ペトロ 浜崎 渡師

1971(昭和46)年〜1975(昭和50)年

 
 小瀬良教会信徒小瀬良留三さんから聞いた隠れキリシタンの話のまとめ

 現在小瀬良教会の信徒は16戸で過疎が進んでいるが、
それでも今でも小瀬良教会の周囲には隠れキリシタンが多い。

 この地区の隠れキリシタンは地域によって宇野開き(上立串開き)、向え(むかえ)開き、小串開き、大瀬良の集落の隠れキリシタンの4つのグループに分けられるが、これらの4つのグループのうちで大瀬良の隠れキリシタンは改宗者がいないばかりか、カトリックの呼びかけに耳を傾ける人はいない。
 


上立串開き 小串開き
向かえ開き 大瀬良集落
 これに対して小瀬良地区に存在する宇野開きと向え開きのキリシタンたちは話せば喜んで聞いてくれる。しかし、いざカトリックに改宗をお願いすると「祈りば暗記するのが面倒だ」とか、「日曜日のたびに教会に行くのも困る」とか言ってなかなか改宗者をつくるところまではいかないのが現状である。

 彼は過去に10年間ばかり小瀬良地区の駐在員をしていた時、この地区に住む宇野開きと向え開きのキリシタンと交わりを持ち、お互いの宗教について話す機会があった。このときの体験で次のようなことを知った。

― この地区では隠れキリシタンのことを「元帳」と呼んでいた。そして、隠れの信者を指導する人をカトリックの神父と区別するために「元帳の神父」と呼んでいた。

― 昭和30年頃までは日繰りを見ながらカトリック信徒以上に典礼を大切にしていた。日曜日に礼拝集会を持つだけでなく、平日にも例えば畑の肥料にする下コイを担っては悪い日とか、針仕事をしてはならない日などがあってそれをかなりきちんと守っていた。

―告白とミサ

 この地区の隠れキリシタンは、カトリックの赦しの秘跡のことを「くーきゃ」と呼んでいた。この「くーきゃ」がある日には隠れの神父の所に集まり、神父からつんばらし(罪払い)の祈りをしてもらって後、必ずみんなでご馳走を持ち寄って食べていた。しかし、彼ら自身がその意味をわかっていない模様であった。だから、彼はその説明にかなり苦慮していたが、大体次のように説明していた。

 「おまえ達はお葬式や結婚式の時などにカトリックのミサに与る時があるじゃろが・・・そのミサのときに司祭が白いパンを信徒に拝ませてから食べさせるているじゃろが・・・それはちゃんと意味があるとよ。単に習慣でしているのじゃないんだ。そのことは聖書に記されているけど、イエスは最後の晩餐といって死を目前に控えた食事の席上、「これはわたしの身体だ」「これは私の血だ」と言って、テーブルにあったパンとぶどう酒を形見として弟子たちに与え、「これを自分の記念として行うように」と言い残していった。

 だから、カトリックの私たちはこのイエスの言葉を大切にして今もミサの中で引き継いでいるんだよ。だから、あなた方が今している「くーきゃ」はイエスを表すパンを食べるために心を整えるためのものであり、また、実際にご馳走を持ち寄って食べているのはイエスが形見として残した聖体を食べてイエスと出会い交わるためなんだ。従って、おまえ達の元の宗教はカトリックなんだからカトリックに改宗するのが常道だよ。」と

―隠れの葬式

 戦後民主主義の時代になっても小瀬良地区の隠れのキリシタンは相も変わらず祖先から伝えられていた風習にこだわりそれを頑なに守っていた。その一つがお葬式である。
 隠れの方が死ぬと、本家で神主を呼んで神道祭をしていたが、それは表向きのことで神道祭が終了すると、道端に番人を立たせて隠居で隠れの儀式に基づいてお別れの儀式をしていた。生前、故人と付き合いのあった神主の親類たちが弔問に訪れたときには、逆に弔問に来た神道の信徒が気兼ねして「よかよか、おっかことば気にせんでしたいようにしたがよい」と話していた。

 カトリックの小瀬良留三さんはもっと見方が厳しく、隠れのキリシタンで小学生の同級生にこう言っていた。「お前たちはいつまでまごまごしているのか。今はもう宗教はどんな神を拝もうと、とがめる人は一人もいないぞ。それなのにいつまで隠れてこそこそ儀式をしているのか。無理してカトリックになりたくなければならないでいい。その代わりお前たちの流儀で隠れてではなく、堂々とやればよいではないか」

