パウロ・畑中 栄松師
1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年 お別れの言葉
昭和19年10月 テレジア伝道学校生徒最も敬愛する畑中神父様
神父様がこの仲知小教区にご着任されてから5年になります。この度、図らずもお別れしなければならないこととなり、その時刻も刻一刻と迫ってまいりました。本当に私どもにとりましては大きな試練であり、言い尽くせない悲哀を感じるのであります。
何となれば、つまらない私どもは伝道女の召し出しに選抜され、修徳に勉学にやっと慣れかかったのでありました。そして、無知蒙昧、至って弱く、私どもの集まりでも神父様の良きご指導によりまして神の誠を知り、心身の平和を得、キリスト様のみ言葉のごとく「地の塩」となり、世を照らすべき光となることと大きな希望に憧れたのでした。
そして、この短い月日に関わらず、良き牧者である神父様の毎日の授業にすっかり打ち解け、その親しい愛にすっかり甘えていたほどそれほどに私どもの悲哀も大きなものでございます。
昭和20年8月、伝道生 顧みますれば、私どもは神学と徳が進歩していなので神父様を喜ばせなかったことをお赦しください。しかし、神父様、一方から見てご安心下さいませ。これからは、なおいっそうの学徳に精進する意気込みで小さい心はいっぱいになっております。
是非とも卒業までには神父様から日頃常に教えられた教訓を良く守って首尾よく卒業し、その後は怒涛渦巻く世俗の荒波に船出して信仰のために戦い、聖母マリアのお助けを願いながら立派な伝道女として献身することをお約束いたします。
神父様は私どもの伝導養成に幾多の辛苦をなめなさいました。私どもにとりましては大恩人でございます。その私どもの卒業式にはぜひ是非お出でくださいまして、教え子たちの巣立つさまをご覧下さいますようお願い申し上げます。
神父様は遠い長崎の地に転任なさいますが、このか弱い私どもをお忘れなく、ミサ聖祭のメメントの中で思い出してください。
まずはこれを持ちまして、お別れの言葉と致します。
ミサ聖祭執行中の畑中師
お礼の言葉 濱口種蔵
終わりの「公教要理」にあたって
公教要理の終わりに臨みましてここにお集まりの皆様方に一言申し上げましょう。
今日の公教要理の稽古は何となく咽喉が詰まったような感に打たれました。
と申しますのは、村ご一同様に5年の長い年月の間つまらなかった私の指導に快く従ってくださいましたけれども、それが今日で終わりとなったのでございます。本当に郷総代ならびに村ご一同様のお情けのお蔭で義務年限を無事大過なく務めさせていただきましたことはひとえに皆様からの霊肉の賜物でございまして、私の終生忘れないところで天主様を通して皆様方に深く御礼申し上げる次第であります。
顧みますれば、伝道学校に入学しましてこの方8年の間星霜もいつの間にか過ぎ去りまして、その間何から何まで郷民の手を煩わせた私は、どうしてかくも多大なるご恩に報いましょうかなど朝な夕なに案じ煩うのでありましたが、実はつまらない私としてはなんともする道を知りません。
創立当初の「女部屋」跡が仲知伝導学校となった。 ただこの大いなる恵みをかたじけのうした皆様に万事計らいたもう天主様に私に代わってご恩を報い下さい、とのみ懇願するより他にすべを知らないのでございます。
ほんとうに思えば皆様のためになるようなお話や指導をできなかったことを思うとき、どうもこれくらいは済まなかったと胸もかき破るような悔しさと悲しさでいっぱいになるのでありますが、いかにせん浅学不徳の私ゆえどうすることも出来ません。
そして、かくも皆様のお情けに助けられて務めさせていただいたにもかかわらず、ときには横着にかまえたり、皆様の気に触るようなことをしたり言ったりしたことも幾度だったか知りません。それで、どうか賢明な理解ある皆様の胸で思い流して、赦しをいただきたいのであります。されば、郷総代、村ご一同様、これまで長いことお世話になりましたことを心から重ねてお礼申しあげます。
