ペトロ 浜崎 渡師

1971(昭和46)年〜1975(昭和50)年

 
思い出(1)、

 信仰のブランド 『仲知』
      天神教会主任司祭 真浦健吾師
 

 『仲知』に神様への信仰が根をおろして、200年が経つと聞き、先祖たちの強い信仰と神様の恵みの深さを感じます。また、叙階の恵みを受け、司祭としてちょうど10年目に、我がふるさとを思いながら、自分自身を振り返ることができることを神様に感謝したいと思います。

 私の召命の始まりはこうでした。私は、真浦榊・礼子の第4子、長男として生まれました。私が、「司祭になりたい」「神学校に行きたい」と思ったのは小学校6年生の2学期頃だったと思います。その前までは、誰からも「神父にならんとか」「神学校にいかんとか」などいわれた記憶はないのです。でも、毎日のミサには自分から起きて行っていました。

 そして自分から進んで、当時の主任司祭であった浜崎神父様に、「神学校に生きたいので願書を取り寄せてください」とお願いしに行った記憶があります。そして両親の説得をどうすべきか考えました。とりあえず取り寄せた願書を学校に持っていき、担任であった浦田勝一先生に全部作成してもらい、最後は保護者名記入と印鑑を押してもらうだけの段取りをつけて、母に「神父になるけん。ここに名前と印鑑を押してくれんね」と頼んだのです。母は何も言わずに修道院へ走っていきました。少し経って、スイシスターとタシシスターと帰ってきましたが、そこで母にスイシスターがこう言いました。「礼子、あんたも神の子供、健吾もそう。そいけん、健吾はあんただけの子供じゃなかっつぉ。ちっと早よう神様に返すと思うて、やらせんばたい」。
 
 
前列左端が真浦スイシスター

 今思えば本当に聖霊に満ちた言葉だったと思います。母にしてみれば、信仰が薄いわけではないと思いますので、神学校に行くことを拒むことはできなかったと思います。
そのスイシスターの言葉が今でも耳に残っています。その言葉をうつむいたまま聞いていた母の姿も忘れることはできません。父は母から電話で聞かされ、あっさり許したと後から聞きましたが、その真意は「どうせやめて帰ってくる」と思っていたそうです。こうして神学校へいくことになりました。
蒔かれた召命の芽は、ひとりでに成長するわけではありません。その間、たくさんの方々に支えられ励まされて、今の私があると思います。仲知の信者の皆さんに感謝したいと思います。

 そして私は14年間の神学生時代、4人の司祭の指導を受けました。召命のきっかけを作り、小神学校で6年間指導してくれた浜崎渡神父様。そして、司牧者として教会を建てることのすばらしさと難しさを、また司祭としてどう病気の苦しみに耐えていけばいいのかを教えてくれた永田静一神父様。神学生や志願生を大切にして、召命の大切さを教えてくれた佐藤哲夫神父様。そして司祭叙階の時お世話になった原塚正人神父様に感謝しています。

 私の中には、仲知の信仰が染みついています。
教会がいつも生活の中心にありました。朝起きて、ミサに行き、学校から帰るとけいこに行き、夕の祈りをして寝る。それが自然にできたし、そんな雰囲気があったように思います。自慢できる信仰だし、故郷です。

 洗礼を受け、信者として生活していれば、同じ神様への信仰を誰しもが持っていると言えます。でもその中に特別に「仲知」という信仰のブランドがあると思います。それは「仲知」に生まれた者しか理解できない信仰が神様から植えつけられていると思います。この信仰を失わずに生きて行けたらなあと思っています。

 我が故郷「仲知」に神様の祝福が永遠にあることを祈りたいと思います。本当におめでとうございます。

「仲知小教区史」より
 
 
 
 

 思い出(2)、
 
ふるさとの風
 お告げのマリア修道会シスター 久志千鶴
 

 これまで歩んで来た道に若し足跡がついているならどうでしょうか。生まれ育った仲知での生活、お告げのマリア修道会に入会して志願者として過ごした長崎や佐世保での生活、修道者になる恵みを頂き奉仕の場としてこれまで過ごして来た大島や福江島、それに現在の奈留島での生活。

