パウロ・畑中 栄松師

1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年
 
パウロ畑中師略歴

聖霊の愛熱の牧者、 島本大司教の恩師

大正3年1月15日長崎県南松浦郡岐宿町川原郷99番地に生まれる。
昭和14年3月21日大浦天主堂で司祭叙階
同年3月、大浦天主堂助任
昭和15年9月、仲知教会主任
同教会在任中に島本要少年(現長崎大司教)を神学校へ送った。このことを「おれが大司教にしたとぞ」と
喜んでいた。
昭和19年10月、長崎公教神学校
昭和23年4月、諫早教会主任
昭和35年10月水主町教会主任
昭和43年4月大野教会主任
昭和58年3月、井持浦教会主任
平成3年8月、プチジャンの家(幼きイエズス会)に引退。

 数年前から病気療養のため入退院を繰り返していたが、平成4年12月20日午後11時50分入院先の聖フランシスコ病院(長崎市)で胃がんのため帰天。行年78歳
葬儀ミサは12月22日浦上教会で、島本大司教主式、松永司教ほか百人余の司祭団の共同ミサで行われ、多くの修道者や信徒らも畑中師との別れを惜しみ、その冥福を祈った。

 追悼説教にたった竹谷音吉神父(深堀教会)は「皆さんの中に畑中神父様を先に愛した人はほとんどいないでしょう。師はそれより先に私たちを愛してくださいました」と、師のキリスト的優しさに触れた後、そのキリスト的厳しさにふれ、「畑中師の聖霊の愛熱の日でやけどさせられた人もいるでしょう。しかし、そのやけどの跡がきっと皆さんの信仰の源泉になっていると思います」と、司牧宣教や教会建設に携わった師の熱意のすばらしさをたたえた。

小さな思い出

 私はこれまで同じ長崎教区司祭であったとはいえ、大先輩司祭であった畑中師とゆっくり話をしたりして交わったことはない。そんな私だから畑中師の思い出もそれほどあるわけでない。遠くから眺めただけの思い出に過ぎないが、少しここに先輩司祭についての印象を書いてみることにしたい。

 私が師に一番最初に出会ったのは私がまだ大神学生の時(昭和46年頃)で、一人で佐世保市にある大野教会を見学に行ったときであった。その時の大野教会は木造造りのやや小さな古びた教会で、教会内には畳が敷かれていた、と記憶している。
 
旧大野教会。現在は見事な鉄筋コンクリートの教会となっている。

 佐世保駅から市営バスに乗って大野教会をはじめて訪問した時はちょうど日曜日のミサの最中でミサに預かる信徒でほぼ満員であった。

 ミサ後にミサを司式しておられた畑中師に挨拶してから帰ろうとミサが済むのを待っていたら、ミサ後、さらに師ご自身が公教要理の稽古を始められた。神父様は時々冗談を交えながら黒板に字を書いては信徒に、子供にかみ砕いて教えるように優しく説明されているのを見て、「この神父様は話が上手でユーモア感覚のある人だな」との印象であった。信徒も神父様の話術につられてか、静かにして聞いていた。

 私は司祭になってからも神父様に対してこのような印象を持ち続けていたので、仲知に平成6年4月に来て仲知の信徒から「神父様は非常に厳しい司祭であった」と聞いて意外に思ったものである。

 神父様が仲知で司牧なさったのは司祭になりたての時で、しかも、大東亜戦争で社会も教会も混乱していた時であった。

 そんな社会情勢の中で、信徒の指導も厳しくなるのは無理もない。仲知滞在時の師の顔写真を見ると、なるほどいかにも厳しい顔に見える。あの大野教会でのおっとりとしてユーモアに満ちた顔ではない。それでも、既に紹介したように、仲知での司牧活動で神父様の影響と感化を受けて聖職者や修道女になった信徒は島本大司教様だけではない。

 その後、神父様は諫早教会と大野教会の新築工事、次に赴任した井持浦教会でも鉄筋コンクリートの立派な教会を建設なさり、大変な苦労をなさった。外野席からの勝手な判断であるが、大野教会と井持浦教会の建設においては一部の信徒や司祭から猛烈な反対を受けて四面楚歌の状態になってしまったときがあったのではないかと、推察されるほどであった.。
 
昭和63年に畑中師の手によって修復された井持浦聖堂。旧聖堂は昭和62年の12号台風で教会の約7割が被害を受けた。
写真は「ルルド創設100周年記念誌」より

 


