ペトロ 浜崎 渡師

1971(昭和46)年〜1975(昭和50)年
 

山下房三郎氏の言葉
 

 恩師・江浜先生

 大正14年9月1日、私が小学6年二学期の始業式のとき、新しい先生が、着任の挨拶をなさった。インテリ顔の先生。彼は、開口一番「私は大きな学校からこんな小さな学校へ転任して来たので、大変淋しい」と言われた。川崎龍一校長先生が、一瞬顔をしかめた。「今度の先生は思ったことは何でもズバズバ言うばい」と私は直感した。新しい先生は、そのほか、いろんなことを深刻な顔で言われた。が、みんな忘れてしまった。なにせ、あれからもう50年以上もたっているのだから。

 新しい先生の名を、江浜吉郎(えはまきちろう)といった。オール・バック。ロイドメガネ。そのメガネの奥には、知恵のありそうな目が、光っていた。光ってはいても、すごくやさしかった。

 江浜先生は、私たち5、6年生の担任となられた。最初の授業の時先生は私に級長を指名された。授業が終わってから、私たち悪童どもは口をそろえて、「おれたちの頭の悪か生徒にゃ、こぎゃんよか先生はもったいなかばい」と言い合ったものだ。すでに相当の年なのに、先生はまだチョンガだった。耳が少し遠い。そのためか、口数も少なく、さびしい表情。しかし、教育にかけてはたいへん熱心だった。

 江浜先生は着任早々、仲知小学校の大改革を断行された。まず、教員室にねむっていた本をごっそり私たちの教室にうつし、それを「生徒文庫」と名づけられた。おもしろい歴史の本や文学書がたくさんある。私は、いつも借りて行って家で読んだ。コトボシ(石油ランプ)の下で、夜遅くまで読みふけった。すでに未亡人になっていた母が、心配そうに、「房ン、カゼば引くけん、もうねんネ」といった。それでも私はねなかった。母の再三再四のさいそくで、しぶしぶコトボシを消して、ねたふりをしていた。

 天気のよい日、江浜先生は私たちを学校の下の浜や、トウセンのハナにつれていって、そこで授業をなさった。生徒たちは、監獄から解放された囚人みたい。さんさんたる陽光の下、東シナ海の潮の香のする空気を胸いっぱい呼吸しながら、思うぞんぶんあばれまわった。フランス人形のように、かわいらしい顔をしていた久志のキクさんたちも、ふだんの、おしとやかさを忘れて、この日だけは人が変わったように、ワイワイさわいでいた。

 日本のさいはての「小さな」「さびしい」小学校で学びながらも、江浜先生のおかげで国語の力がぐんぐん増していった。新しい知識も、どんどんふえていった。江浜先生の下宿にあそびに行って『中央公論』をかしてもらったことがある。おとなにさえ難解だった『中央公論』の論文や小説が、小学校六年生の私に、すらすらと読め、スムーズに理解できたのはどういうわけなのか。

 江浜先生!あなたの教え子だった「房ン」は、仲知小学校を出てから、これまで単行本だけでも三十冊をあらわした。みんな先生のおかげだ。しかし、感謝しようにも先生はもう、この世におられない。ああ・・・・・・

「ちゅうち」仲知小学校創立百周年記念誌より
 
赤波江モヨさんの日記帳から
 

昭和46年9月30日
浜崎神父様、仕事場におい出下さった。果物等出す。

昭和46年10月3日
ミサ、仲知6時30分のひとつだけ。浜崎神父様が、4日に行われる長崎のカトリックセンターの落成式におい出になられるそうだ。
 
カトリック・センター

昭和46年10月9日
教会のうしろを全員でコンクリートにした。

昭和46年10月14日
晩、浜崎神父様から直吉さん方に電話。里脇大司教様は7日には都合で来られないので、来月の14日に来られるとのこと(田平から電話) 教会の仕事、今日の昼までで終わる。午後松市さん方で仕事じまいをした。献堂式は11月14日と決まる。これも、田平から直吉さん方に浜崎神父様よりお電話を頂く。

昭和46年11月14日
予定通り献堂式午後2時から、里脇大司教様がおい出下さって盛大に行う。接待係、受付係など、ちゃんと神父様が決めてくださって何とか無事にすんで皆、安堵。お客様方もゆっくり遊んでくださってよかった。

昭和46年11月15日
集落民、その他関係者慰労の意味で、江袋に魚買いに行って、浜崎神父様、谷口康男さん、久志伝さん、半助さん達と2時頃まで遊んだ。

昭和47年6月14日
浜崎神父様のところに洗礼証明書をもらいに行く時、浦桑の田代さん(愛知県の紡績の募集人)が是非自分も行くから紹介してと言っておられたので一緒に行き、ちょっとお邪魔していろいろとお話をした。赤波江に来られた時は、教会の下の私の家のまわり等、薬草を採っておられた。キラン草は、高血圧や神経痛に効くそうだ。