 この彼の言い分はなるほど理屈が通っているが、長いこと昔からの習慣でしていることだからそれを言われたからと言って直ぐに止めることが出来なかったのだろう。しかし、隠れのこの習慣は残念ながら昭和30年代の高度経済成長の頃よりやまってしまっている。とても残念である。

―その他

 このようにカトリックの小瀬良留三さんは、隠れキリシタンには兄弟意識を抱き心を開きあい、赦しあっていたが、仏教徒である立串や小串の村の人からはかなり差別待遇を受けて育っている。例えば小学校の時代には同級生たちから「開きもん、開きもん」と呼ばれて軽蔑された。

 すると村の人にも必ず善意の人がいて「お前たちは何ということを言っているのか。お前たちが今腹いっぱいに芋でもカンコロでも麦でも食べることができるのは、こいたちの親たちが苦労して山を開墾して畑仕事しているからなんだ。だから、軽蔑をしてはいかん、それどころか、感謝せんといかんぞ」と。

思い出1、仲知教会信徒植村敏江さん

 現在仲知集落に住んでいる植村(旧姓谷口)敏江さんは、既に記述した通り、入口師と浜崎師に江袋教会の教え方として仕えている。このことから両師についての思い出を持っておられるが、今度は彼女が体験した浜崎師についての思い出を簡単に記しておく。

― 司祭が江袋に巡回した時の食事の接待は、江袋教会の教え方の奉仕であり、最初は入口師の時と同じように料理に気を配りおかずを何種類も作り喜んでいただいてもらおうとしたが、浜崎師は食べることよりもビールを飲むことが好きで、おかずは刺身があればそれで十分であるとのこと。

 それでも最初の内は遠慮しているのであろうと思い込み、いろいろ作ったおかずをテーブル一杯に並べてもたなしたが、食が細いのか余り食べてくださらない。それで言われるままに酒のつまみ程度のおかずにするようになり大いに助かったが、今度はそれをいいことに少しづつずるをするようになった。

 師は前任者の入口師とは性格が対照的でオープンな人柄であった。お一人で食事をすることを好まず最初は宿老の田端修一郎氏を食事の相手にしていたが、彼がぜんぜん酒が飲めないと知ると、さらに酒に強い谷口康夫氏に付き合ってもらっていた。時には酒が過ぎて車の運転が出来なくなり人に頼んで送ってもらうことがあった。翌日早朝ミサに来られた時には「昨日のことは覚えておらんとの失礼なことを言ったり行ったりしなかったのか」と聞き、反省の弁が聞かれた。ミサが済むと必ず仲知に帰る前に司祭館でコーヒーを一杯飲んでいた。

― ミサに使用するホスチアは仲知の教え方が作っていたが、江袋教会のミサに必要な分は教え方の彼女が仲知まで分けて貰いに行っていた。ある日、いつものようにホスチアを貰いに仲知の司祭館のベルを押すと、浜崎師が出て来られ「お茶を飲んでいかんね」と言われて、応接間に通しご自分で彼女が座りやすいようにと、椅子の置き具合を調整して下さるほどのもてなしで恥ずかしかったが、とても嬉しかった。

 こんな感じで神父様は大変気さくで優しい方でしばしばミサの奉仕をする侍者の子供たちにもお菓子をあげたり、時には整髪のサービスをしてあげたりしてかわいがっていた。

思い出2、赤波江出身の平瀬千恵美
 
 

 現在上五島在住の平瀬(旧姓赤波江)千恵美さん(43歳)は、赤波江教会の教え方を昭和52年から昭和56年まで約4年間して浜崎師と永田師に仕えているので、編者は平成13年4月3日、青砂ヶ浦教会の公民館で彼女から教え方当時の思い出を聞くことが出来た。以下のことはその時に聞いた話の要約である。

 ― 彼女はそれまでのように伝道学校に行って教え方としての教育を受けていない。彼女の頃は仲知小中学校業後、町内の浦桑郷にある上五島高校などへの進学を希望する子供たちが多くなり、それまでのように各集落の教え方志願者を選抜することが非常に難しくなっていた。彼女は中卒後、大阪の紡績会社に就職をしていたが、1年もしないうちに家の者から帰郷し教会の教え方をしなければならないと言われた。