修復された井持浦教会

 しかし、神父様は生身の人間として挫折はしても決して失望はしなかった。何事にも立腹することもなく、常にユーモアを忘れず、人を恨むこともなく信徒と神を愛し、自ら先頭にたってせっせと寄付金を募り、後世に残る立派な教会を完成させた。

 人を教え導くという司祭としての豊かな才能を終生堅持しながら信徒と神への愛に駆られて、本当は不得手であったかもしれない教会建設という大事業を成し遂げた。波乱に満ちた人生であったが、常に生きがいある司祭としての生涯を全うされたのである。
 
 敬愛する神父様よ、どうぞ、天国ではゆるりとお過ごしください。心よりご冥福を祈ります。
 
日本初のルルド 長崎県下五島・井持浦

日本で最初に創設されたルルドでのスナップ写真。平成元年福江教会婦人会の皆さんと。「ルルド創設百周年記念誌」より。
この頃、畑中師は井持浦教会の主任司祭をしていた。
その頃の畑中師のことば。「わたしはロザリオはマリア様の御手だから、マリア様に手を引かれて神様のもとに行くためには祈ることだと信徒に言っています。
ここの信者達は、ルルドのマリア様と生きているのです。ロザリオの信心を大切にすること、また、かくれキリシタンの人たちの回心のためにも祈りは必要なのです。
小教区の神の家族が一致して祈り、神様の道具となって働くよう努力することを願っています。」と話しておられる。

結び

 畑中師の司牧者としての人生は51年でした。
 その内仲知で過ごされたのはわずか5年でした。その後、略歴にあるように神学校、諫早、水主町、大野、井持浦のそれぞれの教会ではどのような歩みをなさったのでしょうか。

 後年、御自分の仲知での司牧を回想して仲知の信徒に「仲知でスパルタ式の教育をしたのは戦時中、政府からの圧力があってやむを得ない状況であった。」と語っておられます。

 しかし、信仰教育に厳格であったのは仲知を離れても変わってはいない神父様の強い信念に基づくものであったようです。これを知るためには転任された教会の信徒に聞くことが望ましい。
 ここでは大野教会信徒瀬戸正男氏の追悼文を紹介することにする。
 
「ルルド創設100周年記念誌」より

拝啓、畑中神父様

   大野教会 瀬戸正男

 昭和43年4月これまでスカポロ会の管理下にあった大野教会も長崎教区に返還され、初の邦人司祭として畑中神父様が赴任されました。
 出迎える信徒数も少なく、ましてや平屋建て、トタン葺きの教会を見たときは、さぞかし驚かれたことと思います。

 それから5年。
司祭館が各信者戸数より10万円拠出して、昭和48年2月完成しました。
 昭和53年には子供の公教要理は、どうしてもシスターの協力が必要だと痛感され、お告げのマリア修道会指導のもと、社会福祉法人愛光保育園を設立されました。

これで一応の形は整ったけれども、畑中神父様の心の中には教会立替という大事業が残っており、在任中どうしても建設したいと、常に言っておられました。

 畑中神父様は信仰上の教えは非常に厳しく面相変えて信者に接することがあり、そのため信者から怖がられた面もありましたが、司祭館に行くと先ほどのことはけろっと忘れてニコニコとされる両面を持っておられたようです。

 昭和55年教会建設のことになり、信者は賛否両論に分かれ、それぞれの立場から議論百佛の状況の中でも、神父様は動ずることなく初志貫徹への決意は固く、役員及び信者を励まし、自らも県下の教会は言うに及ばず、遠く県外までつてを頼りに、福岡、大阪、名古屋、東京へと足を伸ばされ、何処へ行くにも車の中でロザリオを唱えられて役員を励まされていました。
 

 往復の旅費、宿泊費などは全部自弁。いただいた寄付金は全部教会建設費へ充て、その上役員は一人当たり7百万円の負担。それが大進建設の契約金二千5百万円の残りに順次払い込みということになり、後戻りできない状況の中で、いまにして思えば神父様在任中の集大成としてよくぞ出来たと思います。

 これも、ひとえに車の中のロザリオに不思議な力があったものと思います。
 総額7千8百万円の契約の中で最終的に集まった金は9千万円くらいでした。

 畑中神父様、
 あなたは聖霊の導きによって神が大野教会に遣わされた方と深く感謝いたします。
 神父様のあまり身近すぎて感じなかったけれど、今しみじみ在りし日を偲びます。

「要理教師の友」 春 101号「33ぺージ」より
 
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