パウロ・畑中 栄松師

1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年


 江袋教会の尾上勇氏(昭和5年生まれ)も畑中師から厳しい指導を受け堅信を受けた一人である。彼には堅信以外のいろんな思い出を書いてもらった。

ゲンコツ

 昭和18年だったろうか。大東亜戦争勃発の12月8日は毎年大勝奉載日といって、ミサ後、信者学童が教会下の運動場で宣戦の大勝を朗読し、宮城遥拝をしていた。

そのとき、畑中師より何の前ぶれもなくとっさに私に号令をかけるように命令された。突然のことで、大人もたくさん集まっており、上級生もいることだし、恥ずかしくてもじもじしていると、いつの間にか頭にゲンコツが飛んできた。

 そこで意を決して「天皇陛下万歳、右向右宮城遥拝 最敬礼」と号令をかけた。
 神父様は校長先生みたいな調子で、天裕をほゆし、万世一系の天皇と恭しく大勝を読み上げていたことが瞼に浮かぶ。

聖歌の練習
 
聖歌のけいこの指導を受けている元気な江袋の子供達 平成10年6月

 仲知伝道学校で畑中神父様から学校帰りに呼び集められ、ラテン語の聖歌「キリエ」を習ったときのこと、私の一級上の男子が口を開かずにいたのでしょう。彼は実は音痴であった。その彼に一人で立って「キリエ」を歌うよう命じた。彼は最も苦手な歌を一人で立って口にした。いうことを聞かないと例によって平手が見舞われることは、確実なのである。

彼が歌い始めた途端、神父様は後ろ向きになり顔は真っ赤になりながら腹を抱えて笑い吹きだした。
 あのときの聖歌の練習の様子と一級先輩の姿がありありと偲ばれる。
 彼は舟の事故で死亡した。ご冥福を祈る。

登校下校時
 
現在の仲知小学校 写真は「仲知中学校閉校記念誌」より

 仲知国民学校へ登校するときは各集落ごとに日の丸の旗を先頭に列を作って登校していた。
時には、軍歌を歌ったりもした。
途中回り道して教会前を通り司祭館の前に整列、神父様に
 「おはようございます」
 「真面目に勉強してこいよ、よろしい」
 今日の挨拶は50点だの、100点だのと採点していた。下校時は毎日ではなかったが、帰る時間頃になると何処から見張っているのか、隠れたようにして道草をしている児童のそれぞれの名前で大きな声で呼び止められもした。
 時にはホッペタにあり難くないおみやげをいただくこともあった。

ユーモラスな話

 ある日の下校時、現在の仲知消防署のある所あたりに赤波江の一老人と会う。
 「お前たちは畑中師を好きとか」
お酒の勢いもあって大きな声。子供全員が
 「うんにゃ、好かんよ」と口をそろえて一斉に答えると、それなら
 「この4月 豆ば神父様に腹いっぱい食べさせてから出そうで」
 皆はショックと知りながら
 「おんじたのむての」の声を揃える。
そのおんじ足もとフラフラで遠ざかっていった。
 
昭和42年頃の仲知郷 現在は仲知集落の県道沿いに仲知分団消防倉庫が建設されているが、昭和42年頃はまだなかったと見られる。

 実姉の尾上ナツ子は畑中師の感化を受けて、昭和18年鯛ノ浦養育員へ入会。入会後、間もなく恩師の畑中師に感謝の手紙を書いた。
手紙を読んだ師は江袋のミサの説教で公表した。
 「今日まで神父様のご指導で多くを学んだ。厳しかったけれどあり難く感謝している」との内容だった。この手紙に気分をよくされた師は、それまでの指導に間違いはないと思い、その指導はますます厳しさを増し、君たちにも今後立派な信仰を身につけるようにしてやる、とのことだった。

 

米山教会子供たちへの信仰のしつけ

 仲知小教区には畑中師から影響を受けて少年時代を過ごした信徒はたくさんおられるが、その中の一人は現在米山教会の経済評議員をしている山田常喜氏(71)である。

 彼は堅信を岩永師の時に受けているので岩永師についての思い出を聞こうとしたけれども、本人は畑中師の思い出を語ってくれた。
出来るだけ客観的に聞いたままをありのままに書き記すように心がけながら要点のみを書き記してみることにする。

  1、巡回ミサ

 畑中師が仲知に着任されたとき彼は小学校5年生で、一月に一回の巡回ミサでは侍者(ミサ奉仕者)をしていた。当時はラテン語の背面ミサであったので、侍者も司祭の呼びかけの祈りにラテン語で答えていた。
 
 

ミサ聖祭に与る米山の信徒たち

 米山で一番ミサの立つ日曜日の前日の土曜日には、当番制で婦人会会員2人が神父様の荷物を仲知まで取りに行って「エー」と呼ばれていた荷物を担う道具で運んでいた。その荷物にはミサの道具や神父様の祈り本とか着替えが入っていた。神父様のお風呂とか夕食の準備も婦人会で当番制で奉仕していた。神父様は土曜日の午後、地下足袋を履き、手ぶらで来られて翌日のミサに備えていた。当日のミサが済むと神父様は仲知でニ番ミサがあるのですぐ帰られていた。
 米山が二番ミサの時には一番ミサを仲知でした後、当日米山教会へ巡回しておられた。

