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フェルジナンド・畑田 善助師

1944(昭和19)年〜1947(昭和22)年
 

顔写真

 畑中師は5年間の司牧を終え、昭和19年10月公教神学校へ転任され、フェルジナンド畑田善助師が第7代主任司祭として着任された。

敗戦と仲知伝道学校

 畑田師が着任された昭和19年末は日本の敗北は国民の目からも明らかな戦況状況となりアメリカ軍機による本土爆撃が激化した。家屋の強制とりこわしや軍需工場の地方への疎開が始められ、また、学童疎開が行われるなど、日本経済と国民生活は次第に崩壊していった。

 昭和20年3月の東京大空襲ではB29約300機が下町を中心に19万個の焼夷弾投下し、一夜にして約10万人が焼死した。空襲は全国のほとんどの中小都市に及び、被害は焼失家屋143万戸・死者約20万人・負傷者27万人に及んだ。

 仲知でも空襲警報が相次ぎ、ゴウゴウと唸って通る敵機・B29の不気味な音が聞こえるようになった。
やがて毎日定期便のように大型飛行艇が二機海上をパトロールするのが見られて、釣り舟が撃たれた、五島行きの汽船が銃爆撃されて本土との交通は停止された、などの噂が次つぎと流れてきた。赤波江の前では海軍の小艇が敵の艦載機に銃撃されて戦死者が出た。仲知の沖合いでは手繰船をグラマンの編隊が何回も水車のように回りながら銃撃し一隻は岩陰に逃げて助かったが、一隻は撃沈された。また、久志の海岸にうちあげられた浮流機雷の爆発により仲知国民学校の窓ガラスは吹き飛ばされる被害もあった。
 

 さらにあちこちで親族、知人の家に戦死の公報が相次ぐようになった。例えば、江袋集落の戦死者は8人、仲知集落の戦死者は13人でこれらの戦死者は今それぞれの墓地でお国のために名誉の戦死をした犠牲者として安らかに眠っているが、中には戦地ではなく、徴用された佐世保の軍需工場で爆撃を受け戦死している女子青年もいる。
 

戦没者の墓江袋と仲知

 このような戦時下のなか畑田師は昭和20年4月、男子の教え方養成を始め、修道院の真浦シオが教師の勤めに就いた。この時の伝導学校の生徒であった白濱増雄さん(67)によると、「米山郷民の推薦で仲知伝道学校の生徒となったが、入学当初は戦局が悪化して毎日のように聞こえる空襲警報やゴウゴウとうなる敵機の音が怖くて落ち着いて勉強したり、祈ったりするどころではなかった」という。
同年8月9日、長崎に原爆が投下され、長崎はまったく死の町、廃墟と化した。浦上の信徒2万人余が浦上天主堂と運命をともにし犠牲となった。

 8月15日、聖母被昇天の祝日、昭和天皇により全国民に戦争終結の布告が発表された。無条件降伏の敗戦であり国民は放心状態となった。
 
 
 
伝道学校の生徒(男子)と女の教え方 (昭和20年8月)

 

終戦直後の食糧難

 仲知は戦争による直接の被害は受けなかったが、戦後の物資不足、食糧難は日本の津々浦々まで共通の現象であった。農業に従事している仲知の信徒はどうにか芋とカンコロで明日の命をつなぐことができたが、それでも畑を少ししか持たない家庭や一家の大黒柱を戦争で亡くした家庭、それに病弱で畑を耕作することが出来ない家庭では食糧難で苦しんだ。

 さらに、長崎で被爆した親族や佐世保等の都市で空襲に遭い住居を焼失した親族の帰郷者が相次いだためにその家族の者は食料を確保するために休耕田を耕したり、畑になりそうな土地は開墾して食料の増産に勤めなければならなかった。また、佐世保市や長崎市などの都市にすんでいる親戚も出身地の仲知にやって来てカマス一杯、芋、カンコロ、干し大根などをもらって帰っていた。

 終戦の年の昭和20年は極端な凶作で、食糧不足は特に深刻になった。
 衣服、米の配給は切符制がしかれていたが、切符があっても物がない状況となり、米などの配給は少量に抑えられた上、さつまいもやとうもろこしなどの代用食にかえられ、それでも遅配・欠配が続いたので、人々は農村への買出しや闇市での高い買い物で飢えをしのいだ。