 その頃は友だちも出来、仕事も面白くなっていた矢先であったので、帰郷したくなかった。それでも親から言われたことなので、しぶしぶであるが、帰郷して赤波江集落の教え方になった。彼女がまだ16歳のときである。
当時の主任司祭は浜崎神父様で何回か要理のいろはを教えてもらっただけで教え方の奉仕を始めることになった。

― 浜崎神父様は大変気さくな方で人間味に溢れた方であった。家族でお茶に誘うと快く来て下さり家族の者とゆっくり酒を飲み交わし、心行くまで楽しんでおられた。だから、神父様というよりもそこらへんのおじさんと言う感覚であった。

 酒飲んで気分が良くなると、家族の者を「アンネ」と呼んで親愛の情を率直に表していた。赤波江の信徒には酒好きな信徒が多く船乗りの休暇である月夜間になると、よく神父様を家に招待して杯を交わしあい楽しいひと時を過ごし、神父様も赤波江を「第2の故郷」と呼んで赤波江の信徒と交際することを楽しみにしておられた。

― 教え方の体験

 4年間の教え方をして大した教会奉仕も出来ずに終わったが、それでも4年間の教会奉仕はよい人生経験をしたと思っている。

 中学を卒業して都会に就職し社会人になった頃までは、田舎育ちの自分のことを人にも言えないほどに恥ずかしいと思っていた。 

 ところが、赤波江の教え方となり近くに嫁いだおかげで、山や海の幸に恵まれている赤波江のよさが身にしみて分かるようになり、自分の子供にもいつもそのよさを自慢している。その赤波江の一番のよさは何と言っても近所付き合いから来る信仰共同体の良さであった。嫁ぎ先ではみんながそれぞれ忙しいので、直ぐ近くに親戚の人がいても挨拶程度でそれ以上の付き合いはあまりしない。

 しかし、故郷の赤波江ではどんなに忙しい時にも隣近所の付き合いをとても大切にしていた。磯遊びに行ってサザエやアワビを採って来ると、少しづつ隣近所にお裾分けしたりすることなどは日常的であり、どうにかした時は隣りの人を呼んで一緒に食事をしてお互いの親睦を深めていた。そのような雰囲気の赤波江共同体を浜崎師も喜んでおられたからこそ、赤波江を「第二の故郷」と言って赤波江によくお出でて信徒との触れ合いを楽しんでおられたのではないかと思う。
 
 
 
赤波江教会の受堅生 (昭和48年頃)

 

山下房三郎師と米山教会建設
 

 北海道トラピスト修道会司祭の山下房三郎師は精神科の治療を受けていた昭和48年頃、出身地の仲知に帰って療養していた。仲知小教区では浜崎主任司祭の許可を受けて米山教会に半年間ばかり司牧の手伝いをしながら療養に専念されていたが、その間の賄いは仲知修道院の久志サヤであった。
 

 その頃は、奈良尾や青方を基地とする遠洋巻き網船が好景気の時でどの船も競い合って漁をしていた。奈良尾中学校や若松中学校を卒業したばかりの生徒が、奈良尾の巻き網船に就職するといきなり30万円近い給料をもらうことも珍しくはなく、その恩師である先生は自分よりはるかに高い給料にびっくり仰天していた。

 米山の信徒もほとんどが奈良尾や青方の遠洋巻き網船に就職していたので、その生活も良くなりマイホーム建設ラッシュが続いていた。その様子を側で見ていた山下師は信徒代表の山田常喜氏に「あなたたちは自分のためにはよか家ば造りよるごとあるばって、米山の教会は老朽化しぼろぼろになっているとのそれで良いのか」と皮肉られた。

 この発言がきっかけとなって教会を造ろうという気運がさらに高まり、2年後の昭和50年には一戸当たりの積立金をそれまでの1 000円から3 000円に一挙に引き揚げることにした。

 こぼれ話

 浜崎師が仲知小教区に着任された昭和46年11月頃のことである。米山の信徒たちが「教会を造る計画を進めているので理解と協力をお願いいたします。」と云うと、師は開口一番「教会建設だけは出来ないぞ。ここに来る前に教会の新築工事をしたばって信徒の協力が得られずに随分と苦労して来たばかりだよ」と押し返された。それ以後、信徒の方も無理にお願いできず教会建設の件は永田師が着任されるまでおあずけとなっていた。

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