 これまで歩んで来た後に、はっきり足跡が残されているとすれば、きっと久志(仲知)のわが家から教会(旧教会)への道に一番多くの足跡が重なり合っているだろうなと思います。
何回歩き続けたでしょうか、あの道を。石の段々や曲がりくねった細い道、教会への何十段もの階段を下ったり上ったりしながら、教会へと急いだあの細い道が今になって懐かしく思い出されます。
 

 久志と真浦の丁度堺にあった樫の木山。梅雨期だったのでしょう。毎日与っていた早朝ミサに行く途中樫の木山から校長住宅の所にかけてすごい濃霧。一寸先も見えない程に真っ白でした。つかめない霧を手探りで歩いてどうにか教会まで辿り着き安堵したことが何度もありました。

 北風が吹きまくる久志集落から三宅さんの所を抜けると、冷たい風はピタリト止み嘘のように静かになり、その上、暖かさを感じていました。「なんで、こんなに違うとやろか。教会がすぐ近くにある真浦集落に生まれておればよかったとになあ」と思いつつ歩くこともありました。
 
 
 

旧仲知教会は真浦の浜にあった。久志集落は反対側にあるので、
この写真では見えない。
左側に見える集落が久志集落

 寒い真冬の帰り道は、辛いものでした。あの樫の木山峠で肌をさすような北風に立ち向かうために、覚悟を決めて走りまくる姿を今もはっきりと覚えているし、今でもお正月に里帰りした時には昔のように走りこんでいます。

 仲知の風をいっぱいに受けて大きく育てていただきました。海からと山から、あちこちから吹きまくる強風が私を大きく育ててくれたと思います。冷たい厳しい風でも仲知の風は気持ちいいものだったなあと、今になれば思います。里帰りするたびに味わう安らぎ、あの空気。恵みの場所だと感じます。
 

 ある人にとっては「仲知は辺鄙な所で不便だなあ」と感じるでしょうが、そこに生まれ育って来た私達にとってはやはり大切な場所であり、憩いの場所なのです。いつでも同じ空気で迎えてくれる古里仲知は神様からの大きなプレゼントです。年に一度、里帰りする機会を与えられ胸いっぱい仲知の新しい風と美味しい空気とを吸えることが何よりの喜びです。仲知に生まれ、信仰の恵みの中で生かされたことを今更ながら感謝しています。

 久志から教会への道に、そして、これまで生きて来た道には、私の足跡と一緒にたくさんの方の足跡が重なっているのは確かでしょう。数えきれない無数の足跡。共に歩んで下さった方、今も歩み続けて下さっている方に感謝します。この足跡が今度は天国への道へ仲良く繋がっていくことを願いつつ日々を過ごしている今日この頃です。
 

 主の平安
 聖霊降臨の祝日おめでとうございます。
神父様、お元気でいらっしゃいますか。先日神父様から頂いたお手紙の中で転任になることを知らせていただきながらお便りもせず失礼しております。
 仲知での7年間の司牧生活ご苦労様でした。そして、ありがとう御座いました。辺鄙な所でいろいろとご苦労があったでしょうが、私達に仲知の出身者にとってあのステンドグラス、そして、あの「仲知小教区史」を出版して下さったことに深く感謝しております。
 イエスキリストのご生涯を描いたステンドグラスは本当にステキです。お正月に帰郷するたびに正面のご復活のイエスさま、それに信徒席両側の1枚1枚の絵を見て安らぎのひと時を過ごしております。仲知を知らない方にもステンドグラスのことを話して自慢することもあります。
「仲知小教区史」も両親から送ってもらい時々見せていただいたおります。
仲知では父母、兄弟たちが大変お世話になりました。親は年をとってきましたのでいろいろ励まし支えていただいたろうなあと思いつつ感謝していました。場所は離れていてもどうぞ両親のためにお祈りで支えてください。

 依頼されていた原稿は遅くなりました。仲知の思い出はたくさんあるのですが、その一部を私なりに書いてみました。校正が必要であれば直して下さるようにお願い致します。

  

平成13年6月2日(土)聖霊降臨前晩
奈留修道院
 

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