  2、信仰のしつけの厳しさ

 当時はどこの教会にも子供が多く米山教会もミサの時になると、教会の信徒席の前半分は子供たちで埋まっていた。勿論バンコはなかったので、子供たちは板張りの上に互いにくっつきあうようにして座っていたのでミサの途中で騒ぐ子供もいた。

 二番ミサが済むと、神父様はいつも子供たちを司祭館の前に集めて、「きおつけ」の号令のもと整列させた後、子供の名前を聞いていた。声が小さいと「もっと大きな声で返事をしなさい」、と言われて頬っぺたにあり難くないびんたを一発受けていた。ミサで騒いでいた子供たちは注意を受けるだけでなく頭を張り飛ばされるというお土産もついていた。その後、いろいろと信仰教育のためのしつけの指導を具体的に受けてやっと開放されるのであった。
 
堅信記念写真 米山教会の受堅生 昭和36年

 その具体的な指導、というよりも命令の一つは他教会での日曜日のミサ参加を命じられていたことである。仲知、江袋、赤波江教会でのミサだけでなく、何十キロも遠隔の地にある大水教会でミサがあるときにも堅信が近づいている小学校5、6年生には容赦なくミサに与るようにと命令していた。
命令だからどの子も大水のミサに間に合うために早朝3時半くらいには起床して、子供の足で片道3時間もかかる山道を歩いて大水での朝のミサに与っていた。
 そうしなかったら後で呼び出されて例のびんたを受けることは分かっていたからである。

 さらに、道の途中で米山の子供たちが神父様と会うと逃げたり、隠れたりしているのを見つけると、後で呼び出して「米山の子供たちは引っ込みじあんである」と言われてまたびんたを張りまわされていた。

 当時は学校でも先生から叩かれることは日常茶飯事で 、どの子も一発や二発はゲンコツか平手打ちをいただいていたのだ。また、家庭においてどの親も言うことを聞かない子供にはしつけの一環としてよく叩いていたし、世は戦時中のこと、スパルタ教育はごく日常的に行われていた社会であったので子供の親も神父様の厳しいしつけを理解していた。

 このような事情で畑中師から叩かれて厳しいしつけを受けた子供たちにとって長い歳月がたった今、あの頃に叩かれた痛さは、懐かしい記憶になっている。

 それにしてもあの畑中師からの仕打ちを受けずにすんだ優等生も数人おられる。仲知の信徒はそのお一人は多分現在長崎大司教の島本要少年であったのではないかと言う方もおられるのですが??

3、お別れ

 山田常喜氏は15歳で津和崎国民学校を卒業後、1年余り父の農業と漁業をして手伝っていたら、有川の職業指導所を通して徴用佐世保海軍工商に徴用された。昭和19年10月のことである。

 出発にあたり、主任司祭の畑中師に仲知の司祭館まで挨拶に行くと、神父様はわざわざ応接間に通して言い聞かせをしてくれた。彼はその時の言い聞かせの内容までは良く覚えていないが、神父様が肩を抱き激励してくださったその優しさにほだされて思わず泣いてしまったことだけは記憶に残っているという。

 その後1ヶ月もしないうちに、官報伝報により神奈川県藤沢市にある海軍航空隊に入隊する。
昭和20年4月には宮城県松島海軍航空隊へ転勤。その後、日本がアメリカに敗戦したので同年9月1日帰郷するが、畑中神父様はすでに転任されていなかった。実は師は彼と分かれて1ヵ月後に神学校へ転任されていたのである。

畑中師、大水教会の信徒の信仰を称える。

 米山教会の山田常喜(71歳)さんの話によると、畑中師の時代には月に一回くらいの割で日曜日のミサはなかった。そのような時には教え方と一部の熱心な信徒は畑中師の勧めに従い、仲知の早朝ミサに与っていたが、その他の一般の信徒は地元の教会で朝8時に教会に集合し朝の祈りとロザリオ信心、それに「ミサにあづかるを得ないときの祈り」をしてから、場所を公民館に移して教え方から公教要理の指導を受け、さらに教会にもう一度集まって十字架の道行きの信心をしていた。

 その後、解散して日曜日を休日として楽しく過ごしていたが、大抵直ぐには家に帰らないで男も女も子供たちもそれぞれが友達同士で寄り合ってお茶やぽけ(自家製の芋焼酎)を飲んでゆっくりとしたひと時を持ち、交流を深めていた。

 このように日曜日にミサがない時にも米山の信徒は全員が仕事を休み教会を中心にして過ごしていたが、それでも畑中師からは米山の信徒は不信仰者の意味で「ゼンチョ」呼ばわりされていたのである。
しかし、それには理由がある。

 畑中師は大水の信徒の模範を例に取り上げながら、米山の信徒に仲知教会や江袋教会での早朝ミサに与るようにしきりに勧めていたが、米山の信徒はその勧めに従う人は少なかったからである。

 いつ頃のことなのかはっきりと分からないが、仲知教会で行われたある日曜日早朝ミサ後のことである。
 畑中師は米山の信徒がご自分の勧めに従って何人くらい仲知のごミサに与っているのか聖堂内を懐中電灯で照らして調査されたことがある。というのは、 当時のミサは今の時代のように 対面ミサではなく、信徒に背を向けて捧げる背面ミサであり、しかもその頃の仲知にはまだ電灯は灯っていなかったから聖堂内は薄暗くて信徒を識別することは難しかったからである。

 
畑中師(その3)へ
 
ホームへ戻る                    
邦人司祭のページへ
inserted by FC2 system