パウロ・畑中 栄松師

1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年
 
伝道学校卒業式の挨拶
   昭和17年
   伝道学校生徒 山田ツギ

 私は生徒一同に代わりましてこれまで2年間仲知伝道学校で学んできたことの感想を述べてみたいと思います。
 私どもが各郷から選抜され、テレジア伝道学校に入学して学びの庭についたのは、ちょうど今から2年前であった。
 それもいつの間にか過ぎ去って卒業の今日に至りました。
 これは明らかに神父様は言うに及ばず諸先生方の厚き教えに導かれた薫陶の賜物であります。
2年間の愚論、頑迷なる私どものためにいかばかり心を悩ましたことでしょう。その忍耐と勇気と献身的な態度に私どもはただ感嘆するより他はないのであります。

 それを思うとき身の置き所がないように恥じ入ります。それで私どもはこれから培われました教訓を奉じ努力を重ねてご恩に報いたいものでございます。
 ほんとうにその当時勉学、修徳を好まざる私どもは伝道学校に入ったことについてわが身を呪い、人を恨み郷民に立腹するという風に不平だらけで過ごしました。
 
テレジア伝道学校

 先生から「そんなに校則を破り、勉強もせず不平だらけの人は出て行ってしまいなさい。あなた方が来なければ村の人々もあなたがたの自由を縛りはしなかったろう」とまで叱られました。

 それで私は「そんならなぜ郷民は自分のようなつまらない者を入れたのか、郷民に言え」と打ち答えてしまいました。
 しかし、月日がたつにつれ自分らが選抜され郷民から期待されていることにいかにも有難味を感じるようになりました。

 うららかな春のそよ風を窓から入れて読書する楽しみ、木の香る新しい机、新しいペン、白いノートに字を書く楽しさに加え、先生方の物新しい講義を聴くのがなんとなく楽しく、知恵は開け頭は冴え学徳には日々進歩が表れて勉強すればするほど頭痛もだんだんなくなり、信心も日に増し、恩寵の恵みで深くなり放課後時間にはラジオ体操や陣取り合戦、磯遊びで時の行くのも覚えないくらいで、後ろの竹薮にお宿している雀どもも歌い興じてくれました。

 前の見晴らしのいい大海原を行き交う白帆の眺めなどは晴れにも雨にも絵のようでございます。
 
 

平成11年6月、海上から撮った仲知集落。
当日は曇り空であったので、写りの状態が悪い。

キジロで高くも踏まれぬポクポクとした古びた校舎でも、いたずらで日本一といわれる世にも名高き9人の女子が住めば都よ、わが里よでともどもに手を引き合って見学にいそしむのが何よりの楽しみでした。

 また、ともに薪背負いを競い合う水曜日、また、勉強で重くなった頭を冷やす月に一度の大散歩日が来るのを何よりの楽しみで待ったものであります。

 しかし、楽あれば苦ありで私どもは毎日遊び戯れているように見えても、いかに真剣であったか、いかに勉強しなければ一人前の教え方にはなれぬものか、もう郷民が何と言おうと、帰って町に働きに逃げようかなどと考えたり、話し合ったりしたことは幾度だったか知りません。厳格な校則に縛られ、肌をつんざく冬の朝も何となく眠気をもよおす夏の日も、朝は5時の起床の鐘の音を合図に晩は就床を告げる9時の鐘の音を聞くまでうまずたゆまず続ける毎日。

 月に一度必ずやって来る大試験日などはご飯も喉を通らず、思い煩うこと一方ならず、ちょっと怠けているとそこらあたりにいられぬほど先生から叱り飛ばされこの小さき私どもの心身はたまらず目は疲れ果て頭は神経衰弱にかかるというあんばい。

 一日も気がゆっくりなる日はなく、かくまで心身を鍛え上げなければ人を導くことは出来ないものかとつくづくと感じたものでございます。

 しかし、「一度去っては後に帰らぬ青春なれば、疎に過ごせようぞ、いかに試練が多くても何を恐れようか」のこころ意気を忘れず、あらゆる試練を突破してもって最後の栄冠を手折らん。雨の後には光明あり、逆境の彼岸には成功ありを思い、沈みゆく心を引き立て引き起こして今日に至ったのでございます。

