フェルジナンド・畑田 善助師

1944(昭和19)年〜1947(昭和22)年
真浦(山添)キヌエシスターの思い出
 (1)召命

 既に書いたように彼女の修道院入会は昭和21年5月1日、17歳の時であった。
 彼女は仲知国民学校高等科を15歳で卒業すると、家業である農業を2年ばかり手伝っていたら修道院の真浦ソノ院長が、主任司祭である畑田師からの使いといって姉のマチエを修道院にもらいにきた。

 ところが、そのときマチエは佐世保の相浦にある缶詰会社に就職していて家を留守にしていたことから、母のエツは姉よりも今家族と一緒に暮らしている妹のキヌエを養わせてもよいと返事した。本人はその話を後で聞かされたが、もともと心の中では仲知の修院の姉妹たちの祈る姿や一緒に楽しそうに畑仕事をする姿に心を打たれていた。それに仲知修道院には一般の家庭にはないミシンがあって好みの服を仕立てて着ることもできるし、それにもましてキリスト教の大切な教えを学ぶこともできると考えていた。

 そのように口にこそ出して言わなかったけれども、心の中では仲知修道院入会をあこがれていたので、その話が持ち上がった時には正直言ってとても嬉しかった。

 ところが、間もなくしてのこと、北海道トラピスト修道女が志願生募集に仲知に来ていることを畑仕事をしながら見た彼女は、心変わりがしてトラピストへ入会したくなった。そのことを母に伝えると母は「一度決めてしまったことを覆すべきではない」と言って彼女の心変わりを戒めた。

旧仲知修道院全景
 入会した5月1日は修道院の大座敷で歓迎会が盛大に開催された。その席には主任司祭の畑田師の他、一緒に入会した真浦八千代と真倉ジツの家族も招待されていて賑やかな歓迎会であった。畑田師からは修道院で造ったポケでもてなしを受けたが飲めないので辞退した。

 盛大な歓迎会といっても、戦時中のことで、食卓には今日のような豪華なご馳走ではなかった。それでも、普段口にしない雑ぜご飯とエソの塩つけがとても美味しかった。エソの塩つけの方は先輩の姉妹真浦ミツと真浦キヤとが入会する3人の後輩のためにと仲知の沖合いで釣ってきたものであった。

(2)、 牛飼いとほら貝吹き

 入会後、百姓頭であった真浦ミツの手伝いをしていたが、間もなく牛の世話をしていた真倉ジツが病気になったのでその後を継ぐことになった。

 当時仲知では何処の家でも牛を飼育していたが、それは農耕のためではなく、畑の肥料をつくるためと、子牛を産ませて売り、現金収入とするためであった。18歳の彼女が飼育することになったこの牛は仲知でも一、二位を争うほどの角の大きい大きな牛ではあったが、気性の激しいコッテ牛で飛べって取り扱いに苦労した。そこで、ある日のこと、その悩みを院長のソノ姉に打ち明けると、姉さんからは「あんたの飼い方が悪いからよ。もっと工夫して飼育するようにしなさい」と突き放された。
 
仲知地区で飼われていた牛

 ほら貝吹きは教会のミサの集合を知らせるためで彼女のときは真浦タシと交代で久志の「樫の木山」に登って久志集落側、真浦集落、島ノ首集落側で3回に分けて毎日吹いていた。日曜日のミサの時間はよく変更があっていたので、いちいち主任司祭に聞いてから吹いていた。しかし、その頃はまだうら若き乙女であったことから、そのたびに恥ずかしい思いをしていた。また、当時の「樫の木山」は今よりも木々が茂っていて暗く、通り道にあった白い告知板らしきものが、きらきら光って見え、化け物が出はしないかと恐ろしい思いをすることがあった。ほら貝を吹く自分たちはそれほど意識していなかったが、ほら貝の音を聞く信徒は吹く音色や大きさで誰が吹いているのか上手に言い当てていた。

(3)、大祝日

 夏場に祝うご昇天祭、聖霊降臨祭、聖母被昇天祭のごミサはよく野崎島にある瀬戸脇教会と野首教会でミサが盛大に行われていた。

 瀬戸脇でのごミサの時には米山教会と野首教会の全信徒が、米山教会でのミサのときは瀬戸脇教会の全信徒と野首と仲知の熱心な信徒が与っていた。野首教会でのごミサの時には瀬戸脇教会の全信徒と米山教会の熱心な信徒とが与っていた。親戚の家を頼って泊りがけでミサに与る信徒も数多くいて、そのことが同時に親戚付き合いを深めることになっていた。
 

 畑田師の時には修道院の姉妹たちは主にミサの聖歌を盛り上げるために応援に駆けつけていた。それは畑田師の意向によるもので、畑田師が宿泊などの世話もいっさい責任を持ってなさっていた。
 忘れられないのは昭和22年の聖霊降臨のごミサが瀬戸脇教会であった日に米山教会の村船が遭難したことである。
 

聖歌の奉仕は現在でも引き続けている。
(4)、遭難事故

 米山教会の村船の遭難事故は奇跡的に事なきを得たが、その年の教会の重大ニュースであった。
この事故に巻き込まれた信徒がまだ生存しているのでその方々にその体験を聞いてまとめてみた。