 終戦直後のこと、五島で食料の買出しをして有川から佐世保行きの汽船に乗船していたある客は佐世保の港で警察から荷物の検査を受けたが、その中身は食料にするための芋のツルがぎっしり詰まっていたという。
 
 信徒の話を聞くと、上五島北魚目村では政府からの食料の配給はおもに米、塩、砂糖であった。
この配給を受け取るためには仲知、江袋、赤波江の信徒は「エー」と呼ばれていた荷物を担ぐ道具を背中にからって立串までの12キロの山道を往復しなければならなかった。米山の信徒は村船を利用していたが、海上が時化て村船が通わない時は16キロの山道を往復しなければならず、文字通り一日かけての重労働であったが、大家族を賄うためには足りず、貰った米は大抵何処の家庭でも祝日や病人用として用いていた。
 

立串郷、昭和42年頃

 仲知天主堂建設

 終戦を迎えると、それまで毎日のように唸って通り過ぎていた敵機の音がぱったりと止んだ。やがて復員が始まった。それまで戦争に招集されていた信者が続々と帰って来て仲知は次第に活気付いてきた。長年の懸案であった教会建設の中枢となるはずの若きお父さん方も中堅のお父さん方も元気で復員してきた。

 戦時中息を潜めながら畑仕事をしていたご婦人がたも、伝道学校の生徒も、託児所の児童も、仲知国民学校の子供たちも本来の姿をとり戻したのだ。たとえ物はなくても食料は不足していても生きていくために不可欠な平和が戻って来たのだ。

 このような社会的状況の中で畑田師と仲知教会役員の課題は、老朽化が進んでいる破れ教会の建設のことであった。
 岩永師と畑中師の時からすでに建設計画は立てられ教会維持費の余剰金などいくらか建設資金が積み立てられていた。しかし、昭和22年のはじめ、畑田師の指導のもとに教会建設の気運が一段と高まり信徒は一致団結して早期に建てることを決意した。
 その責任を果たすため長崎や佐世保方面に出稼ぎに出る信徒も現れ、青年会や処女会も近くの海岸で獲れるカジメなどの海藻類を採集して資金つくりに積極的に協力した。
 北魚目村より無償で提供されていた一本松の村有林の松林は、信徒の労力奉仕により伐採し坑木として業者に売りその収益の約30万円は全額建設の基礎資金に当てることが出来た。
 

旧教会 昭和43年

 畑田師は教会建設に心を尽くし自ら陣頭に立ち同年8月、長崎の建設業者と契約を結ばれた。
ところが、予期せぬ出来事が発生した。詐欺事件である。貴重な建設資金35万円を請け負い業者にかすめとられ、仲知の信徒の長年の夢であった聖堂建設は大きな挫折と困難に直面した。

 契約を結んだ頃の日本社会の経済は極度の物不足に加えて、終戦処理などで通貨が増発されたため猛烈なインフレーションが発生した。政府は預金を封鎖して旧円の流通を禁止し、新円の引出しを制限することによって貨幣流通量を減らそうとしたが、効果は一時的であった。
 このようなインフレによる国民生活の危機と不安定な経済危機のなかでの教会建設はやや早すぎたのかもしれない。

 しかし、その頃の仲知教会は老朽化が著しくなり日本の経済の安定を待っていられないということで畑田師と教会役員は意見が完全に一致し、神の家にふさわしい教会工事に向けて建設委員会を設置する一方、資金調達のための特別な渉外部を編成した。資金調達の主な世話役として前田修一郎、山添忠五郎、久志庄吉、山添重衛門、竹谷清四郎、山添五朗作、真浦松次郎、白濱又吉が選ばれ、早速渉外活動が開始された。
仲知小教区内の米山、赤波江、江袋、大水、小瀬良、瀬戸脇、野首の集落はもちろんのこと、佐世保、長崎、奈留島の遠隔地まで出向いて知人、親戚の家を訪れて聖堂建設にご協力をお願いして回ることになった。

 こうして畑田師と世話役の熱心な渉外活動により、寄付金は合計25万円にも達した。特に、立串や津和崎の未信者の集落から寄付金があったことは仲知教会の信徒にとって大きな励みとなった。

