フェルジナンド・畑田 善助師

1944(昭和19)年〜1947(昭和22)年
畑田師の思い出

 畑田師は終戦前後の社会的な混乱状況の中で教会役員の助けや協力なしで独りで司牧活動をしなければならなかった。しかも、約3年という短い司牧期間であったために、師のことについてよく知っている信徒は少ない。

 そこで、今回は、真浦タシシスター(71)、真浦キヌエシスター(71)、それに、畑田師がその養成を始めた仲知伝導学校の生徒であった白浜増雄(67)氏にそれぞれ登場してもらってその思い出を語ってもらった。3人とも仲知修道院の志願生として、また、伝道学校の生徒として身近なところで師に仕えているので他の信徒よりは師について詳しい。

 真浦(井手淵)タシ・シスターの思い出
 

旧仲知修道院 昭和40年

 畑中師から勧められて仲知修道院に入会したのは昭和19年1月3日の聖テレジアの祝日であったが、畑中師は入会して2週間後に転任され、後任として畑田師が着任された。
 あこがれて修院に入会したといってもまだ国民学校を卒業したばかりの13歳の子供であり、修院でも教会でも果たすべき役割は与えられず、ただみんなのするようにして姉さん(修道院院長のことを土地の人はこう呼んでいた)や先輩の姉妹たちの小使いや修道院の雑事などをして過ごした。

(1)、聖歌が得意

 そんな子供から見た畑田師についての第一の印象はめがねを掛けた丸顔の司祭で、歌が得意でミサ典礼を大切にしていた、ということである。前任地の黒埼教会から愛用のオルガンを持って来ておられたが、それは司祭館に置いて聖歌隊の歌の練習の時に使っておられた。
 

江袋教会の子供たち 平成10年5月

 その頃の聖歌隊の隊員は各教会の教え方ではなく、修道院の姉妹たちであった。復活祭、ご昇天祭、聖霊ご降臨祭、聖母被昇天祭、クリスマスなどの大祝日が近づくと司祭館に姉妹たちを集めて真剣になって厳しく聖歌の指導をしていたが、小使い役の彼女はその指導は受けていない。

 ただ、ミサの本番で姉妹たちが少しでも間違えると眼鏡越に鋭い目つきでにらみつけていたので、そのような時には怖かった。普段、優しく接していただいても、何となく怖さがあった。それは信心業にしても普段の立ち振る舞いにしても将来の修道女としてきちんとさせたい親心からのものだったかもしれない。

(2)、責任感の強い人

 仲知には畑中師が始めた託児所があって、児童は午前中に姉妹たちや伝道学校の生徒たちによって保育されていた。児童を収容する建物は勿論、ブランコや鉄棒など保育に必要な設備もない名前だけの託児所で青空の下での保育だったからいつしか「青空保育所」とも呼ばれるようになっていた。
 

 しかし、旧聖堂の下に結構広い屋敷跡が子供のかっこうの遊び場となっていたことから子供たちは、伸び伸びと遊ぶことは出来たが、畑田師の着任の頃は、戦争末期で日本の国が一番惨めなときであった。空襲警報が毎日のように鳴り続けていたので、子供たちの命を守るべき第一の責任者である畑田師はその責任感と正義感に駆られて敏速に対応していた。すなわち、師は空襲警報がなるたびに危険から児童を救おうとする親心で、条件反射のように司祭館から顔を出し、声をかけてその命を守ろうと必死になっていた。児童の命の危険を察してとっさに司祭館を飛び出して来るその俊敏さに師の強い正義感と責任感とを見た。
さらに、師はその責任感から長崎の飽の浦より保母の経験のある妹を仲知に呼んで保育に当たらせていた。

 正義とは、道理にかなって正しいこと、責任とは、自分の分担としてそれだけはしなければならない任務だ。どれも奥が深く司祭の聖務には欠かせない聖なる勤めだ。

(3)、 親思い、兄弟思い

 生涯独身で神と教会に奉仕する司祭にも親もいれば兄弟もいる。司祭職への召し出しは基本的に神からのお恵みではあるが、親や兄弟などの祈りによる支えは欠かせない。信心深く、健全な両親の手によって愛情深く育てられた家庭から司祭の召し出しは生まれて来るし、そのようにして司祭になった者は人一倍親孝行をするし、また、兄弟への愛情も強い。このことは畑田師にも当てはまる。師は久賀島出身であるが、シスタータシの話だと、師が仲知に赴任された頃親も兄弟も長崎の飽の浦方面に移住していたようだ。
 
昭和14年、黒島教会で行なわれた公式初聖体女子グループの記念写真
前列中央主任司祭青木義雄師、その左隣が青木師の助任司祭であった畑田善助師
「黒島教会の歩み」より

 昭和21年の食糧難時代の頃のこと、真浦タシは畑田師に命令されて師の親とか兄弟の住んでいた長崎まで、師の親戚で賄をしていたキクエさんに同行して荷物運びの手伝いをさせられた。キクエおばさんの背負っているリュックバックにはどんな食料が入っていたのかは知らないが、彼女のリュックバックには師が江袋教会の信徒からいただいたお米とスルメとがぎっしりと詰まっていた。スルメは師が自分の愛用の小船で仲知の沿岸で釣ったイカをご自分でスルメに加工したもので師の愛情が込められていた