しかし、これからも今まで通り皆様の同情と援助なくしてはとうてい立って行く事も出来ないのは申すまでもありませんから、これからも万事よろしくお願いいたします。
次に5年間、毎日のように皆様の子供をお預かりいたし、春夏秋冬に接し思いで多きは皆さんの子供でございます。寒さ暑さに対し案ずる者は子供の心身の健康でございます。この無邪気な子供らをしかも、お恵みのもとに新しく正しく強く明るく伸び行きつつある子供らを再び親元にお返しいたします。
そして、終わりに臨みまして今度めでたく卒業なさった仲知の教え方○○さんも私と同様否より以上に助けてやってください。
いかに学徳を具備する立派な卒業生とはいえ始めは悩み、心配、恥ずかしさなどで指導できかねますから何とぞ、そのへんをみて助けてやってください。くれぐれもお頼み申し上げます。
まずはこれをもって5年間のお礼の言葉と代える次第であります。つまらなかった私の公教要理の稽古もこれをもって別れることにいたします。
畑中栄松師のことば
畑中師は井持浦教会へ赴任して2年目の昭和59年にお告げのマリア修道会「仲知修道院100年の歩み」出版のお祝いとして祝辞を書いているのでそれをここで紹介してみる。
井持浦教会 「お告げのマリア修道院の創設百周年のお慶びを、真心こめて賛美と感謝の中にお祝い申し上げます。
私は40年前、仲知教会勤務を命ぜられ、四ヵ年余を過ごすことが出来た思い出をなつかしく追憶し忘れられません。知る人ぞ知る、五島の北端に位置する仲知集落につつましく修道生活がいとなまれて、教会発展の片腕の使命を背負っておられました。
細長い傾斜続きの島は、ほとんど平地は見られず、坂地で帯のような段々畑を耕作しながら、文明の恩恵を受けることなく遠く厳しい環境のもとに、幾多の苦難をうるわしく耐えていました。
昭和19年、セシリア修女院の会員と一緒に記念写真。
前列左端が畑中師これは、キリシタン迫害の余波の姿であり、高潔な信仰の証でありましょう。
尚、日毎に教会信徒の光となって、司祭や修道者への志願者が多く生まれ出ていました。
これこそ、修道者たちのあつい祈りと献身的奉仕の実りではなかったでしょうか。
百周年を迎えられた、素晴らしい仲知修道院が、益々その力を発揮し、神の栄光を限りなく輝かしますよう期待し、念願いたします。井持浦教会主任司祭
掘り起こす「畑中街道」について
召し出しについての畑中師の貢献についてはすでに言及したので割愛するが、畑中街道についてふれておきたい。
昭和22年から昭和28年まで仲知小教区の主任司祭であった西田師は「仲知修道院100年」記念誌のお祝いの言葉の中で仲知に赴任した頃の仲知の道路状況にふれて「仲知から江袋あたりまで畑中街道と呼ばれていた道があった」と二回も言及しておられる。そこで私は仲知出身で長崎市西泊に在住の白濱(旧姓・島本)マキさん、仲知在住の久志フジさん、久志スミさんにお聞きした。
3人は仲知尋常小学校の同級生であるが、その内久志フジさんと久志スミさんは畑中師が仲知に着任された頃は、昭和13年に仲知に新設された高等科に在学中であったからということで畑中街道については知らないと言う。
他方、家庭の事情で高等小学校に進学出来なかった白濱マキさんは畑中師のときに仲知郷、江袋郷の信徒が駆り出されて島の首から江袋へ至るアップダウンの激しい曲がりくねった細道をチョノガ、ホゲ、ツルハシなどの道具を使って道路補修した記憶があるというが、詳細については忘れたのだと言う。この信徒の手作業で行った道路補修労働奉仕のことを土地の人は「道普請」と呼んでいた。
畑中師の時に修道院に入会し仲知の歴史に詳しい真浦タシシスターの話では「畑中師は教会に来る信徒の便宜をはかって、教会の周囲を中心に一本松から江袋峠までの道の整備を各郷民の労力奉仕で行った」そうである。
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