 されば、かくも苦い学び舎に苦学して鍛え上げられたからには決してこれを乱用せずこれからは村のため足取りも勇ましく大いに奮励努力する決心に胸は炎と燃えています。

 かくのごとくして、この苦学の辛さを捧げきった報酬として今日、栄えある卒業の栄冠をいただく光栄を得ましたことは一重に皆様からの霊肉のおん助けの賜物と深く御礼申し上げる次第でございます。
 まずは2年間の感想の一端を述べて御礼の言葉といたします。                    

伝道学校卒業挨拶 
 昭和17年、伝道学生 瀬戸ちよの
  
伝道学校卒業にあたり感想の一端をのべてみたいと思います。
 2年の星霜は過ぎまして、今、諸先生方と別れ、学校を離れますにあたって、私の感想の一端を述べてみたいと思ってここにまかり出た次第でございます。

 今、私どもは2年の業務を終えて目的に達したのでございます。
 物の成功というものはその成功に至るまでの道が困難であればあるほど、面倒であればあるほど、また、その困難に打ち勝ち、その面倒を絶え通したとあれば、その成功の喜びはそれだけ多きはずのものでございます。

 ところが、私どものここに至るまでの道は2日でも、2ヵ月でもありませんでした。2年のまあ長い星霜を経て今日に至りました。

 この2年はどんなものであったかと申しますと、それは実に面倒でした。いかにも困難でした。私どもが最初天主様のお招きを受けてこの伝道養成所に参ったときは、やっと尋常小学校の義務教育を終えたばかりでした。身は汚れて臭気を帯びた鼻垂れ娘でした。礼儀作法を知らない耳の穴も開いていない私どもでした。ローソクをドーソクと言ったり、ミドウをミローと言ったりしたものでした。
 
 

畑中師に仕えた男女の教え方、昭和19年
 私どもの招かれた目的といったら、美しくさえわたる月見のような者となって、即ち、一人前以上の人間となって人々の上に立ち、信者を暗黒から光明の方へ導き言行をもって人を教え導くという重大な任務でそれをわずか2年の短い年月の中に学び終えなければならなかったのでございます。どうして人を教え導くだけの学徳を具備し得ましょう。愚論な頭にそれらを詰め込むのは無理でした。

 特に低脳な私の如きはどうして試験の場に挑むことが出来ましょうか、と思って便所にいくにも書物を懐にするというあんばいでした。
そして、試験日には腹なり痛み出せば試験は受けなくて済むとの愚かな悩みは実現しないで、かえって頭が痛み出すという始末。
 

堅信記念写真、昭和19年
拡大写真。
左側:畑中師、中央:堅信を授けた梅木師、右側:多分、畑中師と親交のあった仲知国民学校の校長先生だと推察される。

 それから心配も積もり積もって、賄いさんの心を込めた芋飯も味噌汁でやっと心配の関所を通すという風で、いかにも困難でした。

 しかしながら、雨の朝、風の夜の辛きことの数々も、夢のごとく過ぎ去りまして信者として知るべきはずの教理も一通り覚えこみ、目的の任務に着かれるようになったのは無論天主様のお恵めの他ありませんが、皆様方がすべてを犠牲にして私どものためにご尽力してくださいましたお情けのお蔭とお祈りの賜物でもあります。

 それで、村の人たちのご恩に報いるため卒業後は重い責務を引き受けなければなりませんが、いかにせん私どもの力は弱く神により頼みながら教会のため村のため捧げし身なればたとえ火の中から水の中から一身を投げてもいとわぬ覚悟でございます。

 私のこの感想は辛苦話になって、辛苦を広告するようだけれども、それを言わなければ「苦は楽の種」という諺が実現しません。
 まずは、感想の一端を述べてお礼の言葉といたします。

 
 

畑中師(その13)へ

 
ホームへ戻る                    
邦人司祭のページへ
inserted by FC2 system