った。

 それまでは、ほら貝の音を合図にミサやケイコに集まっていた。しかし、聖鐘新設祝別式の日より集落内に響き渡る鐘の音に導かれて何か違った雰囲気で信仰を呼び覚まされるようであった。当時の楠本房吉宿老は「鐘楼が建って、何となく教会らしく見違えるようになっただろう」と言って喜んだ。建築費は160万円であった。
 
 
 
工事中の赤波江教会

 

浜崎神父様 一言御挨拶いたします。
 
 
江袋教会釣鐘

 今日、皆様方のお陰を得まして、この釣り鐘の落成の座を見ました事を共に喜ぶ次第で御座います。この釣り鐘の落成に至るまでの皆様方の御苦労振り、特に神父様の始めから終わりまでの御心尽くしとその御活躍、土方、左官の仕事までの数々。それから、西田様は長崎からはるばる上五島の江袋まで御出でいただき、かくも立派なつり鐘堂を完成させていただきました。

 開闢以来始めてこの集落に鐘が鳴り響きます。この聖堂は百年になると聞いています。その間ほら貝の音で集まっていましたのが、これからはつり鐘と替わり、空高く響き渡る鐘の音を聞くと、冷たんな私共の心も神のみ声に励まされ足どり勇ましくなる感じで御座います。

 この出来事は、この集落に歴史の一つとして永久にきざまれる事でしょう。かくも、文化と共に信仰の方へも前進させられます事は、神父様、谷口町会議員をはじめ、郷長、役員、信徒の団結の賜で今日この完成を心から感謝すると共に深く御礼申し上げます。今日は、このご苦労を慰安する意味でゆっくりのんでいただきたいので御座います。
 では、まずいながらこれで御礼の言葉といたします。

昭和48年11月
 
 
赤波江教会 餅投げ風景

 

隠れ切支丹への司牧

 この編集作業は平成13年5月10日、深堀教会の司祭館でしていますが、浜崎師については平成13年4月の上旬、仲知滞在の時に収録しているテープがあるので、そのテープを掘り起こし編集することにすることに致します。しかし、編集時間がないので聞いたことの大まかな説明に留める。
 仲知小教区赴任中の浜崎師は歴史に特に隠れキリシタンへの司牧に関心を持っておられた。このことについては、浜崎師に宿老として仕えた仲知教会の信徒久志伝氏と小瀬良地区の隠れキリシタンに詳しい小瀬良教会信徒小瀬良留三さんにうかがった。

仲知教会信徒 久志伝氏に聞く。

 浜崎師の日曜日の説教は言葉使いのよい流暢な説教であったが、年の黙想の説教では浪花節を歌って座を賑やかすことをしていた。

 小瀬良集落の大瀬良金松は隠れキリシタンであったが、妻がカトリックになって死亡すると、自分もカトリックになりたいという希望を持っていてそれがある日、仲知の浜崎師の耳に入った。隠れキリシタンに日頃から関心のあった師は、さっそく大瀬良金松宅を訪問し、隠れの神様が祭られている納戸を開けて見せてもらったりしながら話をさせてもらった。彼との話の途中、金松氏から「神父様、私どんばカトリックに改宗させる気があるならば、まず酒を持って来て一緒に飲んで下さい」と注文をつけられたそうである。
 
上に並んでいる家が大瀬良金松宅

 この大瀬良金松氏を訪問した日の話である。久志伝氏がその週の日曜日にミサに与った時にミサを司式している浜崎師の口元が黒くこげているのに気づき、おかしいと思って師にそのことをお尋ねすると、師はあらまし次のような面白いエピソードを語ってくださったそうである。

 「大瀬良金松氏宅を訪問後、ほろ酔いかげんでさらに別の隠れキリシタン宅に自家用車で移動していたが、タバコを喫いたくなって乗用車に備え付けのフィルターを加熱させてから口にしているタバコに火をつけたとき火傷してしまった。というのは、口にはタバコをくわえているものとばかり思っていたのにそうしていなかった。実際はタバコではなく、唇に真っ赤に焼けたフィルターをくっつけてしまったのである。
これは単純な手痛いミスであるが、金松さんの宝である納戸を開けて宝物はないかと探し物をしたことの祟りでないかと思ったそうである。


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