フェルジナンド・畑田 善助師

1944(昭和19)年〜1947(昭和22)年
白濱増雄氏の思い出

(1)、仲知伝導学校
 

昭和11年頃の仲知修道院姉妹達

 米山教会郷民より選抜されて仲知伝導学校に入学したのは昭和20年4月で同級生は大水康幸(大水)、瀬戸政美(瀬戸脇)、白濱清巳(野首)、浜口友吉(江袋)、赤波江武士(赤波江)、竹谷幸男(一本松)、竹内昭(小瀬良)の8人であった。

 入学1年目はほとんどの生徒が仲知校に通い、午後から、修道院の真浦シオ先生が教えてくださった。しかし、シオ先生は午前中託児所の子供の保育をした後、午後から伝導学校で教えていたので、最初の1年間は大変な苦労をしたのだと思う。彼女の授業の内容は主に旧・新約聖書と公教要理の講義で一般教養として作文などがある他、一月に一回はテストもあった。

 シオ先生は厳しい方であったが、その教え方は上手でしっかりとした聖書や要理の解説をなさっておられたので、生徒も授業の時は真面目になって勉学に励んでいた。だから、尊敬はしていても決して先生を苛めたり、泣かせたりはしなかった。しかし、ちょっとした悪戯なら時々して困らせることがあった。

 たとえば、伝道学校で炊事の奉仕をしていた久志サヤシスターは郷民から集めて伝道生の食料にしていたカンコロを伝道学校の2階の隅に貯蔵していたが、伝道生がその貯蔵庫からカンコロを盗んで食べていた。ある日のこと、そのことが賄いのサヤシスターにばれてしまい、全員シオ先生からきつく叱られたことがある。
 

(2)、教会工事に関連してのエピソード

 白浜増雄伝道学生たちが仲知伝道学校在学中に、丁度伝道学校の直ぐ近くで仲知教会の新築工事のため旧教会解体工事、敷地の拡張工事が始まった。
伝道学校の生徒たち9人はそれぞれ工事の様子を邪魔にならない程度にではあるが、好奇心をもって眺めていた。まだ生徒であったからこの工事の経緯や内容については知らないが、何分直ぐ目の前での工事であったので、工事に関しての楽しいエピソードが幾つか伝わっている。
 

 旧仲知教会全景写真

 ― 昭和22年の夏、伝道生は休憩時間になると、請負業者が教会の敷地を拡大するために障害となっていた大きな岩盤を火薬で爆破し、小さくなった石ころを再利用して石垣を造る作業を興味深く眺めていた。眺めているうちに何となく自分たちも業者の真似事をしたくなった。そこで、業者に気づかれないように火薬を盗んだうえ、小さな石をその火薬で爆破して遊んでいた。そしたら真浦シオ先生に見つかってしまった。事態を重く判断された先生は主任司祭の畑田師に申し付けたので、生徒はさらに畑田師からこっぴどく叱られた。

 しばらくの間、生徒は静かにしていたが、また悪戯をしたくなり、またまた、教会工事用のダイナマイト(火薬)を盗んで来た。
そして、今度は全生徒で真浦の浜に行き小魚が沸いているところを見計らってダイナマイトを投げて爆破させ一網打尽に魚を捕るように試みた。これは失敗し、肝心な魚は一匹も捕れなかった。しかし、このたびは誰にも気づかれぬように2、 3人見張り役をつけていたので事なきを得た。
 その頃瀬戸脇の漁師たちはこの漁法により群れをなして海面を浮遊しているクロ鯛等を大量に捕っていたが、3人ばかり、事故で一瞬にして手を吹き飛ばされ切断してしまうという事故があった。

― これも昭和22年の夏ごろのこと、仲知教会工事請負氏が野崎島の住民から鹿を一匹もらって仲知に持ってきた。それを伝道学校の生徒がもらって伝道学校の直ぐ近くに鹿のための小屋を造り、半年ばかり飼って可愛がっていた。
 

野首では現在でも鹿が群れている

 ところが、どうしたことか、飼っている鹿を外にそ引きだし(連れ出し)、その尻尾に缶詰缶など音のするものを近くから何個も拾って来て、はずれないように縛りつけた上、今度は鹿を走るように強要した。すると、尻尾についている缶カンの音にびっくりした鹿はものすごい勢いで疾走しそこらへんをあっちに行ったり、こっちに行ったりして走りまくる。その様子を見学して楽しむというまさに動物虐待に近い遊びをした。
その鹿はその後、間もなくして死んだそうである。