 昭和22年11月3日、畑田師は今度は同じ失敗を繰り返さないように仲知司祭館で建設委員らも一緒に業者と時間をかけて話し合い、さらに北松浦郡江迎町の川下洪平氏、北魚目村村長中本文平氏、北魚目村小串郷の中野勝平氏の立会いの下、新聖堂建設工事に関し北松浦郡鹿町町山田道幸と内林秀雄の両氏と慎重に契約を交わした。
この契約証書は仲知天主堂建設寄付者芳名名簿とともに仲知司祭館に大切に保管されてあるのでその全文を紹介することにする。

天主堂建設契約証書
 

 南松浦郡北魚目村津和崎郷仲知天主堂建設代表者、畑田善助を甲とし(以下甲と称す)、北松浦郡鹿町町山田道幸並び内林秀雄を乙とし(以下乙と称す)仲知天主堂工事に関し契約すること下記のごとし。

1、乙は甲より別紙設計書、仕様書、図面に基づき仲知天主堂工事一切を請け負わす。
2、請負金額は78万円と定む。
3、乙は建設資材一切を仲知真浦浜に整備し、甲の承認を求むるものとする。
4、建設資材中、不適と認めるものあるときには甲と乙との協議により変更するものとする。
 ただし、甲において設計変更の場合はその分に限り契約金外とする。
5、設計書、仕様書、図面中脱漏の場合といえども、建築上当然とする工事はこれを行うものとする。
6、工事竣工期限は昭和23年2月末日迄とする。ただし、止むをえない事情があるときは、甲乙協議の上期限の延長をなすものとする。
7、請負代金下記の通り支払うものとする。
 
 (1)、金30万円也(内10万円は現金支払いとし、20万円は坑木、伐採代金を充当し現金の授受を行わない)。
 (2)、金10万円也(乙より瓦入手船積の通知を受けたときは甲は銀行送金を持って乙に支払うものとする。
 (3)、金10万円也(瓦葺建てと同時に支払うものとする)。
 (4)、金28万円也(竣工と同時に支払うものとする)

8、建築工事に使用する資材は浜より現場までの運搬ならびに屋立屋根葺き、壁塗装などに要する人夫は甲において無償提供するものとする。
9、天災地変による場合は、甲乙協議により解決するものとする。

 契約を結ぶにあたっては、信徒の労力奉仕を無償で提供することで建設資金を極力抑えるようにし、その条項は8番で契約されている。
契約書は2通作成し、業者と教会とがそれぞれ1通ずつ保有することにした。

 そして、契約書には、北魚目村助役小賀興八氏に依頼して副申書が添えられた。この副申書には教会を早急に造らなければならなかった当時の状況が第三者の行政の目からよく描かれているので下記にその全文を紹介する。

仲知天主堂副申書

 「仲知カトリック天主堂は仲知小教区の中心として、その建築たるや70余年の歴史と信者のよりよき修養温床たるはもちろん、一般村民風教に貢献セル功績は顕著たるものあり。

 然るに、建設当時(明治14年)においては三百余名の信徒数えるに日移り年巡り、現在ではその数約5倍の千五百名に対し半数の収容も困難を感じ、数年前より新築の計画ありつつ種々の事情にて実現を期し得ず現在に及ぶ。

 然るに、老朽の堂舎は、益々その腐朽の度を累加し降雨あれば堂内は外庭に劣らず、風起こらば数十の柱は揺らぎ、一度猛風雨起こらんか、たちまち倒壊の悲惨時に遭着する疑う余地なき現況にて、出来得る限りの補強策はなしあれ。
 誠に危険極まり実情なり。

 ここにおいて、信徒一同が新築を希望するや誠に切にして、北魚目村としてもこれを支援し援助の労を惜しまず、資料の入手困難莫大なる工事費の入用、人力の不足などあらゆる悪条件かにある壮挙を決意するは、誠に止むを得ない右事情の故なり。
 何とぞ実情ご了解のうえ特別のご詮議をもってこれが建設許可方切望する次第なり

  

右副申す  昭和22年3月
長崎県南松浦郡北魚目
村長代理 小賀興八
畑田師(その2)へ



 
 

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