 津和崎港から佐世保の相浦まで九州商船で行き、その後、長崎行きの列車に乗ろうと道を急いでいたら、闇取引をする人かもしれないと疑われたのか、中年の警官から呼び止められ荷物の中身についての尋問があったのでびっくり仰天した。頼みのおばさんはなに知らぬ顔をして足早に通り過ぎ、警官の尋問をかわして近くにはいない。
一瞬戸惑ってどうしたらよいか困ったが、正直に米とスルメとが入っていると答えたら中身を調べることもなくすんだのでほっとした。

 長崎に着くと、師のご両親が同居している弟さんの家でお茶の接待をうけた。その時茶桶として出されたものは、焼きたての水餅二切れを砂糖のたっぷりと入った醤油につけて食べるようにして接待された。その頃、餅にしても、砂糖醤油にしても普段口にしたことはなかったので、その時のおやつはとても美味しかった。というより、そのような贅沢品を丁重に礼儀正しく接待されたことで薄汚い田舎育ちの娘であることをとても恥ずかしく思ったそうである。

(4)、釣り好き

 師は黒崎教会から仲知へ転任して来られた時にオルガンの他に1ヒロ半くらいの小さな伝馬船も持って来られた。もちろん、釣り舟として用いるためである。
師の所有する釣り舟は仲知の信徒の釣り舟とは違って船体の中央が丸くなっていたので、誰が見ても一目で分かる小舟であった。師はその小舟を普段は仲知の港に引き揚げていたが、凪になると、趣味としてクサビ釣り、延縄釣り、がんせき(イカ)釣りに行っておられた。しかし、小舟を海岸に引き揚げる時には独りでは出来ないので翌朝になってから引き揚げていたが、その奉仕はたいてい姉妹たちでしていた。
 

写真の小船は今はやりのプラスチック船であるが、畑田師所有の小船は木船であった。

 次の話はその頃仲知伝道学校の生徒であった米山教会の白濱増雄さんから聞いたことである。
「伝道学校の学生だった白濱増雄と同じ伝道学校の同期生の2人は天気の良い凪の日、畑田師から釣り舟も延縄の道具もお借りして大水の海岸にアラカブの延縄を試みることになった。釣果は期待のアラカブが3、4匹程度しか釣れなく、小舟の魯を壊したうえ、延縄も途中で瀬に引っ掛けて切ってしまい師からこっぴどく叱られた」とのことである。

(5)、社交家

 戦中戦後の社会的混乱と食糧難の中にあって一般庶民の唯一の娯楽は、隣近所の人や友人と仲知特産の芋焼酎で杯を交わし友好を深めることであった。

 芋焼酎の製造過程で発酵した原料を釜に入れて炊くと湯気が出るので仲知ではこの芋焼酎のことを「ぽけ」と呼んでいた。この芋焼酎は祝祭日やお正月にお客を接待するのに欠かせない飲み物であったし、村や教会の行事にも欠かせない飲み物であったことから、その季節になると、普段はアルコールに縁のない家庭や修道院でもお客用として造っていた。

 しかし、酒好きな人や社交好きな人は必要に応じて造っていたし、ある人は生活の足しにしようとして大量に造り袋に詰め伝馬船で小値賀まで運び、酒屋の価格より少し安い価格で売っていたが、無認可の製造であったために税務署の立ち入り検査の情報が入ると直ちに山深いところに隠していた。

 畑田師の主な仕事は巡回司牧であったが、巡回司牧の仕事が一段落すると信者の家を訪問し信徒と一緒に芋焼酎を飲み交わした。湯るりがまち(いろり)を囲んで暖をとりながらお茶碗で芋焼酎を飲むことは、信徒にとってだけでなく師にとっても何よりの楽しみの一つで、酒好きな師の周りには同じ酒好きな大勢の信者が自然と集まるようになった。

仲知の集落ではたびたび酩酊するまで飲んで村の風紀を乱す人がいたのが欠点であり、師はそのような酒癖の悪い人とは交際することを控え、酒の場であってもできるだけ信仰の話を題材にするように勤められた。ある時は例外として困っている人を助けるためにご自分でカトリック信徒同士の結婚の仲人役を引き受けるということもあった。

 この話は以下の通りである。

 「昭和21年頃のこと、江袋教会の直ぐ近くに谷口清作・サキの家族が住んでいた。夫婦は熱心な信徒で夫婦で畑を耕し、貧しいながらも一生懸命に働き5人の子供を育てていた。

 しかし、妻のサキが突然病に倒れて床に着いた。病名は結核であった。当時は食糧事情が悪く、医学的にも進歩していない時代であったので、「胸の病」は不治の病であった。サキは発病してから夫である清作の愛情溢れる介護をうけたが、その甲斐なく39歳の若さで死亡した。遺された5人の遺児を抱えて途方にくれる清作の家族を深く憐れんだ畑田師は黙っていることが出来なかった。

 江袋教会の宿老や教会役員を介して嫁さん探しをした。何人かの候補の内、まだお嫁に行っていない江袋の山中テシさんがふさわしいと判断し家庭に上がって相談を持ちかけた。何回か交渉することで縁談が成立し2人は師の仲介によりめでたく結婚することになった。2人にはさらに3人の子供に恵まれ幸せな結婚生活を送られたそうです。

江袋教会 尾上勇さんに聞く
 
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