 白濱氏の思い出はどれもこれも悪戯のことばかりの思い出で肝心の畑田師についての思い出は極端に少ない。 
それは畑田師が仲知教会の建設というハードな仕事を抱えていたために、伝道学校では直接教えることが出来ず、ほとんど真浦シオに任せていたことによるのかもしれない。

 ただ一つ、良いことであったとして覚えていることは炊事の担当であった真浦サヤと真浦イトを助けて立串まで3人交代で配給米をエーで担いで運搬していたことだと言う。しかし、この配給米はシスターではなく、伝道生自身が食する分の米であったので、この奉仕は厳密に言えば奉仕ではないかもしれない。
それでも炊事のシスター方は助かり、喜んだことでしょうからこの意味では奉仕であったといえる。

(3)、7年間の米山教会奉仕

 昭和23年4月、伝道学校卒業後は、男子の教え方義務年限は12年であったが、その内彼は父白濱利作の職業であった鮮魚仲買業を手伝いながら昭和30年までの7年間、米山教会教え方をして教会に奉仕した。
 

旧米山教会

 昭和25年頃からは仲知地区においても、男子は現金収入を求めて奈良尾町奈良尾や若松町桐古里などの近海巻き網船団の乗組員として働く信徒が多くなり義務年限を勤め上げる事はどの教会の教え方も難しい社会的状況になっていた。だから、彼の7年間の教え方奉仕は彼自身が口にしているようにまだ良い方である。
 彼の担当は小学5、 6年生、高等科1 、2年生の4学年を対象にしていた堅信組の約30人から40人ほどの堅信志願者であった。
 

米山教会堅信記念 昭和36年

 これらの堅信志願者を最初は女の教え方・竹谷マチと、後では、白濱ウキと交代で毎日学校帰りの子供たちを全員ほら貝を吹いて米山郷の公民館に集め約40分程度公教要理を教えていた。

 しかし、仕事の都合で時として3日から4日程度佐世保の相浦魚市場まで出かけることがあったりしていたことから、その時には、自分の教え方の奉仕を竹谷マチや白濱ウキに代わってもらっていた。つまり、彼が米山に居る時には女の教え方と交代で奉仕し、留守の時には女の教え方に頼んで教えていた。

 女の教え方はさらに家事手伝いしながら初聖体の準備の稽古も担当していたので、男子の教え方よりも教会に奉仕していた。堅信組でない小学1年生から4年生までの子供たちは年の黙想の時と夏休みの時に女の教え方が集中して公教要理の手ほどきをしていた。

小瀬良留三氏(73)の思い出

 司祭も人間である。聖人でもなければ天使でもない。神のように素晴らしい面と、反対に信徒に失望を与えてしまう短所や欠点もある。
畑田師も例外ではない。師はこれまで述べたように戦中戦後の混乱した社会で司祭としていろいろな親切、思いやり、 誠実、寛容、謙虚などなど、たくさんの素晴らしい隣人愛を実行して信徒を常に励ましつづけた。しかし、どんなに信徒のために尽くしても時として人間としての弱さで信徒の希望にこたえることができないときもある。
次ぎの事例などがそうである。

 小瀬良留三氏は昭和19年は10ヶ月ばかり長崎の三菱電機(旭町)に勤めていた。その頃、従業員の宿舎(船大工町)となっていた会社の寮館長は、信者が日曜日など信仰生活を果たすのに非常に理解のある人で、彼は日曜日になると電車に乗って大浦天主堂でのミサに与ることが出来た。

 同年10月、会社の上司より福岡県今福市にある系列会社に出向を命じられた。ところが、近くにはどこにも教会がない。福岡に行くにしても、唐津に行くにしても一日がかりであるので、とうとうここでは長崎のように日曜日の勤めを果たすことが出来なかった。そして、終戦を迎えたので上司に暇をもらって帰郷した。昭和20年11月のことである。その時の仲知小教区の主任司祭が畑田師であった。

 彼はある日、久しぶりに罪の赦しをいただくために小瀬良の実家から仲知まで歩いて司祭館を訪れた。すると「なぜ、何年も告解(赦しの秘跡)をしなかったのか」と、問い詰められた。司祭であれば戦争のために告解出来なかった時代状況は知り尽くしているはずなのに、こんな冷たい言葉をいわれた彼はショックであった。しかも、畑田師は、「後でしに来なさい」と言われ、直ぐには聞いてくださらなかった。それに腹を立てた彼は「そんなら帰る」と言って告解しないまま家に戻った。
このとき神父様も他の用事を抱えておられて、直ぐには彼の望みを満たすことが出来なかったのでしょう。

 
 
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