昭和48年1月2日
浜崎神父様をお招きして、直吉さん方で新年会。つまみ一鉢ずつ持ち寄る。

昭和48年1月8日
9時から婦人会常会。午後3時から新年会をするはずだったが、神父様から老人たちに豆を頂いたので、もうみんなですることにした。

昭和48年4月30日
教え方給料今月から一戸当たり400円に上がる。

昭和48年5月13日
赤波江で一番ミサ6時から。これからは渡海船を赤波江にも着けるそうだ。山添愛次郎さんが、町長さんと船長さんに頼んでくれたおかげです。

昭和50年1月28日
朝、常会をして浜崎神父様の送別会。つまみ一鉢ずつみんなで持ち寄り、名残りを惜しんだ。大変よろこんでくださった。
 
 
 
赤波江、仲知、江袋の敬老会会員

 

浜崎師の言葉

1.教会司牧

 昭和46年9月20日、長崎港外の伊王島教会より仲知小教区へ赴任した日は、快晴ながら風が強く、船はともかく、雨上がりの後で道路が悪く、困難をきわめながら仲知教会司祭館に辿り着いた記憶がある。しかし立串の桟橋に着いた時、多勢の信者、教え方、修道女の皆さんの出迎えをうけた感激は、今も忘れてはいない。

 仲知は信者だけの集落と聞いて、何となく心の安らぎを覚え、ありがたく思い、五島の楽天地に長く働くことを願った。教会は仲知の外に、米山、赤波江、江袋が新魚目町に、北松浦郡小値賀町に小値賀教会のあることを知らされ、巡回が大きな仕事となることを自覚したが、「今時、車の免許をもたないでは、仕事は出来ぬ、早速免許とりに行きなさい」と顧問長の久志伝氏に励まされて、あたふたと自動車学校に通ったことも、今ではなつかしい思い出である。

 3ケ月かかって、免許を取得したが、この間、小値賀教会の浜崎靖彦師に多大の応援をうけ、どうにか最初の難関を突破することができ、仲知修道院のシスターの皆さんの並々ならぬ奉仕のおかげで、幾多の不便・不案内の諸条件を克服することができたことは、なかなかに筆舌には尽くしがたい恩義であった。

 仲知、米山、赤波江、江袋、小値賀の5教会の顧問の皆さんにも、一方ならぬ御配慮をいただき、また竹谷・一本松の二地区をうけもつ教え方を含む5教会の教え方さんたちにも、骨身おしまぬ奉仕に助けられて、楽しい仕事ができたことにも、感謝の念はつきない。

 前任の入口師のはじめられた赤波江教会の建設が叶い、江袋教会の聖鐘とりつけを行ったぐらいが、私の仲知在任中の仕事であったが、3年4ケ月経った昭和50年正月早々、転任の辞令に接し、名残りつきない思いを抱きながら、長崎へ向かったことも、つい昨日のことのように思われる。

2. 仲知修道院創立百周年記念
 
旧仲知修道院 現在の仲知修道院

 昭和50年2月11日、盛大な見送りをうけて仲知をあとにし、立串で後任の永田師と挨拶を交わして、船上の人となっても、なお、短かった仲知の生活が無性になつかしかった。

 永田師は健康に恵まれた方でなかったが、才気あふれ確固たる信念を持って、どんな困難な仕事もやり通す有能な人柄であった。仲知の墓地改修を始め、米山教会、仲知教会の新築、仲知司祭館、けいこ部屋の建築など、仲知小教区史に不滅の業績を残して、不幸にも病に倒れ、教会司牧の第一線を退かれることになったが、仲知修道院の再建のためにも、教会建立と同様の情熱を寄せられ、絶大な支援を注がれたのであった。

 仲知修道院は明治15年(1882年)頃創立の礎を固め、明治10年(1877年)創立した浦上十字会(岩永マキ姉が、ド・ロ師の指導ではじめた乙女たちの会)より派遣された野口フク姉が先達となって、(明治13年以降、十字会より、紐差、仲知などに会員が派遣されている)仲知女部屋の創設をはかったものである。会員はアネさんと呼ばれ、宣教師の巡回時における教会の助手となり、生活の世話をする外、児童、婦人らの信仰上の指導に生涯を捧げ尽くしたのである。

 時代の進展に伴い、生活・事業面における改革もまた必至の成行である。女部屋から修道会となり、聖婢姉妹会仲知支部修道院となり、更にお告げのマリア修道会仲知修道院となって、内外共に充実した仲知修道院百年の歴史を刻むにいたったことは、まことに慶賀に堪えない。
創設の陣痛・貧困の生活、戦時下の悲痛・苦難を経て、今日の発展の土台となり柱となった先輩各姉の労を偲び、現会員各姉の健康と活躍をお祈りして、拙い一文を終わろうと思う。

(”仲知修道院100年の歩み”から引用)
 
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