 時は昭和22年の聖霊降臨の日の午前11時頃のことである。その時間帯は瀬戸脇の直ぐ沖合いでは南西の風が強く吹き荒れ、しかも丁度引き潮の潮騒が発生していた。そこを定員(15人)オーバーの人(約30人)を乗せた米山の村船が通りかかった。この時、舵取り役の艫押しは精一杯に潮騒に巻き込まれないように努めたけれど、潮の流れに対して舟の速度が遅くどうしても避けることが出来なかった。舟は5丁櫓つきの5ヒロもある大きな村舟であったが、あっという間に波を被って沈み、乗船していた人の大部分は船外に投げ出された。しかし、幸運なことに、全員救助された。

 全員が救助されたことは不幸中の幸いな出来事であった。遭難した人の中には全く泳げない人もおれば、2歳児を連れていた母親もいたし、小学生もいた。それなのに全員が救助された。
それにはいくつかの理由が考えられる。

 第一に言わなければならないのは、村船が木船で水を被った状態で沈んでも、浮いた状態であったので救命具代わりになったことである。それにまた、泳げる遭難者がほとんであったので泳げない人をみんなで助けることが出来た。

 第二にいえることはすぐ近くの瀬戸脇の港には遭難を目撃しているミサ帰りの信徒の船が大勢いたので、直ぐ救助の手を差し伸べることが出来た。特に、江袋で大敷網をしていた野首の近藤さんの動力船「栄光丸」を借りて、江袋の信徒たちが大勢、瀬戸脇のミサに多数参加し港を丁度出港しようとしていた時であったので、機敏に対応し大勢の遭難者を早く助けることができた。

 沈んだ村舟もすぐ「栄光丸」が米山の港へ曳航することが出来た。港には事故を心配する津和崎の人や米山の信徒が大勢詰め掛けて待機していた。津和崎の白石医師も遭難者の救命のために待機していたが、遭難者がみんな元気だったのですぐに帰院された。
 

米山教会共同墓地から眺めた瀬戸脇集落跡

 
平成13年4月12日。当日の海上は凪であったので、小船で瀬戸脇探検を決行したが、瀬戸脇港近くに来るとこの写真のように波浪があった。

 大水ナミ子さん(当時27歳)は遭難の体験を次のように語った。
「遭難はあっというまのことであった。泳げなかったから助かろうとして声を張り上げて助けを求めたことだけはよく知っているが、何と言って助けを求めたのか全く覚えていない。

 彼女の救助に当たった弟の白濱増雄や友人から教えられたことによると、
『泳げる人でなく、泳げない私を先に助けてください』と必死になって何度も何度も叫び続けたそうです。この言葉を後で聞いた彼女はとても恥ずかしく思った。何でそんなことを口走ったのだろうかと悔やんだが、後悔先に立たずである。それよりもみんなに救助されたことに深く深く感謝している。

 川端ツナさん(当時36歳)は全く泳げないのに沈没の時にいきなり船外に放り出された。さあ大変。幸いにして直ぐ近くで泳げる大人が何人かいたので救助に当たった。ところが、本人は溺れる者藁をも掴むで必死になって救助者に抱きついて来る。抱きつかれた救助者は身動きが出来ず2人とも溺れかかる。こんなことを繰り返しながらやっとのことで救助された。彼女だけでなく、救助者も溺れかかっている彼女を救助するのにかなり苦労されたそうです。

 又居栄さん(当時13歳)
 村船の遭難は直ぐ目の前で発生した。彼はそのとき個人の小さな伝馬船に乗せてもらっていたので、2人しか救助できなかった。しかし、江袋の動力船「栄光丸」を中心に何艘もの救助船が機敏に対応したので全員が救助された。

 このようなことで遭難者全員が救助されたが、瀬戸脇教会での聖霊降臨のミサに与った直後のことだから、きっと聖霊のお恵みが遭難者全員に注がれていたのでしょう。だから、遭難者は困った時に人を守り救助してくださる助け主であられる聖霊に感謝しなければならない。

(5)病人訪問

 目的がはっきりとしてないけれども、信徒から聞いた話を総合すると、多分大水に急病人が発生したのだろう、師は昭和20年か21年の冬のある日の午後、大水からの村営電話で急病人に呼び出されて大水に出かけられたときがあったようだ。

 用を済ませて帰る時になるとすっかり夕闇が迫っていた。大水の司祭館にそのまま宿泊するか、それとも仲知の我が家に帰るか、どちらにするか困ったが、我が家に帰ることを決意しそのために村営電話で江袋の教え方をしていた谷口エイコ(当時17歳)に「今から大水を出発するから、迎えに来てくれ」との要請をした。そこで、谷口エイコは独りで夜道を歩くのは怖かったので、友人の尾上ユキを誘って一緒に迎えに行った。

 当時は戦後の間もない頃で道路もでこぼこだらけの山道で車が通れるものでなく、仲知から大水迄行くのには昼間でも大人の足で1時間30分はたっぷりかかっていた。夜の道を明るくしてくれる電灯はなく、ランプを持っている家も少なく、ほとんど四角のブリキ製のコトボシがこの辺の信徒が持っている唯一の照明器具であった。夜道を歩く時は、時には薪の燃え残りを振りかざしながら歩くことも珍しくないご時世であった。それに当時は大瀬良峠や江袋峠あたりには化け物や幽霊が出没するとかの怖い話が伝わっており、大人であっても独りで夜道を歩くことは怖がっていた。

 
畑田師(その4)へ
 
ホームへ戻る                    
邦人司祭のページへ
inserted by FC2 system